第12話「最後の呪文」

 エレナは、入管の担当者と共に空港を出た。

 搭乗は、キャンセルした。

 ルーマニアへの帰国は、延期になった。

 でも、エレナの心は、まだ混乱していた。

 本当に、これでいいのだろうか?


 翌日、エレナは月島に戻った。

 商店街は、いつものように賑わっていた。

 エレナが歩いていると、田所さんが駆け寄ってきた。

「エレナさん! 戻ってきたのか!」

「はい……」

「よかった! 本当に、よかった!」

 田所さんは、嬉しそうに笑った。

 そして、他の商店街の人々も集まってきた。

「エレナちゃん!」

「おかえり!」

 みんな、笑顔だった。

 エレナは、涙が溢れそうになった。

「みなさん……どうして、そこまで……」

「当たり前だろ」木村さんが言った。「エレナちゃんは、俺たちの仲間だ」

「でも、雇用契約とか……そんな面倒なこと……」

「面倒じゃないよ」銭湯のおばさんが言った。「エレナちゃんがいてくれた方が、商店街も明るくなるし」

 エレナは、深く頭を下げた。

「ありがとうございます……本当に……」

「礼なんていいよ」田所さんが言った。「さあ、呪文屋に戻ろう」


 エレナは、呪文屋に戻った。

 部屋は、荷物を片付けた後で、少し寂しかった。

 でも、また戻ってこられた。

 エレナは、窓を開けた。

 冷たい風が、部屋に入ってくる。

 でも、その風は、優しかった。

 エレナは、深く息を吸った。

 そして、思った。

 ここが、私の居場所だ。


 しかし、その夜。

 エレナは、一人で呪文屋にいた。

 蝋燭を灯し、祖母のノートを開く。

 ビザの問題は、一時的に解決した。

 でも、本当にこれでいいのだろうか?

 エレナは、自分に問いかけた。

 日本に残ること。

 それは、正しい選択なのか?

 それとも、逃げているだけなのか?

 エレナは、ルーマニアの故郷を思い出した。

 黒い森、石造りの家、祖母の墓。

 そして、まだ謝っていない人々。

 ソフィアの家族。

 村の人々。

 エレナは、自分が故郷から逃げてきたことを、知っていた。

 贖罪のために、日本に来た。

 でも、本当の贖罪は、故郷で行うべきなのかもしれない。

 エレナは、深く息をついた。

 そして、決心した。

 自分自身のために、呪文を唱えよう。

 許しの呪文を。


 エレナは、ノートに何かを書き始めた。

 ルーマニア語と日本語が混ざった、美しい言葉。

 それは、エレナ自身への呪文だった。

「Inima mea(私の心よ)、故郷を許せ

過去を許せ、自分を許せ

私は自由、愛は巡る

ここにいても、あそこにいても

私は私、それでいい」

 エレナは、その言葉を何度も読み返した。

 そして、声に出して唱えた。

「Inima mea……私の心よ、故郷を許せ」

 蝋燭の炎が、揺れた。

「過去を許せ、自分を許せ」

 エレナの声が、部屋に響いた。

「私は自由、愛は巡る」

 エレナの目から、涙が溢れた。

「ここにいても、あそこにいても」

 涙が、頬を伝う。

「私は私、それでいい」

 三回。

 エレナは、呪文を唱え終えた。

 そして、顔を覆って、泣いた。

 声を出して、泣いた。

 三年間、ずっと我慢してきた涙。

 故郷を離れてから、ずっと抱えてきた罪悪感。

 全てが、溢れ出した。

 エレナは、泣き続けた。

 でも、その涙は、悲しみだけじゃなかった。

 解放の涙でもあった。

 許しの涙でもあった。


 翌朝、エレナは目を覚ました。

 窓から、朝日が差し込んでいる。

 エレナは、不思議と心が軽かった。

 昨夜、泣いたおかげだろうか。

 エレナは、ベッドから起き上がった。

 そして、郵便受けを確認すると、一通の手紙が入っていた。

 差出人は、ルーマニアから。

 エレナは、驚いた。

 誰から?

 エレナは、手紙を開けた。

 中には、ルーマニア語で書かれた手紙が入っていた。

 読み始めると、エレナの手が震えた。

「エレナへ

お久しぶりです。覚えていますか? 私は、ソフィアの妹、マリアです。

あなたが日本に行ってから、もう三年になりますね。

最初は、あなたのことを恨んでいました。姉が死んだのは、あなたの祖母の呪文のせいだと。

でも、時間が経って、分かってきました。

姉が選んだのは、姉自身です。

祖母さんは、警告したはずです。でも、姉は聞かなかった。

だから、あなたや祖母さんのせいではありません。

どうか、自分を責めないでください。

そして、もし可能なら、いつか故郷に戻ってきてください。

村の人々も、あなたを待っています。

あなたは、私たちの一部です。

愛を込めて

マリア」

 エレナは、手紙を読み終えて、涙が溢れた。

 でも、今度は、悲しみの涙じゃなかった。

 安堵の涙だった。

 許された。

 ソフィアの家族に、許された。

 エレナは、手紙を胸に抱きしめた。

 そして、小さく呟いた。

「Mulțumesc(ありがとう)」


 その日の午後、エレナは商店街を歩いた。

 そして、田所さんの魚屋に立ち寄った。

「田所さん」

「おう、エレナさん。どうした?」

「あの……相談があるんです」

「何?」

 エレナは、少し躊躇したが、言った。

「実は、いつか……故郷に、戻らなきゃいけないかもしれません」

 田所さんは、少し驚いた顔をした。

「……そうか」

「ビザの問題は解決しました。でも、故郷に、まだやり残したことがあって……」

「分かるよ」田所さんは、優しく言った。「故郷は、大切だからな」

「はい」

「でも、エレナさん」田所さんは、笑った。「いつでも、戻ってこいよ。ここは、エレナさんの第二の故郷だから」

 エレナは、涙が溢れそうになった。

「……ありがとうございます」

「それに、今すぐ帰るわけじゃないんだろ?」

「はい。まだ、ここでやりたいことがあります」

「じゃあ、それが終わってから、ゆっくり考えればいい」

 エレナは、頷いた。


 その夜、エレナは呪文屋で、一人で考えていた。

 手紙を、何度も読み返した。

 マリアの言葉。

「もし可能なら、いつか故郷に戻ってきてください」

 エレナは、決めた。

 いつか、必ず戻ろう。

 故郷に。

 でも、今は、まだここにいよう。

 日本で、もっと人を助けよう。

 もっと、呪文を授けよう。

 そして、自分自身も、もっと成長しよう。

 エレナは、窓の外を見た。

 月島の夜景。

 商店街の明かり。

 この景色を、もう少し見ていたい。

 エレナは、蝋燭を見つめた。

 炎が、ゆらりと揺れる。

 そして、小さく呟いた。

「私は、ここにいる。今は」


 数日後。

 呪文屋のドアの紙が、新しいものに変わった。

「営業再開いたしました。

これからも、よろしくお願いいたします。

エレナ・ポペスク」

 そして、その日の午後。

 最初の客が訪れた。

 ドアの鈴が鳴る。

 エレナは、顔を上げた。

「いらっしゃい」

 若い女性が、店に入ってきた。

「あの……ここ、呪文屋ですか?」

「ええ」

「私……悩みがあって……」

 エレナは、微笑んだ。

「座って。話を聞かせて」

 女性は、椅子に座った。

 そして、エレナに悩みを話し始めた。

 エレナは、静かに聞いた。

 そして、心の中で思った。

 私は、ここにいる。

 今は、ここが私の居場所。

 でも、いつか、故郷に戻る日が来るかもしれない。

 それがいつになるかは、分からない。

 でも、それでいい。

 今を生きよう。

 ここで、人を助けよう。

 それが、今の私の使命だから。


 その夜、エレナは一人、窓の外を眺めていた。

 月が、静かに輝いている。

 エレナは、ルーマニア語で、小さく呟いた。

「Mulțumesc, Japonia(ありがとう、日本)」

 そして、日本語で続けた。

「ありがとう、みんな」

 エレナは、微笑んだ。

 そして、蝋燭を吹き消した。

 部屋は、闇に包まれた。

 でも、エレナの琥珀色の瞳だけが、月明かりの中で、静かに輝いていた。

 彼女の物語は、まだ続く。

 日本で、そしていつか故郷で。

 呪文屋は、まだ開いている。

 困った人々のために。

 助けを求める人々のために。

 そして、エレナ自身のために。


 翌朝、月島の商店街は、いつものように賑わっていた。

 魚屋、八百屋、パン屋。

 人々が、それぞれの人生を生きている。

 そして、雑居ビルの二階。

 古びた木製の看板が、風に揺れていた。

「呪文屋 Vrăjitorie」

 その看板の下で、エレナは今日も、誰かを待っている。

 悩みを抱えた誰かを。

 助けを求める誰かを。

 そして、その人に、呪文を授ける。

 言葉の力で、心を動かす呪文を。

 呪文は、魔法じゃない。

 でも、呪文は、人を救うことができる。

 それを、エレナは知っている。

 だから、今日も、エレナは待っている。

 月島の路地裏で、静かに。

―― 第12話 了 ――

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月島の呪文屋 —黒い森から来た魔女の物語— ソコニ @mi33x

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