第2話「仕事運の代償」
田中隆は、居酒屋のカウンターで三杯目のビールを空けた。
午後九時。本来なら、とっくに家に帰っているはずの時間だ。でも今日は、家に帰りたくなかった。妻の顔を見たくなかった。
また、失敗した。
今日の商談も、ダメだった。三ヶ月かけて準備したプレゼンテーション。完璧だと思っていた提案書。でも、先方の反応は冷ややかだった。
「田中さん、申し訳ないんですが……もう少し、具体的な数字が欲しいんですよね」
営業部長のあの言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
具体的な数字。データ。根拠。
全部、用意したはずだった。でも、足りなかった。いつも、何かが足りない。
隆は、スマホを取り出した。未読のメールが十三件。全部、上司からだ。開く気にもなれない。
そして、妻からのメッセージが一件。
「今日も遅いの?ご飯、作って待ってるけど」
隆は、返信しなかった。
家に着いたのは、午後十一時を過ぎていた。
玄関の鍵を開けると、リビングの明かりがついている。妻の由美が、ソファに座ってテレビを見ていた。
「おかえりなさい」由美は、振り返って言った。「ご飯、温めようか?」
「いらない」隆は、靴を脱ぎながら言った。「もう食った」
嘘だった。居酒屋では、ビールしか飲んでいない。
「……そう」由美は、それ以上何も言わなかった。
隆は、そのまま寝室に向かおうとした。
「ねえ、隆」由美が、声をかけた。「最近、疲れてるみたいだけど……大丈夫?」
「大丈夫だよ」隆は、振り返らずに答えた。「ただ、仕事が忙しいだけ」
「そう……」
由美の声が、小さくなった。
隆は、そのまま寝室に入り、ドアを閉めた。
翌朝、隆は六時に目が覚めた。
いつもより一時間早い。でも、眠れなかった。頭の中で、昨日の商談が何度も再生される。
隆は、ベッドから起き上がり、リビングに向かった。
由美が、キッチンで朝食を作っていた。
「おはよう」由美は、笑顔で言った。「早いね。コーヒー淹れようか?」
「ああ、頼む」
隆は、ダイニングテーブルに座った。
由美が、コーヒーカップを持ってきて、隆の前に置いた。そして、自分も向かいに座った。
「ねえ、隆」由美は、少し躊躇いながら言った。「あのね……ちょっと変な話なんだけど」
「何?」
「友達から聞いたんだけど、月島に『呪文屋』っていう店があるらしいの」
隆は、コーヒーカップを持ち上げたまま、由美を見た。
「……呪文屋?」
「うん。なんか、困ったことがある人が行くと、呪文をもらえるんだって。で、その呪文を唱えると、問題が解決するらしいの」
隆は、思わず笑ってしまった。
「何それ。占いか?」
「占いじゃないみたい。もっと……実用的というか」由美は、真剣な顔で言った。「友達の友達が、実際に行って、効果があったって」
「……由美、お前、そういうの信じるタイプだったっけ?」
「信じるとか信じないとかじゃなくて」由美は、少し頬を赤らめた。「ただ、隆が最近すごく疲れてるみたいだから……何か、助けになればと思って」
隆は、コーヒーを一口飲んだ。
呪文屋。
馬鹿げている。でも、由美の優しさは、ありがたかった。
「……考えとく」隆は、言った。
由美は、安心したように微笑んだ。
その日も、仕事はうまくいかなかった。
午前中の会議で、上司から詰められた。
「田中、お前、最近どうなってるんだ? 今月の成約件数、ゼロだぞ?」
「申し訳ありません……」
「申し訳ないじゃないんだよ。お前、営業五年目だろ? もう少し、責任感持てよ」
隆は、ただ頭を下げるしかなかった。
午後、隆はデスクで資料を整理していた。隣の席の後輩、山田が声をかけてきた。
「田中さん、大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫」隆は、パソコンの画面を見たまま答えた。
「あの……もし良かったら、今度の商談、一緒に同行しましょうか? 僕、最近いくつか成約取れてるんで、何かお役に立てるかもしれません」
隆は、手を止めた。
山田は、入社三年目だ。隆より二歳年下で、最近メキメキと頭角を現している。先月は、営業成績トップだった。
そんな後輩に、助けを求めろというのか。
「……いや、大丈夫」隆は、冷たく言った。「自分でやる」
山田は、少し戸惑った表情を浮かべたが、「分かりました」と言って、自分の席に戻った。
隆は、モニターを睨んだ。
自分でやる。自分で、何とかする。
でも、どうすればいいのか、分からなかった。
その夜、隆は妻の言葉を思い出していた。
呪文屋。
馬鹿げている。でも、他に手がない。
隆は、スマホで検索してみた。「月島 呪文屋」。
しかし、検索結果には何も出てこなかった。口コミサイトにも、SNSにも、情報がない。
本当に、そんな店があるのか?
隆は、ため息をついた。
でも、翌日の夜、隆は月島に向かっていた。
商店街を抜け、古い路地に入る。由美から聞いた通りの場所だ。
そして、隆は見つけた。
三階建ての雑居ビル。二階への階段の途中に、古びた木製の看板。
「呪文屋 Vrăjitorie」
隆は、一瞬立ち止まった。
本当に、ここでいいのか?
でも、他に選択肢はなかった。
隆は、階段を上り、ドアを開けた。
部屋の中は、静かだった。
本棚、丸テーブル、蝋燭。そして、黒いワンピースを着た女性。
「いらっしゃい」
女性は、低く静かな声で言った。
隆は、少し緊張しながら、椅子に座った。
「私はエレナ」女性は言った。「あなたは?」
「田中、です。田中隆」
「田中さん」エレナは、ゆっくりと名前を繰り返した。「あなたは、何を求めてここに来たの?」
隆は、一瞬躊躇した。
こんな場所で、こんな女性に、自分の悩みを話すのか?
でも、言葉が口から出た。
「……仕事が、うまくいかないんです」隆は言った。「営業をしてるんですが、ここ三ヶ月、全然成約が取れなくて。上司からも詰められるし、後輩には追い抜かれるし……」
エレナは、黙って聞いていた。
「このままじゃ、クビになるかもしれない」隆は、拳を握りしめた。「家族もいるのに、情けない」
エレナは、静かに頷いた。
「分かったわ」彼女は言った。「あなたには、『成功の呪文』が必要ね」
「……成功の呪文?」
「そう。仕事運を上げる呪文」エレナは、本棚からノートを取り出した。「でも、呪文には必ず『代償』が必要」
「代償……」
「あなたが手放さなければならないもの」エレナは、ペンを取り出して、ノートに何かを書き始めた。「あなたの場合、それは『プライド』」
隆は、息を呑んだ。
「プライド……?」
「そう」エレナは、書きながら言った。「あなたは、自分のプライドに囚われている。後輩に助けを求めることができない。上司に弱音を吐くこともできない。一人で全部を抱え込んで、潰れそうになっている」
隆は、何も言えなかった。
エレナの言葉は、全て正しかった。
「呪文を受け取るなら、プライドを捨てて」エレナは、ノートを隆に向けた。「謙虚になって。学んで。助けを求めて」
隆は、ノートを見た。
「Puterea mea(私の力よ)、土に根を張れ
高ぶりは風に、謙虚さは水に
学ぶ者は強い、私は成長する」
「これを、毎朝仕事に行く前に、三回唱えて」エレナは言った。「そして、プライドを捨てる覚悟を持って」
隆は、その言葉を何度か読み返した。
プライドを捨てる。
それができるだろうか。
「……やってみます」隆は、ようやく言った。
エレナは、ノートのページを破り、隆に手渡した。
「頑張って」彼女は言った。「呪文は、あなたの背中を押すだけ。実際に動くのは、あなた自身」
隆は、紙を受け取り、店を出た。
翌朝、隆は呪文を唱えた。
「Puterea mea……私の力よ、土に根を張れ」
言葉が、部屋に響いた。
「高ぶりは風に、謙虚さは水に」
隆は、深呼吸をした。
「学ぶ者は強い、私は成長する」
三回。
隆は、家を出た。
会社に着くと、隆は山田のデスクに向かった。
「山田」
「はい?」山田は、驚いた顔で隆を見た。
「この前、言ってくれたこと……まだ、有効か?」
「え……あ、はい! もちろんです!」
「じゃあ、頼む」隆は、頭を下げた。「次の商談、一緒に来てくれないか。お前の、やり方を教えてほしい」
山田は、一瞬呆然としていたが、すぐに笑顔になった。
「もちろんです、田中さん! 喜んで!」
隆は、頭を上げた。
プライドを捨てる。
それは、思っていたより、難しくなかった。
その週、隆は山田と一緒に商談に臨んだ。
山田のプレゼンテーションを見て、隆は驚いた。
データの見せ方、話の組み立て方、クライアントとの距離の取り方。全てが、隆とは違っていた。そして、全てが効果的だった。
商談は、成功した。
「やりましたね、田中さん!」山田は、帰り道で嬉しそうに言った。
「……お前のおかげだよ」隆は、素直に言った。「ありがとう」
「いえいえ! でも、田中さんも良かったですよ。最後の詰めとか、さすがでした」
隆は、少し照れくさくなった。
そして、不思議と気持ちが軽かった。
次の商談も、その次も、うまくいった。
隆は、山田だけでなく、他の後輩たちにも積極的に話を聞くようになった。上司にも、分からないことを素直に質問するようになった。
すると、周りの態度も変わってきた。
「田中、最近いい感じじゃないか」上司が、笑顔で言った。「その調子で頑張れよ」
「ありがとうございます」
隆は、心から感謝した。
そして、一ヶ月後。
隆は、月間営業成績で三位になった。
久しぶりの好成績だった。
その夜、隆は早めに帰宅した。
「ただいま」
「おかえりなさい!」由美が、キッチンから駆け寄ってきた。「どうだった?」
「うん、良かった」隆は、笑顔で言った。「今月、三位だった」
「本当!? すごい!」由美は、飛び跳ねて喜んだ。「呪文屋、効いたのね!」
「……ああ、そうかもな」
隆は、由美を抱きしめた。
「ありがとう、由美。お前のおかげだ」
「ううん」由美は、隆の胸に顔を埋めた。「隆が、頑張ったんだよ」
二人は、しばらくそうしていた。
その夜、隆は一人でリビングに座っていた。
由美は、もう寝ている。
隆は、エレナからもらった紙を取り出した。
「Puterea mea(私の力よ)、土に根を張れ
高ぶりは風に、謙虚さは水に
学ぶ者は強い、私は成長する」
プライドを捨てる。
それが、代償だった。
でも、隆は気づいていた。
本当の代償は、それだけじゃなかった。
プライドを捨てたことで、隆は周りの人々に頼るようになった。助けを求めるようになった。
そして、それは同時に、自分の弱さを認めることでもあった。
隆は、これまで「強い自分」であろうとしてきた。妻にも、部下にも、上司にも、弱みを見せたくなかった。一人で全部を背負って、一人で解決しようとしてきた。
でも、それは間違っていた。
人は、一人では生きられない。
助け合って、支え合って、初めて強くなれる。
隆は、紙を丁寧に折りたたんだ。
そして、思った。
呪文は、魔法じゃなかった。
呪文は、自分を変えるための「許可」だった。
変わる勇気を、くれたのだ。
翌週、隆は再び呪文屋を訪れた。
エレナは、同じ場所に座っていた。
「エレナさん」隆は言った。「お礼を言いに来ました」
「どうだった?」エレナは、微笑んだ。
「うまくいきました。仕事も、家庭も」隆は、深く頭を下げた。「ありがとうございました」
「よかったわ」エレナは言った。「でも、それはあなた自身の力よ。私は、背中を押しただけ」
「でも……」隆は、顔を上げた。「プライドを捨てたことで、もっと大切なものに気づきました」
「それは?」
「人とのつながり」隆は言った。「一人で頑張るより、みんなで助け合う方が、ずっと強いんだって」
エレナは、静かに頷いた。
「それが、本当の代償」彼女は言った。「あなたは、『孤独な強さ』を手放して、『つながりの強さ』を手に入れた」
隆は、その言葉の意味を噛みしめた。
「ありがとうございました」隆は、もう一度頭を下げた。
「どういたしまして」エレナは言った。「また、何かあったら来て。呪文屋は、いつでもここにあるから」
隆は、店を出た。
階段を降りながら、隆は思った。
呪文屋は、不思議な場所だ。
でも、あそこで得たものは、確かに本物だった。
その夜、エレナは一人、窓の外を眺めていた。
月が、雲の間から顔を出している。
彼女は、ルーマニア語で、小さく呟いた。
「Oamenii sunt mai puternici împreună(人は、共にいるとき、より強い)」
そして、蝋燭を吹き消した。
部屋は、闇に包まれた。
でも、エレナの琥珀色の瞳だけが、月明かりの中で、静かに輝いていた。
―― 第2話 了 ――
次回、第3話「母の呪縛」に続く
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