第3話「母の呪縛」

 佐藤春子の携帯電話が鳴ったのは、夕食の支度をしているときだった。

 画面に表示された名前を見て、春子の手が止まった。

「母」

 春子は、電話を無視した。

 しかし、着信音は止まらない。一度、二度、三度。

 春子は、ため息をついて、電話に出た。

「もしもし」

「春子! やっと出た! 何度かけたと思ってるの!」

 母の声は、いつものように甲高く、責めるような口調だった。

「ごめんなさい、料理してて」

「料理? また手の込んだものでも作ってるの? あなた、そんな暇があるなら、もっとお母さんのこと心配しなさいよ。一人暮らしなんだから」

「……何かあったの?」

「何かって、別に何もないわよ。ただ、寂しいから電話しただけ。娘から電話一本もないんだもの」

 春子は、フライパンの火を止めた。

「この前、電話したでしょ。三日前」

「三日も前よ! 親不孝ね、あなたは。お兄ちゃんなんて、毎日電話してくるのに」

 春子は、頭が痛くなってきた。

 兄は、実家から車で十五分の距離に住んでいる。春子は、結婚して都内に引っ越した。それだけで、母は「捨てられた」と思っているようだった。

「今週末、そっちに行くから」春子は言った。「買い物にも付き合うし」

「今週末? じゃあ、土曜日ね。朝十時に来て。それで、昼ごはんも一緒に食べましょう。あ、それと、駅前にできた新しいスーパーにも行きたいの。それから――」

「……分かった。じゃあ、また連絡する」

 春子は、電話を切った。

 そして、深くため息をついた。


 その夜、夫の健太が帰ってきた。

「ただいま」

「おかえりなさい」春子は、笑顔で迎えた。「ご飯、できてるよ」

「ありがとう」健太は、ネクタイを緩めながらダイニングに座った。「今日はハンバーグか。いいな」

 春子は、夕食を並べた。

 二人で食事をしながら、健太が聞いた。

「今日、お義母さんから電話あった?」

「……うん」春子は、箸を持つ手が止まった。「今週末、実家に行くことになった」

「また? 先週も行ったばかりじゃないか」

「分かってる。でも……」

「春子」健太は、真剣な顔で言った。「お前、無理してないか? 最近、お義母さんの電話が来るたびに、顔色悪くなるよ」

「……大丈夫」

「大丈夫じゃないだろ」健太は、ため息をついた。「俺が言うのもなんだけど、もう少し距離置いてもいいんじゃないか? お前、自分の人生も大切にしないと」

 春子は、何も言えなかった。

 健太の言うことは正しい。でも、母を見捨てるようなことは、できなかった。

 父は五年前に亡くなった。それから、母は一人暮らしだ。兄は近くにいるが、仕事が忙しく、あまり実家には顔を出さない。

 だから、春子が支えなければならない。

 そう思っていた。


 土曜日、春子は朝十時に実家に着いた。

 二階建ての古い一軒家。父が生きていた頃は、明るい家だった。でも今は、なんだか暗く感じる。

 インターホンを押すと、すぐに母が出てきた。

「春子! 遅い! もう十時五分よ!」

「ごめんなさい、電車が――」

「言い訳はいいから、早く入って」

 母は、春子を家の中に引っ張り込んだ。

 リビングには、すでにお茶とお菓子が並べられていた。

「さあ、座って。話したいことがたくさんあるの」

 春子は、ソファに座った。

 母は、春子の向かいに座って、矢継ぎ早に話し始めた。

「ね、春子。この前テレビで見たんだけど、最近の若い人って、親の面倒見ないんですって。ひどいわよね。でも、あなたはそんなことないわよね? ちゃんとお母さんのこと、見てくれるわよね?」

「……うん」

「それから、この前お兄ちゃんが来たときに言われたの。『もう少し自立しろ』って。ひどいでしょ? お母さん、こんなに一人で頑張ってるのに。あなたはそんなこと言わないわよね?」

「……言わないよ」

「そうよね。春子は優しい子だもの」母は、満足そうに頷いた。「それで、今日はどこに行く? 駅前のスーパー? それとも、洋服屋さん? この前、素敵なワンピース見つけたの。一緒に見に行きましょう」

 春子は、頭の中が真っ白になっていくのを感じた。

 母の声が、遠くから聞こえる。

 でも、何を言っているのか、もう分からなかった。


 その日の夜、春子は家に帰ってから、すぐにベッドに倒れ込んだ。

 健太が、心配そうに覗き込んだ。

「春子、大丈夫か?」

「……疲れた」春子は、枕に顔を埋めた。「もう、何もしたくない」

「今日も、大変だったんだな」

「うん……」

 健太は、春子の背中をそっと撫でた。

「なあ、春子。一度、誰かに相談してみたらどうだ? カウンセラーとか」

「……そんな大げさなことじゃない」

「でも、お前、本当に辛そうだよ」

 春子は、何も答えなかった。

 そして、健太の次の言葉を聞いて、驚いた。

「月島に、『呪文屋』っていう店があるらしい」

「……呪文屋?」

「ああ。会社の後輩が教えてくれた。なんか、困ったことがある人が行くと、呪文をもらえるんだって。で、その呪文が、問題を解決してくれるらしい」

 春子は、顔を上げた。

「そんな店、本当にあるの?」

「分からない。でも、後輩の友達が実際に行って、効果があったって言ってた」健太は、優しく言った。「試してみる価値はあるんじゃないか?」

 春子は、少し考えた。

 呪文屋。

 胡散臭い。でも、もう他に頼るものがなかった。

「……行ってみる」春子は、小さく言った。


 翌週の水曜日、春子は月島を訪れた。

 商店街を抜け、古い路地に入る。そして、雑居ビルの二階への階段を見つけた。

 看板には、こう書かれていた。

「呪文屋 Vrăjitorie」

 春子は、階段を上り、ドアを開けた。


 部屋の中は、静かで、落ち着いていた。

 本棚、丸テーブル、蝋燭。そして、黒いワンピースを着た女性。

「いらっしゃい」

 女性の声は、低く、優しかった。

 春子は、椅子に座った。

「私はエレナ」女性は言った。「あなたは?」

「佐藤、春子です」

「春子さん」エレナは、ゆっくりと名前を繰り返した。「あなたは、何を求めてここに来たの?」

 春子は、少し躊躇した。

 でも、言葉が溢れ出た。

「母のことで……悩んでいます」春子は、声を震わせながら言った。「母が、重いんです。毎日のように電話してきて、週に何度も実家に行かなきゃいけなくて……」

 エレナは、黙って聞いていた。

「母は、私がいないとダメみたいで。でも、私も自分の生活があって……」春子の目から、涙が溢れた。「母を見捨てることもできないし、でも、このままだと私が潰れそうで……」

 春子は、顔を覆った。

 エレナは、静かに立ち上がり、ティッシュの箱を持ってきた。

「ありがとうございます」春子は、涙を拭いた。

 エレナは、再び席に座り、春子の目を見た。

「春子さん」エレナは、静かに言った。「あなたは、お母さんを愛していますか?」

 春子は、その質問に驚いた。

「……愛して、います。でも……」

「でも、同時に恨んでもいる」エレナは、続けた。「お母さんに縛られて、自由がない。そう感じている」

 春子は、頷いた。

「そうです……母を愛しているけど、同時に、母から逃げたいって思ってる自分がいて……そんな自分が、嫌で……」

 エレナは、深く息をついた。

 その表情には、一瞬、悲しみが浮かんだ。

「分かったわ」エレナは、本棚からノートを取り出した。「あなたには、『解放の呪文』が必要ね」

「解放……」

「そう。家族の呪縛を解く呪文」エレナは、ペンを取り出して、ノートに何かを書き始めた。「でも、呪文には必ず『代償』が必要」

「代償……それは?」

「あなたが手放さなければならないもの」エレナは、書きながら言った。「それは、『恨み』」

 春子は、息を呑んだ。

「お母さんへの恨み。怒り。全部、手放して」エレナは、ペンを置いた。「そうしないと、呪縛は解けない」

「でも……」春子は、震える声で言った。「母への恨みを手放したら、私、どうなるんですか? 母のこと、許すってことですか?」

「許すかどうかは、あなた次第」エレナは言った。「でも、恨みを持ち続けることは、あなた自身を縛ることでもある。恨みは、鎖。その鎖を、断ち切らないと」

 春子は、ノートを見た。

「Lanțul mamei(母の鎖よ)、森に還れ

恨みは土に、痛みは雨に

母も私も自由、愛だけが残る」

 春子は、その言葉を何度か読み返した。

 恨みを手放す。

 それができるだろうか。

「……やってみます」春子は、ようやく言った。

 エレナは、ノートのページを破り、春子に手渡した。

「これを、毎晩眠る前に三回唱えて」エレナは言った。「そして、お母さんを思い出すとき、恨みではなく、愛を思い出すようにして」

 春子は、紙を受け取った。

「エレナさん」春子は、聞いた。「あなたも……家族のこと、悩んだことがあるんですか?」

 エレナは、一瞬だけ目を伏せた。

「……ええ」彼女は、小さく言った。「昔、ね」

 それ以上、エレナは何も語らなかった。

 春子は、店を出た。


 その夜、春子は呪文を唱えた。

「Lanțul mamei……母の鎖よ、森に還れ」

 言葉が、部屋に響いた。

「恨みは土に、痛みは雨に」

 春子は、母の顔を思い浮かべた。

 いつも文句を言う母。束縛する母。

 でも、同時に思い出した。

 幼い頃、風邪を引いたとき、一晩中看病してくれた母。

 学校で嫌なことがあったとき、優しく抱きしめてくれた母。

 父が亡くなったとき、一人で泣いていた母。

「母も私も自由、愛だけが残る」

 春子の目から、涙が溢れた。

 でも、今度は違った。

 恨みの涙じゃなく、何かが解けていく涙だった。


 春子は、その週末、実家に行かなかった。

 母から電話がかかってきたが、春子は正直に言った。

「ごめんなさい、お母さん。今週は、自分の時間が欲しいの」

「……え?」母は、驚いたようだった。「どういうこと?」

「お母さんのこと、嫌いなわけじゃない。愛してる。でも、私にも自分の生活があるから」

「春子……」

「来週、また行くから。でも、毎週じゃなくて、二週間に一回くらいにさせて」

 電話の向こうで、母は黙っていた。

 そして、ようやく言った。

「……分かったわ」

 春子は、驚いた。

 母が、こんなにすんなり引き下がるなんて。

「お母さん……」

「ごめんね、春子」母の声が、小さくなった。「私、あなたに頼りすぎてた」

「そんなこと……」

「いいえ、そうなの」母は、続けた。「お父さんが亡くなってから、寂しくて。でも、それをあなたに押し付けちゃいけなかったわ」

 春子は、涙が溢れそうになった。

「お母さん……私も、ごめんなさい。もっと、優しくできたら良かった」

「ううん、あなたは十分優しいわ」

 二人は、しばらく黙っていた。

 でも、その沈黙は、重くなかった。

「じゃあ、来週ね」母は、言った。「楽しみにしてるわ」

「うん。楽しみにしてる」

 電話を切った後、春子は深く息をついた。

 そして、呪文の紙を見た。

「母も私も自由、愛だけが残る」

 恨みを手放す。

 それは、許すことだけじゃなかった。

 お互いに、自由になることだった。


 しかし、その数日後。

 春子に、兄から電話がかかってきた。

「春子、母さんが倒れた」

 春子は、血の気が引いた。

「え……?」

「今、病院にいる。すぐに来てくれ」


 春子は、タクシーで病院に駆けつけた。

 集中治療室の前で、兄が待っていた。

「どうしたの!?」春子は、息を切らしながら聞いた。

「軽い脳梗塞だって」兄は、疲れた顔で言った。「命に別状はないけど、しばらく入院が必要らしい」

「そんな……」

「母さん、お前に会いたがってる」兄は、言った。「中に入れるから」

 春子は、頷いて、病室に入った。


 母は、ベッドに横たわっていた。

 点滴が繋がれ、顔色は悪かった。でも、意識ははっきりしていた。

「春子……」母は、か細い声で言った。

「お母さん!」春子は、ベッドの脇に駆け寄った。「大丈夫?」

「ごめんね……心配かけて」

「何言ってるの! 無理しちゃダメだよ!」

 母は、弱々しく笑った。

「あのね、春子」母は、春子の手を握った。「この前、あなたに言われたこと、ずっと考えてたの」

「え……?」

「『私にも自分の生活がある』って。その通りだと思った」母は、続けた。「私、あなたに依存しすぎてた。お父さんがいなくなってから、寂しくて……でも、それをあなたに押し付けちゃいけなかった」

「お母さん……」

「あなたには、あなたの人生がある。私は、もっと自分で頑張らないと」

 春子の目から、涙が溢れた。

「お母さん、ごめんなさい。私も、もっと優しくできたら――」

「ううん」母は、首を振った。「あなたは十分優しい。でも、私が甘えすぎてた」

 春子は、母の手を強く握った。

「これから、一緒に頑張ろう」春子は言った。「お母さんも、私も。お互いに自由で、でも支え合える関係に」

 母は、涙を流しながら頷いた。

「ありがとう、春子」

 二人は、しばらく手を握り合っていた。


 その夜、春子は再び呪文屋を訪れた。

 エレナは、同じ場所に座っていた。

「エレナさん」春子は言った。「お礼を言いに来ました」

「どうだった?」エレナは、微笑んだ。

「母が倒れて……病院で話をしました」春子は、涙をこらえながら言った。「そして、分かったんです。母も、孤独で、不安だったんだって。私への束縛は、愛情の裏返しだったんだって」

 エレナは、静かに頷いた。

「恨みを手放したから、見えたのね」

「はい」春子は言った。「恨みがあったとき、私は母の『悪いところ』しか見えなかった。でも、恨みを手放したら、母の『弱さ』や『寂しさ』が見えるようになった」

「それが、呪文の力」エレナは言った。「恨みは、目を曇らせる。でも、それを手放すと、真実が見える」

 春子は、深く頷いた。

「エレナさん」春子は、聞いた。「あなたも……家族のこと、許せましたか?」

 エレナは、一瞬だけ表情を曇らせた。

 そして、静かに言った。

「……いつか、ね」

 それ以上、エレナは何も語らなかった。

 春子は、それ以上聞かなかった。

「ありがとうございました」春子は、深く頭を下げた。

「どういたしまして」エレナは言った。「お母さんを、大切にしてあげて」

「はい」

 春子は、店を出た。


 階段を降りながら、春子は思った。

 エレナにも、家族の物語があるのだろう。

 悲しい物語が。

 でも、それを乗り越えて、今ここで人を助けている。

 春子は、夜の路地を歩きながら、心から感謝した。


 その夜、エレナは一人、窓の外を眺めていた。

 月が、雲の間から顔を出している。

 彼女は、ルーマニア語で、小さく呟いた。

「Iartă-mă, mamă(許してください、お母さん)」

 そして、蝋燭を吹き消した。

 部屋は、闇に包まれた。

 エレナの琥珀色の瞳に、一筋の涙が光った。

 彼女にも、許せていない人がいた。

 故郷に残してきた、母が。

 でも、それはまだ、語るべき時ではなかった。

―― 第3話 了 ――


次回、第4話「美しくなる言葉」に続く

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