第11話「店を閉める日」
十二月十五日。
エレナは、呪文屋のドアに小さな紙を貼った。
「十二月三十一日をもって、閉店いたします。
これまで、ありがとうございました。
エレナ・ポペスク」
エレナは、その紙を見つめた。
そして、深く息をついた。
決めたことだった。
でも、心は重かった。
その日の午後、最初に気づいたのは、田所さんだった。
魚屋の仕事を終えて、商店街を歩いていたとき、呪文屋の看板に貼られた紙を見つけた。
「……閉店?」
田所さんは、驚いて、紙を読み返した。
そして、すぐに呪文屋の階段を上った。
ドアをノックする。
「エレナさん! いるかい!」
中から、エレナの声が聞こえた。
「はい、開いてます」
田所さんは、ドアを開けた。
エレナは、いつものように、テーブルに座っていた。
「田所さん、どうしたんですか?」
「どうしたもこうしたもないよ! 閉店って、どういうことだ!」
エレナは、少し困った顔をした。
「……そのままの意味です。十二月三十一日で、店を閉めます」
「なんで!? 理由を教えてくれよ!」
エレナは、黙った。
そして、小さく言った。
「……個人的な事情です」
「個人的な事情って……」田所さんは、心配そうに言った。「エレナさん、何かあったのか? 俺たち、何か悪いことしたか?」
「いいえ」エレナは、首を振った。「みんな、とても優しくしてくれました。でも……もう、ここにはいられないんです」
「どういうことだよ……」
エレナは、それ以上何も言わなかった。
田所さんは、ため息をついた。
「……分かった。でも、寂しくなるな」
「ごめんなさい」
田所さんは、店を出た。
そして、すぐに商店街の人々に知らせた。
その日の夕方、商店街は騒然となった。
八百屋の木村さん、銭湯のおばさん、パン屋の店主。
みんな、呪文屋の閉店の知らせを聞いて、驚いていた。
「エレナちゃん、本当に帰るのか?」
「なんで? 何かあったの?」
「寂しくなるな……」
木村さんは、すぐに呪文屋に向かった。
そして、エレナに聞いた。
「エレナちゃん、本当に店を閉めるのか?」
「はい」
「理由は?」
エレナは、少し躊躇した。
でも、木村さんの優しい目を見て、少しだけ話すことにした。
「……ビザが、切れるんです」
「ビザ?」
「はい。日本に滞在するための、ビザ。それが、今年で切れます」
「更新できないのか?」
「……難しいです」エレナは、小さく言った。「私は、観光ビザで来ました。でも、それを何度か更新して……もう、限界なんです」
木村さんは、困った顔をした。
「じゃあ、働くビザに変えられないのか?」
「それも、難しいです。私は、正式な仕事をしているわけじゃないので……」
木村さんは、深く息をついた。
「そうか……」
エレナは、微笑んだ。
「でも、ここでの三年間は、とても幸せでした。みんな、優しくしてくれて……」
「エレナちゃん……」
木村さんは、何も言えなかった。
その夜、商店街の人々が集まった。
田所さんの魚屋で、緊急会議。
「何とかできないか?」田所さんが言った。
「でも、ビザの問題だろ? 俺たち、どうしようもないんじゃないか?」パン屋の店主が言った。
「いや、諦めるのは早い」銭湯のおばさんが言った。「何か、方法があるはずよ」
「例えば?」
「うーん……」
みんな、黙った。
そして、木村さんが言った。
「働くビザに変えられないか?」
「でも、エレナちゃん、どこかの会社に雇われてるわけじゃないだろ?」
「だったら、俺たちが雇えばいい」
みんな、驚いた顔をした。
「雇うって……どうやって?」
「例えば、商店街の協同組合で雇うとか」木村さんは続けた。「エレナちゃんを、商店街のイベント企画担当とか、何かの名目で雇えば、働くビザに変えられるんじゃないか?」
「でも、それって、法的に大丈夫なのか?」
「分からん。でも、調べる価値はある」
田所さんは、頷いた。
「よし、じゃあ明日、入管に相談に行ってみるか」
「俺も行く」
「私も」
みんな、エレナのために動き始めた。
翌日、田所さんと木村さんは、入管に相談に行った。
でも、結果は厳しかった。
「観光ビザから働くビザへの変更は、原則としてできません」担当者は言った。
「でも、何か方法があるんじゃないですか?」
「方法としては、一度ルーマニアに帰国して、日本大使館で働くビザを申請することです。でも、それには雇用契約書や、会社の登記簿謄本などが必要になります」
「じゃあ、商店街の協同組合で雇えば……」
「協同組合でも可能ですが、正式な雇用契約と、給与の支払い実績が必要です。また、申請から許可が下りるまで、数ヶ月かかります」
田所さんは、ため息をついた。
「……難しいんですね」
「はい。ビザの問題は、簡単ではありません」
二人は、入管を後にした。
その夜、田所さんは、エレナに報告した。
「エレナさん、入管に相談に行ってきたんだ」
「え……?」
「でも、やっぱり難しいらしい。一度ルーマニアに帰って、ビザを申請し直さないといけないって」
エレナは、少し驚いた顔をした。
「田所さん……そこまで、してくれたんですか……」
「当たり前だろ。エレナさんは、俺たちの仲間だ」
エレナの目から、涙が溢れた。
「ありがとうございます……でも、大丈夫です。私は、もうルーマニアに帰ることに決めました」
「でも……」
「三年間、ここで過ごせて、本当に幸せでした」エレナは、微笑んだ。「みんな、優しくて……ここが、第二の故郷みたいに感じました」
田所さんは、何も言えなかった。
それから、商店街の人々は、エレナのために何かできないかと考え続けた。
でも、ビザの問題は、どうしようもなかった。
そして、十二月三十日。
エレナの最後の営業日。
その日、呪文屋には、たくさんの人が訪れた。
美咲、隆、春子、あかり、一郎、ユウタ、ケン、麻美。
エレナが助けた人々が、みんな集まった。
「エレナさん、本当に帰っちゃうんですか?」美咲が言った。
「ええ。でも、みんなに会えて、良かった」
「寂しくなります……」春子が言った。
「私も、寂しいわ。でも、みんな、もう大丈夫でしょ?」
「はい」あかりが頷いた。「エレナさんのおかげで、私、変われました」
「私もです」麻美が言った。
エレナは、微笑んだ。
「よかった。それが、私の一番の喜びです」
一郎が、封筒を差し出した。
「エレナさん、これ……少ないですけど、お礼です」
「お金は、いらないわ」エレナは、首を振った。
「でも……」
「あなたたちが幸せになること。それが、私への一番のお礼」
みんな、涙を流した。
そして、ユウタとケンが言った。
「エレナさん、俺たち、一生忘れません」
「ありがとう」
夕方、商店街の人々も集まった。
田所さん、木村さん、銭湯のおばさん、パン屋の店主。
みんな、エレナに別れを告げに来た。
「エレナさん、本当にお世話になったよ」田所さんが言った。
「こちらこそ、ありがとうございました」
「また、いつか戻ってきてくれよ」木村さんが言った。
「……できれば、戻ってきたいです。でも、分かりません」
銭湯のおばさんが、エレナを抱きしめた。
「エレナちゃん、幸せになってね」
「ありがとうございます」
みんな、泣いていた。
エレナも、涙を流した。
「みんな……ありがとうございました。ここで過ごした三年間は、私の宝物です」
その夜、エレナは一人、呪文屋にいた。
荷物は、ほとんど片付けた。
明日、空港に向かう。
そして、ルーマニアに帰る。
エレナは、窓の外を見た。
月島の夜景。
商店街の明かり。
エレナは、この景色を、一生忘れないだろう。
エレナは、祖母のノートを取り出した。
そして、最後のページに、自分で何かを書いた。
「日本での三年間、ありがとう。
ここで、たくさんの人に出会えた。
たくさんの人を助けられた。
そして、自分自身も、救われた。
いつか、また戻ってこられますように。
エレナ」
エレナは、ノートを閉じた。
そして、蝋燭を吹き消した。
部屋は、闇に包まれた。
でも、エレナの琥珀色の瞳だけが、月明かりの中で、静かに輝いていた。
翌日、十二月三十一日。
エレナは、早朝に呪文屋を出た。
スーツケースを持って、階段を降りる。
そして、商店街を歩く。
まだ、店は開いていない。
静かな朝。
でも、魚屋の前に、田所さんが立っていた。
「エレナさん」
「田所さん……」
「見送りに来たよ」
「ありがとうございます」
二人は、少し歩いた。
そして、駅に着いた。
田所さんは、エレナの手を握った。
「エレナさん、また会えるよな?」
「……分かりません。でも、会えたら嬉しいです」
「俺も」
エレナは、深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
「こちらこそ。元気でな」
エレナは、駅に入った。
そして、振り返って、手を振った。
田所さんも、手を振った。
エレナは、改札を通った。
そして、電車に乗った。
空港に着くと、エレナはチェックインを済ませた。
搭乗まで、あと一時間。
エレナは、カフェに座った。
そして、スマホを見た。
田所さんからメッセージが来ていた。
「エレナさん、無事に空港に着きましたか? 気をつけて帰ってくださいね。また会える日を楽しみにしています」
エレナは、涙が溢れそうになった。
そして、返信した。
「はい、無事に着きました。本当に、ありがとうございました。また、いつか」
エレナは、スマホを置いた。
そして、窓の外を見た。
飛行機が、滑走路に並んでいる。
もうすぐ、自分もあの飛行機に乗る。
そして、ルーマニアに帰る。
故郷に。
エレナは、胸が締め付けられた。
日本を離れるのは、辛い。
でも、仕方ない。
それが、ルールだから。
エレナは、深呼吸をした。
そして、搭乗ゲートに向かった。
しかし、その時。
エレナのスマホが鳴った。
知らない番号からだった。
エレナは、電話に出た。
「もしもし」
「エレナ・ポペスクさんですか?」
「はい」
「私、入国管理局の者です。あなたのビザについて、緊急の連絡があります」
エレナは、驚いた。
「え……?」
「実は、月島商店街協同組合から、あなたの雇用に関する申請が出されています。それについて、至急お話ししたいのですが」
エレナは、信じられなかった。
「商店街……が?」
「はい。詳しくは、直接お会いして説明したいのですが、今、どちらにいらっしゃいますか?」
「……空港です。これから、ルーマニアに帰るところです」
「そうですか。では、できれば、搭乗を少し待っていただけますか? 至急、担当者を向かわせます」
エレナは、混乱した。
でも、頷いた。
「……分かりました」
電話を切った後、エレナは呆然と立っていた。
商店街が、自分を雇用?
どういうことだろう。
エレナは、搭乗ゲートの前で待った。
そして、三十分後。
入管の担当者が、駆けつけてきた。
「エレナさん、お待たせしました」
「……どういうことですか?」
「実は、月島商店街協同組合が、あなたを『文化交流コーディネーター』として正式に雇用したいと申し出ています。それに伴い、働くビザの申請が可能です」
エレナは、目を見開いた。
「でも……そんな、急に……」
「商店街の方々が、必死に動いてくれたようです。雇用契約書も、すでに準備されています」
担当者は、書類を見せた。
そこには、田所さん、木村さん、そして商店街の人々の署名があった。
エレナは、涙が溢れた。
「みんな……」
「エレナさん、もし希望されるなら、ビザの申請手続きを進めます。ただし、許可が下りるまで数ヶ月かかりますが、その間は仮滞在が認められます」
エレナは、震える声で言った。
「……本当に、いいんですか?」
「はい。商店街の方々が、あなたを必要としています」
エレナは、泣きながら頷いた。
「……お願いします」
―― 第11話 了 ――
次回、第12話「最後の呪文」(シーズン1最終回)に続く
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