2-3b

 次に記憶にあるのは病院のベッドの上だった。

 体が重い。まるでシーツに貼り付けられているようだった。指一つすら思うように動かせない。

 動かない体で周囲を見渡す。

 白い天井に白いカーテン、白い蛍光灯の光。

 私の腕や胸から無数に伸びるコードが見たことない機械に繋がっている。

 一定間隔に鳴る電子音、病院特有の消毒液の匂い。

 そんな無機質な空間に私が一人だけがいた。

 兄を含めて家族の姿はない。


 心細さで胸がざわつき始めた時、カーテンが揺れた。

「兄さん?」

 必死に声を捻り出す。

「ごめんね。違うの。気分はどう?」

 カーテンの隙間から顔を出したのは私を担当してくれているらしい看護師さんだった。

 

 看護師さんは慣れた手つきで頭に巻かれた包帯を外して新しいものへと取り替えていく。

 ひんやりとした消毒液を湿らせた不織布が直接頭皮に触れた。

 あれ、私の髪の毛はどこにいったんだろう?

 私の驚きに気付いたのか看護師さんが教えてくれた。

 「ごめんなさい。治療の時に髪の毛は全て剃ったの。どうしても必要な処置だったから」

 そしてその代わりのように額には大きな傷が残されていた。どうやら生涯消えることがないらしい。

 変わり果てた自分の姿にショックはあった。

 でもそれ以上に気がかりになっていることがあった。

「あの……。兄の神栖悠真はどこにいますか? 一緒に事故に遭ったのですが」

 声は掠れていた。でも必死だった。

 兄さんに会いたかった。

 のんびりしている私と違って兄さんならすぐに体を治して元気になっているはずだ。そう信じて疑わなかった。


 けれど看護師さんは一瞬だけ痛むような表情を浮かべた。ほんの一瞬だけ。

 でもすぐにそれを隠すような優しい笑顔に変わる。

「今は心配しなくて大丈夫だから。まずはあなたの怪我を治しましょうね」

 それしか言わなかった。

 それ以上は何も教えてくれなかった。


 その後、退院の日は思っていたよりも早期に決まった。

 頭の怪我は見た目こそ酷いものだったけれど精密検査の結果、脳には異常はなかったようだ。

 そのことに胸を撫で下ろすべきなのだろう。

 でも私の胸のざわつきは治らなかった。気がかりである兄のことは何一つとしてわからなかったからだ。

 病室には誰も見舞いにはこなかった。

 父も母もそして兄も。

 この病室だけが外の世界から切り離され、時間が止まったみたいだった。

 決まった時間に食事を運んでくれて包帯を変えてくれる看護師さんだけが唯一の来訪者だった。


 いよいよ退院当日まで誰も来る事はなかった。

「迎えの車が来ています。行きましょう」

 何度か診察してくれた担当医に付き添われて数日過ごした病室を後にした。

 廊下を抜けて病院の裏手の出口を出ると黒い車がひっそりと止まっていた。

 何かただならぬ嫌な予感はしたが、他に選択肢もないのでその車へ向かった。


 後部座席の扉が開く。中には母が居た。

 事故以来初めて顔を合わせる家族だった。

「なんでお見舞いに来てくれなかったの。寂しかった」

 そんな軽い冗談で甘えてしまおうか、なんてほんの一瞬考えた。

 でも母の顔を見てその言葉を噛み殺す。

 いつも「社長夫人として恥じない装いで居ないとね」と気品ある容姿と立ち振る舞いを心掛けていた母。

 その母が見たことないほどやつれていた。

 瞼は腫れて深いクマを作り、頬はこけていた。まるで触れただけでバラバラに砕けて壊れてしまいそうなほど弱々しい。

「乗って……」

 か細い声に促されて私はシートに腰を下ろす。すると母は運転手に合図を送った。

 車は静かに走り出す。

 ハンドルを握るのは羽沢さんではない。知らない運転手だ。

「これに着替えて」

 母がスーツカバーを私の膝に置く。

 中に入っていたのは黒い服。喪服だった。

 しかし何か違和感がある。その違和感の正体はすぐにわかった。

 黒いジャケット。右胸側にボタンの付いたワイシャツ。黒いスラックス。

 どう見ても男子が着る喪服だった。

「お母さん、間違えてるよ。これ……兄さんのやつだよ」

 戸惑い半分、冗談半分で言う。

 単純に間違えてしまったのだろう。お母さんはおっちょこちょいだなぁ。疲れているのかも。

「これは兄さんに渡すとして……私の服はどこにあるの?」

 母に尋ねると同時に車内を見渡す。

 私に用意されているはずの女子向けの喪服は見当たらない。

「……」

 母は何も答えなかった。

 そして女子向けの喪服が出て来ることは最後まで無かった。


 車が止まったのは我が家ではなかった。

 母に促されて車を降りる。目の前には見上げるほど大きな葬儀場があった。

 鈍色の雲が立ち込め、今にでも雨が降りそうだった。

 その下を歩く参列者は皆、暗い表情を浮かべてときには涙をする人もいた。


 胸の中で不吉なざわつきが広がっていく。

 すれ違う人に会釈する母に続いて会場に入る。

 正面には棺がありその後ろには大きな遺影が見えた。

 供花の札には神栖グループの関連会社名がずらりと並ぶ。

 身内の葬儀であることは嫌でも察する。


 そしてその中心にある大きな遺影。

 そこに写っていたのは笑顔の私だった。


 理解が追いつかず、思考が硬直した。

 おかしいな。なんで私がそこにいるのだろう。

「どうして……私が……?」

 口から声が漏れていた。

 思わず横にいる母を見る。

 母はハンカチで目元を抑えながら小さく呟いた。

「……ごめんね」

 謝罪の意味がわからない。

 もし遺影を間違えるなんてことがあれば流石におっちょこちょいのレベルではない。冗談では済まされない。

 けれど母はそれ以上何も言わずに私の手を引いたまま遺族席へと向かった。


 そこには父が座っていた。

 堂々とした父。神栖グループを率いる威厳そのものの人。その父の伸びた背筋はいつもと変わらない。だが目は真っ赤に腫れてその視線は祭壇を鋭く射抜いていた。

「お父さん……」

 声をかけると父はほんの僅かに反応する気配を見せた。

「到着したか。体は大丈夫か?」

 父は私の方を一瞥もせずに答えた。祭壇を見つめる目つきが鋭くなる。

「それより……これってどういうことなの」

「葬儀だよ。

 悠真。

 確かに父は私のことをと呼んだ。

 もしかしたら長かった髪を治療の際に剃ってしまったから兄さんと見間違えたのかな。

 必死に間違われた理由を結びつけようとする。

「違うよ。お父さん。私は――」

 言いかけた言葉は喉を通らなかった。

 父のただならぬ空気がそれを許さなかった。

 そうだ、父は間違うはずがない。私のことを兄の名前で呼んだ。その言葉は嘘偽りないそのままの意味だ。

 祭壇を見つめるその姿は悲しみを背負っていた。でも揺らいではいなかった。


 私は理解が追いつかないまま、私の葬儀が始まった。

 最初に訪れたのは父の会社、神栖グループの関係者だろう。見知らぬ大人達が弔問に訪れ、その度に父は一人ひとりに深く頭を下げていた。私はそれに合わせて会釈した。


 やがて学校のみんなが来てくれた。

「なんで神栖さんが……」

「悠那ちゃんかわいそう」

 口々に神栖悠那――私の死を悼む声が聞こえてくる。

 私はここにいるのに。

 直ぐそばにいるのに誰もその事実を知らない。


 その列の中になーくんが居た。

 兄と私とずっと一緒にいてくれた幼馴染。そして一番の親友だ。

 そんななーくんは酷く顔を歪めていた。

 現実を受け入れられずこの世を恨むような表情。何度目を拭ったのだろうか、目は真っ赤に腫れていた。今にでも溢れてしまいそうな涙を必死に溜めている。

 死んでしまった幼馴染の為に泣いてくれたのだろう。

「私はここにいるよ。なーくん」

 本当はそう言っていつものように話がしたかった。でも言えなかった。


 そしてもう一つ、ずっと分からないことがあった。

 遺影の前にある棺。

 その蓋は最初から今まで固く閉じられている。

 死んだとされているのは神栖悠那。つまり私。

 けれど私は今も生きている。

 ならばあの棺の中には一体

 嫌な想像が頭をよぎる。

 悍ましくて最悪で考えたくもない想像。

 いやそんな訳はない。だって……あの時……兄さんは……。

 必死にその想像を振り払った。


 棺の蓋を開けてしまえば全て分かる。

 でもそうしようなんて微塵も思わなかった。だってあの蓋を開けてしまえば全てが確定してしまう。それが何より恐ろしかった。


 そのまま葬式はつつがなく、滞りなく進んだ。誰も疑うことなく、違和感を覚えないまま。

 そして最後まで棺の蓋は一度も開けられる事はなかった。

 そのまま出棺され、煙となり、空へと舞が上がっていった。

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