第5話「お金の魔法」

 吉田一郎は、財布の中身を数えた。

 千円札が七枚、百円玉が三枚。

 合計、七千三百円。

 これが、今の一郎の全財産だった。

 一郎は、ため息をついて、財布を閉じた。

 六畳一間のアパート。家賃は来月分が払えるかどうか。電気代も、ガス代も、全部滞納している。

 冷蔵庫の中には、もやしと卵が少しだけ。

 五十歳。リストラされて、三ヶ月。

 再就職の面接は、十回以上受けた。でも、全部落ちた。

「年齢的に、ちょっと……」

「もう少し若い方を探しているんです」

「経験は素晴らしいんですが、うちの給与体系では……」

 理由は様々だった。でも、結果は同じ。

 誰も、五十歳の元会社員を雇ってくれない。

 一郎は、窓の外を眺めた。

 十一月の曇り空。冷たい風が吹いている。

 もうすぐ、冬だ。

 このままじゃ、年を越せないかもしれない。


 その日の午後、一郎はハローワークに行った。

 相談員は、申し訳なさそうに言った。

「吉田さん、正直に申し上げますと……五十歳で正社員は、かなり厳しいです」

「……分かっています」

「アルバイトやパートでしたら、いくつか求人がありますが」

「アルバイトじゃ、生活できません」一郎は、疲れた声で言った。「家賃も払えない」

 相談員は、困った顔をした。

「生活保護の申請も、検討されてはいかがでしょうか」

「……いえ、結構です」

 一郎は、立ち上がった。

 生活保護。

 それだけは、受けたくなかった。

 プライドの問題だった。

 自分は、まだ働ける。自分の力で、何とかできるはずだ。

 一郎は、ハローワークを出た。


 夕方、一郎は商店街を歩いていた。

 財布には、七千三百円。

 今日の夕飯は、もやし炒めだ。明日も、明後日も。

 一郎は、立ち食い蕎麦屋の前で足を止めた。

 温かい蕎麦の湯気が、店の外まで漂ってくる。

 天ぷらそば、五百円。

 一郎は、唾を飲み込んだ。

 でも、財布を開くことはできなかった。

 五百円は、貴重だった。

 一郎は、店を後にした。


 その夜、一郎はスマホで検索していた。

「お金 引き寄せる 方法」

 たくさんの記事が出てくる。

 引き寄せの法則、ポジティブシンキング、お金持ちマインド。

 一郎は、片っ端から読んだ。

 でも、どれも現実的じゃなかった。

「お金は、感謝の心で引き寄せられる」

「豊かさをイメージすれば、お金は自然とやってくる」

 そんなことで、お金が手に入るなら、誰も苦労しない。

 一郎は、スマホを投げ出した。

 そして、画面に表示された一つの投稿が目に留まった。

「月島に『呪文屋』っていう店がある。お金の悩みも解決してくれるらしい」

 呪文屋?

 一郎は、その投稿をタップした。

 詳しい情報はない。ただ、「月島の路地裏にある」という情報だけ。

 一郎は、少し考えた。

 藁にもすがる思いだった。

 もう、他に頼るものがなかった。


 翌日、一郎は月島を訪れた。

 商店街を抜け、路地の奥へ。

 そして、雑居ビルの二階への階段を見つけた。

「呪文屋 Vrăjitorie」

 一郎は、階段を上り、ドアを開けた。


 部屋の中は、静かだった。

 本棚、丸テーブル、蝋燭。そして、黒いワンピースを着た女性。

「いらっしゃい」

 女性の声は、低く、静かだった。

 一郎は、椅子に座った。

「私はエレナ」女性は言った。「あなたは?」

「吉田、一郎です」

「吉田さん」エレナは、ゆっくりと名前を繰り返した。「あなたは、何を求めてここに来たの?」

 一郎は、少し躊躇した。

 こんな場所で、こんな若い女性に、自分の惨めな状況を話すのか?

 でも、もう隠す意味もなかった。

「……お金が、必要なんです」一郎は、小さく言った。「三ヶ月前に、会社をクビになって。貯金も底をつきかけて……」

 エレナは、黙って聞いていた。

「再就職も、全然決まらなくて。このままじゃ、家賃も払えない」一郎は、拳を握りしめた。「情けない話ですが……もう、どうしていいか分からないんです」

 エレナは、静かに頷いた。

「分かったわ」彼女は言った。「あなたには、『豊かさの呪文』が必要ね」

「……本当に、お金が手に入るんですか?」

「それは、あなた次第」エレナは、本棚からノートを取り出した。「呪文は、魔法じゃない。でも、あなたの『流れ』を変えることはできる」

 エレナは、ペンを取り出して、ノートに何かを書き始めた。

「お金というのは、『エネルギー』」エレナは、書きながら言った。「川の水のように、流れるもの。流れが止まれば、淀む。流れが良ければ、循環する」

「……流れ?」

「そう。今のあなたは、お金の流れが止まっている。だから、まず流れを作る必要がある」

 エレナは、ペンを止めて、一郎を見た。

「でもね、吉田さん」エレナは言った。「呪文には、必ず『代償』が必要」

「代償……」

「あなたが手放さなければならないもの」エレナは、静かに言った。「それは、今あなたが持っているお金の一部」

 一郎は、息を呑んだ。

「今持ってる……お金?」

「そう。あなたの財布の中に、いくら入ってる?」

 一郎は、財布を取り出した。

 昨日と同じ。七千三百円。

 いや、今朝、パンを買ったから……六千八百円。

「六千八百円です」

「じゃあ、そのうち一万円――」エレナは言いかけて、訂正した。「いえ、五千円を、誰かのために使って」

 一郎は、目を見開いた。

「五千円……?」

「そう。あなた以外の誰かのために。困っている人、助けが必要な人、誰でもいい」

「でも……」一郎は、震える声で言った。「これが、最後のお金なんです。これを使ったら、本当に何も残らない……」

「だからこそ、意味がある」エレナは、真剣な顔で言った。「お金の流れを作るには、まず『与える』ことから始めないといけない」

 一郎は、何も言えなかった。

「今のあなたは、お金を『握りしめている』」エレナは、続けた。「失うことを恐れて、使うことを恐れて。でも、それじゃ流れは生まれない」

「でも……」

「与えることで、受け取る。これが、お金のルール」エレナは、ノートを一郎に向けた。「信じられないかもしれない。でも、やってみる価値はある」

 一郎は、ノートを見た。

「Bogăția mea(私の豊かさよ)、川のように流れろ

与えることは受け取ること

私は循環の中にいる、豊かさは巡る」

 一郎は、その言葉を何度か読み返した。

 与えることは、受け取ること。

 理屈では分かる。でも、実際に最後のお金を手放すのは、怖かった。

「……やってみます」一郎は、ようやく言った。

 エレナは、ノートのページを破り、一郎に手渡した。

「これを、毎朝起きたときに三回唱えて」エレナは言った。「そして、五千円を、誰かのために使って。本当に困っている人、助けが必要な人のために」

 一郎は、紙を受け取った。

「お代は……」

「お金はいらない」エレナは、首を振った。「あなたには、今、それが必要だから」

 一郎は、深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

 一郎は、店を出た。


 家に帰ると、一郎は財布を開いた。

 六千八百円。

 そのうち、五千円を、誰かのために使う。

 残るのは、千八百円。

 一郎は、深く息をついた。

 そして、その夜、呪文を唱えた。

「Bogăția mea……私の豊かさよ、川のように流れろ」

 言葉が、部屋に響いた。

「与えることは受け取ること」

 一郎は、目を閉じた。

「私は循環の中にいる、豊かさは巡る」

 三回。

 一郎は、ベッドに横になった。

 明日、誰かのために、五千円を使う。

 でも、誰に?


 翌朝、一郎は商店街を歩いていた。

 誰かのために、お金を使う。

 でも、具体的に誰に、どうやって?

 一郎は、考えながら歩いた。

 そして、公園のベンチに座っている若い男性を見つけた。

 二十代後半だろうか。スーツを着ているが、しわくちゃだ。髪も乱れている。

 そして、その男性は、俯いて、肩を震わせていた。

 泣いている。

 一郎は、一瞬躊躇したが、近づいた。

「あの……大丈夫ですか?」

 男性は、顔を上げた。目が赤い。

「……すみません、大丈夫です」男性は、涙を拭いた。

「いや、大丈夫には見えませんけど」一郎は、隣に座った。「もし良かったら、話を聞きますよ」

 男性は、少し迷ったが、口を開いた。

「……実は、昨日、会社をクビになったんです」

 一郎は、驚いた。

「クビに?」

「はい。業績不振で、リストラされました」男性は、震える声で言った。「妻と子供がいるのに……どうやって生活すればいいのか……」

 一郎は、その言葉を聞いて、胸が痛んだ。

 三ヶ月前の自分と、同じだった。

「……辛いですよね」一郎は、静かに言った。「私も、三ヶ月前にクビになったんです」

「え……?」

「同じですよ。五十歳で、リストラ。再就職も決まらなくて、貯金も底をついて」一郎は、苦笑した。「今、財布に千八百円しかない」

 男性は、驚いた顔をした。

「そんな……じゃあ、私以上に大変じゃないですか」

「ええ、まあ」一郎は頷いた。「でも、だからこそ、あなたの気持ちが分かる」

 二人は、しばらく黙っていた。

 そして、一郎は決心した。

「あの……もし良かったら、一緒に朝ごはん食べませんか?」

「え……?」

「近くに、安い定食屋があるんです。おごりますから」

「でも……」男性は、戸惑った。「さっき、千八百円しかないって……」

「いいんです」一郎は、微笑んだ。「困ったときは、お互い様でしょ」

 男性は、涙ぐんだ。

「……ありがとうございます」


 二人は、商店街の定食屋に入った。

 一郎は、男性に朝定食を注文した。自分も同じものを。

 二人で、千二百円。

 財布には、残り六百円。

 でも、不思議と不安はなかった。

 食事をしながら、二人は話した。

 男性の名前は、田村。二十八歳。妻と三歳の娘がいる。

「これから、どうしようか……」田村は、ため息をついた。

「大丈夫ですよ」一郎は言った。「私も最初は絶望しましたけど、なんとかなります」

「でも……」

「まず、ハローワークに行って。それから、色々な求人サイトにも登録して」一郎は、自分の経験を話した。「すぐには決まらないかもしれないけど、諦めなければ、必ず道は開ける」

 田村は、真剣に聞いていた。

「吉田さん……ありがとうございます」田村は、深く頭を下げた。「見ず知らずの私に、こんなに優しくしてくれて」

「いいえ」一郎は、微笑んだ。「私も、誰かに助けてもらったから」

 二人は、食事を終えた。

 店を出るとき、田村が言った。

「吉田さん、連絡先を教えてもらえませんか? 何か、恩返しがしたいんです」

「恩返しなんて、いいですよ」

「いえ、ぜひ」田村は、スマホを取り出した。「もし、何か私にできることがあったら、連絡してください」

 一郎は、迷ったが、連絡先を交換した。


 その日の午後、一郎は公園のベンチに座っていた。

 財布には、六百円。

 これで、何日生活できるだろうか。

 一郎は、不安になりかけた。

 でも、思い出した。

 エレナの言葉。

「与えることは、受け取ること」

 一郎は、呪文の紙を取り出した。

「私は循環の中にいる、豊かさは巡る」

 一郎は、その言葉を小さく唱えた。

 すると、スマホが鳴った。

 知らない番号からだった。

「もしもし」

「吉田一郎さんですか?」

「はい」

「私、田村の妻の友人で、佐々木と申します。田村から話を聞きまして……」

 一郎は、驚いた。

「田村さんから?」

「はい。実は、私の会社で、今、経理担当を探しているんです。経験者で、すぐに働ける方を」

 一郎の心臓が、高鳴った。

「経理……ですか?」

「はい。吉田さん、前職は経理部門だったと聞きました。もし良かったら、一度面接に来ていただけませんか?」

 一郎は、信じられなかった。

「……はい、ぜひ!」

「では、明日の午後二時に、こちらの住所まで来てください」

 佐々木は、住所を教えてくれた。

 電話を切った後、一郎はしばらく呆然としていた。

 そして、涙が溢れた。

 仕事のチャンス。

 三ヶ月ぶりの、本当のチャンス。

 一郎は、空を見上げた。

 雲の間から、陽が差していた。


 翌日、一郎は面接に向かった。

 中小企業の事務所。社長は、五十代の女性だった。

「吉田さん、履歴書を拝見しました」社長は、言った。「経験も豊富ですし、年齢的にもうちにぴったりです」

「ありがとうございます」

「実は、若い人ばかり採用してきたんですが、やっぱり経験者が必要だと思いまして。すぐにでも来ていただけますか?」

 一郎は、信じられなかった。

「……本当に、ですか?」

「ええ。給与は、月二十五万円。賞与もあります」

 一郎は、涙が溢れそうになった。

「ありがとうございます! ぜひ、働かせてください!」

 面接は、そのまま採用に繋がった。

 一郎は、来週から働き始めることになった。


 その夜、一郎は再び呪文屋を訪れた。

 エレナは、同じ場所に座っていた。

「エレナさん」一郎は言った。「仕事が、決まりました」

「おめでとう」エレナは、微笑んだ。

「信じられません。五千円を使った翌日に、仕事の話が来て……」一郎は、興奮した声で言った。「本当に、呪文が効いたんですか?」

「呪文は、魔法じゃない」エレナは言った。「でも、あなたの行動が、流れを変えた」

「行動……?」

「そう。あなたは、田村さんを助けた。その行動が、田村さんの心を動かし、彼の妻の友人に繋がった」エレナは、続けた。「これが、循環。与えることで、受け取る」

 一郎は、頷いた。

「確かに……もし田村さんを助けていなかったら、この仕事の話も来なかった」

「そういうこと」エレナは言った。「お金も、人の縁も、全部繋がっている。一つの善い行いが、次の善い結果を生む」

 一郎は、深く息をついた。

「でも、最初は本当に怖かったんです。最後のお金を使うのが」

「それは当然」エレナは、優しく言った。「でも、あなたは勇気を出して、与えた。それが、あなたを救った」

 一郎は、涙が溢れそうになった。

「ありがとうございます、エレナさん」

「どういたしまして」エレナは言った。「これから、頑張って」

 一郎は、深く頭を下げた。


 一郎は、店を出た後、田村に電話をかけた。

「田村さん、ありがとうございました。おかげで、仕事が決まりました」

「本当ですか! 良かった!」田村の声が、弾んでいた。

「あなたが、奥さんの友人に話してくれたんですよね?」

「はい。吉田さんに助けてもらったから、何かお返ししたくて」

 一郎は、胸が熱くなった。

「ありがとう。本当に、ありがとう」

「いえ、こちらこそ。吉田さんのおかげで、私も前を向けました」

 二人は、しばらく話した。

 そして、電話を切った後、一郎は思った。

 人生は、繋がっている。

 一つの善い行いが、次の善い結果を生む。

 与えることで、受け取る。

 これが、本当の豊かさなのかもしれない。


 数週間後、一郎は初めての給料をもらった。

 二十五万円。

 三ヶ月ぶりの、本当のお金。

 一郎は、そのうち一万円を封筒に入れて、田村に送った。

 そして、手紙を添えた。

「田村さん、あのときの朝ごはん代です。遅くなってごめんなさい。お互い、これからも頑張りましょう」

 翌週、田村から返事が来た。

「吉田さん、ありがとうございます。でも、これは受け取れません。代わりに、困っている誰かに使ってください。循環させてください」

 一郎は、その手紙を読んで、微笑んだ。

 そして、決めた。

 このお金を、また誰かのために使おう。

 困っている人のために。

 循環を、続けよう。


 その夜、エレナは呪文屋で一人、窓の外を眺めていた。

 月が、静かに輝いている。

 彼女は、ルーマニア語で、小さく呟いた。

「Bogăția nu este în bani, ci în inimă(豊かさはお金ではなく、心の中にある)」

 そして、蝋燭を吹き消した。

 部屋は、闇に包まれた。

 でも、エレナの琥珀色の瞳だけが、月明かりの中で、静かに輝いていた。

―― 第5話 了 ――


次回、第6話「店主の休日」に続く

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