第4話「美しくなる言葉」

 木村あかりは、スマホの画面を睨んでいた。

 自撮り写真。何度撮り直しても、気に入らない。

 角度を変える。照明を調整する。フィルターをかける。

 でも、やっぱり何かが違う。

 あかりは、ため息をついて、スマホを投げ出した。

 美大三年生。絵を描くことは好きだ。でも、自分の顔は嫌いだった。

 目が小さい。鼻が低い。輪郭が丸い。

 友人たちは、みんな可愛い。SNSに投稿する写真には、たくさんの「いいね」がつく。

 でも、あかりの投稿には、十個もつけばいい方だった。

 あかりは、ベッドに倒れ込んだ。

 どうして、私はこんな顔に生まれたんだろう。


 翌日、あかりは大学のカフェテリアで友人の優香と昼食を取っていた。

「ねえ、あかり」優香が、スマホを見せてきた。「このカフェ、インスタ映えするって話題なんだって。今度行かない?」

 画面には、おしゃれなカフェの写真が並んでいる。そして、そこで笑顔で写真を撮る女の子たち。

 みんな、可愛い。

「……私、行ってもなあ」あかりは、小さく言った。

「え、何で?」

「だって、私が写真撮っても、どうせいいね少ないし」

「そんなこと気にしてるの?」優香は、驚いた顔をした。「あかりの絵、すごく素敵なのに」

「絵と顔は、別でしょ」

 優香は、少し困った顔をした。

「あかり……最近、ちょっと気にしすぎじゃない? SNSのいいねなんて、気にしなくていいのに」

「でも……」

 あかりは、言葉に詰まった。

 気にしなくていい。

 みんな、そう言う。

 でも、気になってしまう。

 他人と比べてしまう。

 そして、自分が嫌いになる。


 その夜、あかりは一人でスマホを眺めていた。

 フォローしているインフルエンサーたちの投稿。

 みんな、完璧だ。

 完璧な顔、完璧なスタイル、完璧な生活。

 あかりは、自分の顔を鏡で見た。

 やっぱり、嫌いだった。

 あかりは、スマホで検索した。「容姿コンプレックス 克服」。

 たくさんの記事が出てくる。でも、どれを読んでも、心には響かなかった。

 そして、偶然見つけた。

 あるSNSの投稿。

「月島に『呪文屋』っていう不思議な店がある。悩みを相談すると、呪文をもらえるらしい」

 呪文屋?

 あかりは、興味を持った。

 胡散臭い。でも、もう他に頼るものがなかった。


 週末、あかりは月島を訪れた。

 古い商店街を抜け、路地の奥へ。

 そして、雑居ビルの二階への階段を見つけた。

「呪文屋 Vrăjitorie」

 あかりは、階段を上り、ドアを開けた。


 部屋の中は、静かで、落ち着いていた。

 本棚、丸テーブル、蝋燭。そして、黒いワンピースを着た女性。

 あかりは、その女性を見て、息を呑んだ。

 美しい。

 黒い髪、琥珀色の瞳、高い頬骨。

 モデルみたいだ。

「いらっしゃい」

 女性の声は、低く、優しかった。

 あかりは、椅子に座った。

「私はエレナ」女性は言った。「あなたは?」

「木村、あかりです」

「あかりさん」エレナは、ゆっくりと名前を繰り返した。「あなたは、何を求めてここに来たの?」

 あかりは、少し躊躇した。

 こんな美しい人に、自分の悩みを話すのは恥ずかしかった。

 でも、言葉が口から出た。

「……美しくなりたいんです」あかりは、小さく言った。「自分の顔が、嫌いで」

 エレナは、黙って聞いていた。

「SNSで友達の投稿を見るたびに、比べちゃって。みんな可愛くて、私だけブスで……」あかりの声が、震えた。「自撮りも、何回撮っても気に入らなくて。いいねも全然つかなくて……」

 エレナは、静かに頷いた。

「分かったわ」彼女は言った。「あなたには、『美の呪文』が必要ね」

「……本当に、美しくなれるんですか?」

「それは、あなた次第」エレナは、本棚からノートを取り出した。「呪文は、魔法じゃない。でも、あなたの『見方』を変えることはできる」

 エレナは、ペンを取り出して、ノートに何かを書き始めた。

「ルーマニアでは、美しさは『外見』だけじゃないと考えられてきた」エレナは、書きながら言った。「本当の美しさは、内側から輝くもの。心の美しさ、魂の美しさ」

「でも……」あかりは言った。「みんな、外見しか見ないじゃないですか」

「みんな?」エレナは、ペンを止めて、あかりを見た。「あなたは、『みんな』のために生きているの?」

 あかりは、言葉に詰まった。

「あなたは、あなた自身のために生きるべき」エレナは、続けた。「他人の評価じゃなく、自分の心に従って」

 あかりは、何も言えなかった。

 エレナは、ノートを閉じた。

「でもね、あかりさん」エレナは言った。「呪文には、必ず『代償』が必要」

「代償……それは?」

「三ヶ月間、鏡を見ないこと」

 あかりは、目を見開いた。

「え……?」

「鏡を見ない。自分の顔を確認しない。自撮りもしない」エレナは、静かに言った。「それが、代償」

「でも……」あかりは、戸惑った。「それじゃ、自分の顔が分からなくなっちゃう」

「それでいいの」エレナは言った。「あなたは、自分の顔を気にしすぎている。だから、一度忘れる必要がある」

 あかりは、唇を噛んだ。

 三ヶ月も、鏡を見ない?

 毎朝、鏡で自分の顔をチェックするのが習慣だった。メイクも、髪型も、全部鏡で確認する。

 それを、やめろというのか。

「……できるかな」あかりは、不安そうに言った。

「できるかどうかは、あなた次第」エレナは言った。「でも、本当に美しくなりたいなら、やってみる価値はある」

 あかりは、少し考えた。

 そして、頷いた。

「……やってみます」

 エレナは、ノートのページを破り、あかりに手渡した。

「Frumusețea mea(私の美しさよ)、内側から咲け

鏡は嘘、心は真実

私は私、それだけで美しい」

「これを、毎朝起きたときに三回唱えて」エレナは言った。「そして、鏡を見ないで。自分の外見じゃなく、内面に意識を向けて」

 あかりは、紙を受け取った。

「三ヶ月後、もう一度ここに来て」エレナは言った。「そのとき、あなたは変わっているはず」

 あかりは、頷いて、店を出た。


 家に帰ると、あかりはすぐに全ての鏡を布で覆った。

 洗面所の鏡、玄関の鏡、手鏡。

 全部、見えないようにした。

 そして、その夜、呪文を唱えた。

「Frumusețea mea……私の美しさよ、内側から咲け」

 言葉が、部屋に響いた。

「鏡は嘘、心は真実」

 あかりは、深呼吸をした。

「私は私、それだけで美しい」

 三回。

 あかりは、ベッドに横になった。

 不安だった。

 でも、同時に、少しだけ期待もしていた。


 最初の一週間は、辛かった。

 毎朝、無意識に鏡を見ようとして、布に覆われているのを思い出す。

 メイクをするときも、手探りだった。アイラインが曲がっているかもしれない。リップが はみ出しているかもしれない。

 でも、確認できない。

 あかりは、スマホの自撮りカメラも使わないようにした。

 そして、SNSも開かなくなった。

 自分の顔が確認できないなら、投稿する意味がない。


 でも、不思議なことが起こり始めた。

 鏡を見なくなってから、あかりは絵を描く時間が増えた。

 これまで、SNSを眺めていた時間を、キャンバスに向かう時間に使うようになった。

 そして、友人との会話も増えた。

 スマホの画面を見る代わりに、友人の顔を見るようになった。優香の笑顔、他の友人たちの表情。

 あかりは、気づいた。

 これまで、自分はずっとスマホの画面を見ていた。

 自分の顔、他人の投稿、いいねの数。

 でも、本当に大切なものを、見ていなかった。


 一ヶ月が過ぎた。

 あかりは、大学の課題で風景画を描いていた。

 隅田川の夕暮れ。オレンジ色に染まる空。

 筆を動かしながら、あかりは思った。

 美しさって、何だろう。

 完璧な顔? 整った鼻? 大きな目?

 それとも、この夕焼けのように、一瞬で消えてしまうけど、心に残るもの?

「あかり、それ、すごく素敵」

 優香が、後ろから覗き込んだ。

「ありがとう」

「なんか、最近のあかりの絵、前よりもっと良くなった気がする」優香は言った。「なんていうか……魂がこもってる感じ?」

 あかりは、少し驚いた。

「そう?」

「うん。前は、綺麗だけど何か物足りない感じだったんだけど、今は違う。見てると、引き込まれる」

 あかりは、自分の絵を見た。

 確かに、何かが変わっていた。

 技術じゃない。何か、もっと深いもの。


 二ヶ月が過ぎた。

 あかりは、もう鏡のことをほとんど気にしなくなっていた。

 毎朝、呪文を唱える。メイクは手探りでする。でも、それでいい。

 大学で、教授に呼ばれた。

「木村さん、最近の作品、とても良いですね」

「ありがとうございます」

「特に、この風景画。構図も色使いも素晴らしいけど、それ以上に、『感情』が伝わってくる。これは、大切なことです」

 教授は、微笑んだ。

「芸術は、技術じゃない。心です。あなたは、それを理解し始めている」

 あかりは、胸が熱くなった。


 そして、三ヶ月が過ぎた。

 あかりは、再び呪文屋を訪れた。

 エレナは、同じ場所に座っていた。

「おかえりなさい、あかりさん」エレナは、微笑んだ。

「エレナさん」あかりは、椅子に座った。「三ヶ月、鏡を見ませんでした」

「よく頑張ったわね」

「最初は辛かったけど……今は、全然平気です」あかりは言った。「むしろ、鏡を見ない方が、楽になった気がします」

「それは良かった」エレナは言った。「それで、今日は?」

「鏡を、見てもいいですか?」

「もちろん」エレナは、立ち上がり、本棚の隣にある姿見の布を取った。

 あかりは、ゆっくりと鏡の前に立った。

 そして、自分の顔を見た。

 三ヶ月ぶりの、自分の顔。

 あかりは、息を呑んだ。

 顔は、変わっていなかった。

 目の大きさも、鼻の高さも、輪郭も、全部同じ。

 でも、何かが違った。

 表情が、違った。

 以前は、いつも不安そうで、暗かった。

 でも、今の自分は、穏やかで、優しい顔をしていた。

「……変わってない」あかりは、小さく言った。「でも、なんか……悪くない」

 エレナは、微笑んだ。

「あなたの顔は、変わっていない。変わったのは、あなたの『見方』」

 あかりは、鏡を見たまま頷いた。

「三ヶ月前のあなたは、自分の顔の『欠点』しか見ていなかった」エレナは言った。「でも、今のあなたは、自分の『全体』を見ている」

「……そうかもしれません」

「美しさは、外見じゃない」エレナは、続けた。「美しさは、あなたがどう生きるか、どう感じるか、どう表現するか。それが、顔に現れる」

 あかりは、もう一度自分の顔を見た。

 確かに、以前とは違う。

 この三ヶ月、あかりは絵を描くことに集中した。友人との時間を大切にした。自分の内面に意識を向けた。

 そして、それが顔に現れていた。

 穏やかさ、優しさ、自信。

「ルーマニアの古い言葉で、こういうのがある」エレナは、ルーマニア語で何かを言った。「Frumusețea vine din suflet(美しさは魂から来る)」

 あかりは、その言葉を繰り返した。

「Frumusețea vine din suflet……美しさは、魂から来る」

「そう」エレナは、頷いた。「あなたの魂が美しければ、それは顔に現れる。それが、本当の美しさ」

 あかりは、涙が溢れそうになった。

「ありがとうございます、エレナさん」

「どういたしまして」

 あかりは、鏡から離れた。

 そして、気づいた。

 もう、自分の顔が嫌いじゃなかった。

 好きとまでは言えないかもしれない。でも、受け入れられる。

 これが、私。

 それだけで、十分だった。


 その夜、あかりは久しぶりにSNSを開いた。

 でも、他人の投稿を見ても、以前のような羨ましさは感じなかった。

 あかりは、自分の風景画の写真を投稿した。

 自撮りじゃない。でも、これが今の自分を表している。

 投稿して、スマホを置いた。

 いいねの数は、気にしなかった。

 大切なのは、自分が満足していること。

 それだけだった。


 翌朝、あかりがスマホを確認すると、驚いた。

 昨日の投稿に、百を超えるいいねがついていた。

 そして、コメントもたくさん。

「この絵、めちゃくちゃ素敵!」

「あかりちゃん、才能あるね!」

「もっと見たい!」

 あかりは、思わず笑ってしまった。

 皮肉なものだ。

 いいねが欲しくて必死だったときは、全然もらえなかった。

 でも、いいねを気にしなくなったら、たくさんもらえるようになった。

 あかりは、呪文の紙を取り出した。

「私は私、それだけで美しい」

 あかりは、鏡の前に立って、自分に向かって言った。

「私は私。それだけで、美しい」

 そして、微笑んだ。

 鏡の中の自分も、微笑んでいた。


 数週間後、あかりは大学の展覧会に作品を出展した。

 風景画のシリーズ。隅田川、月島の路地、夕焼け。

 展覧会には、たくさんの人が訪れた。

 そして、ある女性が、あかりの作品の前で立ち止まった。

「素敵な絵ね」

 あかりは、振り返った。

 黒いワンピースを着た、琥珀色の瞳の女性。

 エレナだった。

「エレナさん!」あかりは、驚いた。「来てくれたんですか?」

「ええ。招待状をもらったから」エレナは、微笑んだ。「あなたの絵、とても美しいわ」

「ありがとうございます」

「あなたの魂が、キャンバスに映っている」エレナは、絵を見ながら言った。「これが、本当の美しさ」

 あかりは、胸が熱くなった。

「エレナさん」あかりは言った。「あなたが教えてくれたこと、一生忘れません」

「私は、何も教えていない」エレナは言った。「あなた自身が、気づいたのよ」

 二人は、しばらく絵を眺めていた。

 そして、エレナが言った。

「あかりさん、これからも絵を描き続けて。あなたの美しさを、世界に伝えて」

「はい」あかりは、力強く頷いた。

 エレナは、微笑んで、展覧会を後にした。

 あかりは、彼女の後ろ姿を見送った。


 その夜、エレナは呪文屋に戻った。

 蝋燭を灯し、窓の外を眺める。

 月が、静かに輝いている。

 エレナは、自分の顔を鏡で見た。

 琥珀色の瞳、高い頬骨、整った顔立ち。

 人は、彼女を美しいと言う。

 でも、エレナは知っていた。

 本当の美しさは、外見じゃない。

 心の中にある。

 彼女は、ルーマニア語で呟いた。

「Frumusețea vine din suflet(美しさは魂から来る)」

 そして、蝋燭を吹き消した。

 部屋は、闇に包まれた。

 でも、エレナの琥珀色の瞳だけが、月明かりの中で、静かに輝いていた。

―― 第4話 了 ――


次回、第5話「お金の魔法」に続く

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