2-3c

 葬儀を終えた日の夜、私は父の書斎に呼び出された。

 兄はよく呼ばれていたが、私がここに足を踏み入れるのは本当に久しぶりだ。

「……失礼します」

 重い木製の扉を押し開ける。

 懐かしい匂いが鼻をくすぐった。紙とインクとわずかな革製品の匂い。

 部屋の壁一面を覆う巨大な本棚には所狭しと本が詰め込まれている。古い全集から海外のビジネス書まで無数のジャンルが混然と並んでいる。

 そしてその本の一冊一冊から無数の付箋が飛び出している。

 全てを読み込み、必要な箇所は全て頭に入れている。それが当然と言わんばかりだ。

 勤勉で努力家の父をそのまま表したような部屋だった。


 その中心で座る父は机に向かっていた。

 パソコンや携帯電話からは常に通知音が鳴り響いており、分厚い資料をめくる手は止まることがない。

「……お父さん」

 声をかけると父はペンを置き、ゆっくりと私を見た。

「来たか。退院してすぐで辛かっただろう。体は大丈夫なのか

 葬式の時と同じだ。私のことを迷いなく悠真と呼んだ。

それは間違えた訳じゃない。そう意図して呼んだんだ。間違いであってくれという一抹の希望は消え去った。

 なら聞かないと。聞かないと前に進めない。

「説明は……してくれないの?」

 震えながら出た言葉はあまりにも弱々しかった。

 父は短く息を吸い目を伏せた。少しの間を置いて私に諭すように言った。

「あの事故で悠那が死んで、悠真が生き残ったんだ」

 その言葉はとても短かったが私の胸に深く鋭く突き刺さった。それが父の答えだ。

 そこから私の人生は僕の人生になった。


 

 病院から退院したものの、すぐに学校に戻れる訳じゃなかった。

 理由は一つ。これから私がとして生きるための訓練が必要だったから。

 今までやっていた習い事は全て辞めた。

 ピアノも絵画も芸事も全て。私が神栖悠那として生きてきたもの全てを捨てた。

 その代わりに始まったのが兄が学んできたことの詰め込み。

 経営学やビジネスの基礎、国際情勢などを一から短期間で叩き込まれた。

 頭の容量がオーバーして頭痛が続いた。本気で逃げ出したくもなった。


 それでも必死にしがみついた。

 ここで逃げ出したら学校へ戻れない。🏫に行きたい。その一縷の望みだけが心の支えだった。

 もちろん、学校に戻る時は神栖悠真として戻るのだろう。

 けれど心のどこかで期待していた。

 誰かが私のことに気付いてくれるかもしれない。悠真ぼくじゃない、悠那わたしだということに。

 顔立ちこそ似ていたけれど性格や癖、話し方は全然違う。だからわかる人には分かってもらえる。

 何より私たちとよく遊んでくれた幼馴染のなーくん。

 彼なら気付いてくれるに違いない。

 話し方も口癖も仕草も全てを知っているのだから。

 もし見抜いてくれたなら、なーくんにだけ今の私の現状を打ち明けたかった。

 それが許されないことだとしても。

 みんなの前では悠真ゆうまで居なきゃいけない。

 でもなーくんの前なら、私はきっと悠那ゆうなのままで居られるはず。


 でもその希望は打ち砕かれた。

「転入のお知らせ」

 父から手渡された一枚の紙。その表題を見た瞬間に頭が真っ白になった。

 私の知らないところで転校の手続きが進んでいた。決まった行き先は有名進学校の付属小学校。

 本来だったら途中編入なんて認められるはずがない。これも神栖家の力なのだろうか。

 新しい学校では神栖悠那を知る人は誰もいない。転校してくるのは神栖家の御曹司であり、一人息子の神栖悠真だけなのだから。


 元のいた学校の皆に挨拶も出来ぬまま、私は転校した。せめて仲良くしてくれた幼馴染のなーくんだけでもと父に懇願したが認められなかった。

 落ち込む間もなく新しい学校での悠真としての生活が始まった。

 今まで女子として生きてきたことを全て捨てた。話し方から歩き方、文字の書き方まで。

 兄の幻影を追いかけるように模倣して仕草や癖をなぞる様にして男子として生きた。


 もう一つ私を苦しめたことがあった。それは父が厳しくなったことだ。

 成績、課外活動、部活動、委員会、行動態度。

 何かあると父の書斎に呼び出されて叱られることが増えた。

 そして「神栖家の跡取りとして」この言葉を耳にタコができるほど聞かされた。

 最初は理不尽を感じた。兄が死んで私が生き延びたことに八つ当たりしてるのではないかと思った。

 でもそれは私の勘違いだったと気付く。

 ある日、持っていくはずだった自分の本を忘れ、家にあった兄が生前使っていた本を手に取った時。

 私は見てしまった。

 ページの隅から隅までメモ書きが所狭しと書き込まれていた。先生の解説、自分なりの解釈、理解する為に同じところを何度反復していたのだろう。

 そしてそのメモ書きの中には勉強に関係のない、兄の叫びもあった。

「もうやりたくない。辞めたい」

「頑張れない」

 涙の乾いた跡も力強くページを握ってついてしまった皺を伸ばした跡もあった。

 完璧で非の打ち所がない兄は裏でずっと努力していたんだ。


 そして納得する。父が厳しくなったのは私が代わりを演じているからではない。兄は今までずっとこの生活を続けてきたんだ。

 父は取り乱すようなことはしない。

 たとえ最愛の息子が亡くなろうとそれで感情を揺さぶられたりしない。それで判断を誤る事などない。


 私は何も知らなかった。

 兄が私に優しく笑ってくれた裏で死ぬような努力を重ねていたことを。父からの大きすぎる期待を必死に受け止めていたことを。

 だから私はそれを継ぐことにした。

 兄が必死に積み上げてきた努力をここで壊すわけにはいかない。

 私が継ぐ。兄が必死に背負ってきた期待も、生きるはずだった未来も。

 「悠那として期待されていたこと」と「悠真として期待されていること」

 その形は明確に変わった。

 でも父と母は今までよりも強い期待を私に寄せてくれている。

 それに今は背負うのは一人じゃない。兄さんも一緒だ。


 葬儀の日に父の書斎で聞いた言葉を思い出す。

「あの事故で悠那が死んで、悠真が生き残ったんだ」

 肉体的には悠真が死んで悠那が生き残った。でもそれは事実かもしれないけど正しくはない。

 あの時あの場所あの事故で確かに神栖悠那の魂は死に、神栖悠真の魂は生き延びたのだ。

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完璧な幼馴染の唯一にして最大の弱点 我譚#五瓲 @Gatan-Goton

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