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 ――神栖悠那かみすゆうなの人生が、――神栖悠真かみすゆうまの人生に変わったのは六年前の事故が全ての始まりだ。

 あの事故が起きるまでの私は幸せだった。言い換えればあの事故さえ無ければきっと何も知らずに生きていけたのだと思う。


 私は日本で指折りの大企業の神栖グループの創業家でありその直系にあたる神栖家の娘として生まれた。

 グループ傘下の会社の社長や役員は父を中心とした神栖家の親族と姻族が担っている。

 だから私と兄は生まれながらにして将来が決められていた。神栖グループの継ぐ者として。

 一般的な家庭とは家族としての形も教育方針もだいぶ違った。家族というよりは私達二人を後継者にするための一つの小さな会社のようだった。


 それでも私は家族が好きだった。

 厳格だが真っ直ぐで仕事熱心な父。

 少し気が弱いけど私と兄のことを第一に考えてくれる優しい母。

 そして同じタイミングに生まれたと思えないほど前を歩いて私を導いてくれる頼もしい兄。

 家族以外にも私は良い人に囲まれていた。

 我が子のように世話を焼いてくれるお手伝いさんの羽沢さん。

 神栖家の娘という立場を気にせず一人の友達として接してくれる幼馴染。

 変わった家庭環境で幸せだと思えたのはそんな暖かい人たちに囲まれていたからだ。

 そしてその幸せがずっと続くと思っていた。でもそれは事故によって一瞬にして崩れ去った。


 あの日のあの時までは事故が無ければ一生で思い出すことのないような「何でもない日」だった。

 特別な予定もない。何か起きる気配すら無い。いつも通りの放課後。

 兄と私は習い事に向かうためにお手伝いさんの羽沢はざわさんが運転する車に乗り込んだ。

「今日も遅れずに到着できそうです。悠真様、悠那様」

「うん。羽沢さん。今日も安全運転でお願いします」

 そんな会話をした。日常の何気ない会話だった。

 窓の外に流れていく景色は何一つ変わらない。よく通る道のよく通る交差点。車はいつも通りの速度で抜けていく。


 でもその時だけは違った。

「あっー!!」

 突如、羽沢さんが大声を上げる。

「えっ?」

 その直後に鼓膜を破るような大きな音。それに続いて今まで感じたことない衝撃。

 世界が上下左右に前後にと乱暴にかき回される。

 事故だ。

 その理解に追いつく前に車中でもみくちゃにされてシートベルトが体に食い込み上手く息が出来なくなる。

 車は悲鳴を上げながら形を失っていく。まるで巨大な手で紙を丸めているみたいに世界がグシャリと迫ってくる。

 張り出した内装で身体を強打して至る所に痛みが走る。

「兄さん……」

 必死に縋る叫びを最後に世界は暗闇に飲み込まれた。そして意識が途絶えた。


「……悠那、悠那!」

 兄さんが私を呼んでいる。

 その声に包まれて私は目を覚ました。

 これがお寝坊をした私を兄が優しく起こしてくれるいつもの朝だったらどんなに良かっただろうか。

 でも現実は違う。

 全身が痛い。寒い。息が白くなるような気温の寒さじゃない。体温が奪われていく底冷えの寒さ。

 頭を怪我したらしく、髪が血を吸って重く張り付き視界を覆う。払いのけようにも手が何かに挟まって動かせない。

 遠くからサイレンの音が絶えず鳴り響いていた。大人達の怒号とも悲鳴ともつかない声が混ざり合っている。

 

 流れる血。息が苦しい。不安。恐怖。閉塞。よぎる死。

 そんな現実が窮地の私を更に追い詰めていく。弱い私は思わず取り乱しそうになる。

「兄さん……兄さん……」

 掠れた声で叫ぶ。早く助けて。気付けば助けを兄に求めていた。

「悠那。大丈夫だから」

 喧騒の中、兄さんの声だけは不思議と明瞭に聞こえた。姿は見えないのにすぐ隣にいるような温度で語りかけてくる。

「兄さん、どこにいるの?」

「近くにいるよ。悠那は何も心配しなくてもいい」

 その声音は幼い頃から私を守ってくれた時と変わらない。こんな状況でも私を安心させてくれた。

 姿は見えないし触れられないが確かにそこにいた。

 私は落ち着きを取り戻した。

 そして兄も無事でいてくれた事に安心する。

「兄さん。とても寒いの助けて」

 今にでも凍りついてしまいそうだった。

 兄の状況なんて何一つ分かっていないくせに私は当たり前のように救いを求める。

 兄ならきっと何とかしてくれる。そんな甘えが染みついていた。

「落ち着いて。悠那は強い。自慢の僕の妹だから」

 その言葉と同時に動かせない手が誰かに握られたような気がした。

 暖かい。

 きっと兄さんが不安がる私のために握ってくれたんだ。

「大丈夫。あと少しだから」


 そう告げられた直後だった。

「ここから助け出せるぞ」

 誰かの叫び声が聞こえた。

 続けざまに重機が低く唸る。バキバキと金属が押し広げられていく音。

 赤い血で滲んだ視界の端に強い光が差し込んだ。眩しくて思わず目を細める。それと同時に今まで遠くにあった喧騒が徐々に近くなっていく。

「もう大丈夫だ」

 兄ではない確実な温度が伝わる。その誰かの手が私の腕を支えて引き上げてくれる。


 事故からどれくらいの時間が経ったかわからない。ただ一つ分かるのは私は助け出されていたということだった。

「あれ、兄さん?」

 でもそこに兄の姿は無かった。声が聞こえていたんだから近くに居るはずだ。

 担架に乗せられて救急車で搬送される直前まで周囲を見渡した。見えるのは救急隊と警察官と野次馬たちだけだ。兄の姿はどこにもない。

 あれほど強く聞こえていた声もいつの間にかサイレンと多くの大人達の会話にかき消されて聞こえなくなっていた。

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