9.新たな関係
ー2177年8月9日PM4:00ー
──私は、美紗子さんの店を出て蓮司の店へと向かっている。
口の中には、まだみかんの酸味が残っていて何だか心地がいい。
両替屋の明かりはついている。
私は、黒くて少し重たいドアを開け、中に入った。
『いらっしゃい。おお、旦那。時間通りだな。』
『どうも。ご無沙汰しております。少し遅くなりました。以前の件で参りました。』
──蓮司がタバコの火を消して、金庫を覗きながら話し出す。
『ちゃんと準備できてるぜ。あんたのお陰で、仕事もタイミングよく降ってきたから感謝しかねぇわ。』
『いえいえ。それは蓮司さんの実力であって、私は関係ありませんよ。蓮司さんがいつもしっかりと動いていて、仕事をしている証拠ですよ。その仕事は、タイミングがズレていても、蓮司さんの元にやってきていたと思います。』
──蓮司は、分厚い札束をテーブルに置き、手を振りながら私を見て話し出した。
『そんなに、謙遜すんなって。仕事は早いもの勝ちだからな。あんたが、俺に良い仕事を持ってきてくれたから、雪だるま式に仕事が増えたんだ。ありがとよ。そして、これが今回の両替分だ。きっちり確認してくれ。』
──蓮司がまた、タバコに火をつけ、書類を整理している間に、私はお札の数と、本物かどうかを確認した。
『確かに頂きました。ありがとうございます。そして、仕事が順調な蓮司さんに、私もいくつか仕事を頼みたいのですが、その前に少し確認があります。蓮司さんには、どのような仕事を依頼できますか?』
蓮司が、タバコを灰皿に置き、少し間を空けて答えた。
『また、仕事くれるのかい。旦那は、商売繁盛の神かなんかなのか?どんな仕事か...、暴力沙汰や殺しの依頼に関して、俺はごめんだが、ある程度の話は、その道のプロを紹介もできる。値段はまちまちってとこかな。ちなみに、どんなこと頼みたいんだ?』
『そんな荒っぽいことは頼みませんよ。まずは、このスラム地区の情報をなるべく詳細にした資料や地図を、作って頂きたいです。居住地域、街の雰囲気、人種、服装、レジスタンスや宗教、難民などがどのような思想を持っているのか、構成人数、資金力、対立関係、危険性や政治的関係や過去の事件など、詳細であればあるほど助かります。料金は前金で25万、資料を読んで後の金額は考えます。活動資金が必要なら上乗せしても構いません。』
蓮司は少し驚きながら、大悟を見つめ口を開く。
『そりゃ、急にまた変わった仕事を持ってくるもんだ。そんな注文初めて受けたぜ。しかも、前金で25万なんて、スラムじゃ破格の大仕事だぞ!?どうしたってそんなものが必要なんだ?』
『蓮司さんとは、今後も仲良くさせてもらいたいからです。理由は、私はスラムに来てまだ日が浅いですが、その間にも蓮司さん、あなたも含め守りたい人ができました。そして、私は、スラムのことをほとんど何も知りません。無知のままでいると、いざというときに選択できる行動が限られてしまいます。"敵を知り己を知れば、百戦危うからず"というやつです。争いを起こす気はありませんが、話し合いで解決できるのであれば、虎の尾を踏まないように行動しなければいけませんから。それには、なるべく詳細な情報が必要です。相手が交渉に応じる相手かどうか、見極める前に知っているのといないのでは、交渉や作戦の種類がまるで違います。そして、この地区が巻き込まれる可能性を、私なりに調査しておきたいのです。あとは、単純な好奇心です。私は、何でも知りたがりなので。』
──蓮司は、灰皿からタバコをとり、自分をなだめるように一服し、話し出した。
『好奇心か。あんたは本当に変わってるな。言ってることは、高度すぎてよくわかんねぇが、その敵を知り己を知れば、百戦危うからずってのは有名なのかい?』
『孫子の兵法です。2600年以上前に書かれた戦争の戦略書です。ビジネスや政治、人間関係にも応用が効き、世界で2番目に読まれている本ですよ。蓮司さんもビジネスを安全かつ効率よく行うのに役立つと思うので読んでみては?』
『孫子の兵法か。確かに聞いたことある名前だな。旦那のおすすめなら参考にさせてもらうぜ。んで、その仕事だが、引き受けよう。俺は旦那を気に入っちまった。旦那のために、限りなく詳細に書いて出版して、金取れるくらいにしておくよ。少し時間がかかると思うから、たまにここに来て状況確認してくれ。他は大丈夫なのか?』
──彼なら、引き受けてくれると思った。
そして、今回はこの依頼が重要なのだ。
『あとは、これらを調達してくれると嬉しいです。』
──私は、蓮司に紙を渡した。
『んーと、バーベキューセット2つに炭、カリフォルニアワイン、アルプスとヒマラヤの岩塩に、これは調味料か...、北海道産のグラスフェッドビーフ、オランダ産グラスフェッドギー?、千葉の水郷鶏のささみともも肉に、アグー豚のバラ肉。熟成焼きそば麺、あとは有機野菜か…。つまりは、高級食材でバーベキューかい?』
『はい。少し羽を伸ばして休もうと思って。出来そうですか?』
蓮司が、タバコの火を消して答えた。
『これくらいならお安い御用だ。明日のこの時間に、また来てくれ。しかし、そのバーベキュー俺も誘って欲しいねぇ。旦那は、料理も得意なのかい?いつか、旦那とはお互いの垣根無くして、語り合いたいぜ。しかも、とんでもなく美味そうだぜ。』
『すみません。今回は、お相手がもう決まっていて。その資料ができたら、一緒に野郎2人だけでワイルドにやりませんか?』
──蓮司が眉を上げ、ニヤつきながら話だした。
『なんだ、相手って女かい?旦那は色っぽいもんな。んじゃ、しっかり調達しなきゃな。そんなご褒美できちまったら、資料作る意欲も湧いてきたぜ。』
『よろしくお願いします。これが依頼料と材料費です。』
──私はそう言って、蓮司にお金の入った封筒を渡した。
『おいおい、仕事とお金の計算どうなってんだ。あんたは、俺を買い被りすぎだぜ。こんなに貰えねぇよ。』
『いえ、蓮司さんを見込んで、これからはスラム料金ではなく、私が元いた世界の取引価格で応じたいのです。蓮司さん、"あなただから"です。その代わりと言っては何ですが、両替のためにお札のストックを増やして欲しいです。そして、両替料金を安くしてくれませんか?1%も取られるのは、私の世界では"暴利"なので。』
『旦那は、一体どんな世界を見てきたんだよ。表の人間にしては、裏ボスすぎるぜ。まあ、両替に関しては、俺もそう言われると思って増やしたぜ。俺も旦那を"真似て"推理してみたんだ。100万を、どこの馬の骨かもわからない奴に、ポンッと簡単に払えて、ブラフにも全く怖気付かない。なら、まだまだ金はあるんじゃないかと思ってな。合ってたかい?』
──蓮司は、流石だ。私が言う前に動いてくれていた。
見た目とは裏腹に、この町1番のビジネスマンだ。
『流石ですね。私の見込んだ通りです。買い被りではないですよ。あなたはとても優秀な商売人です。初めて言葉を交わしたとき、私はそう"感じた"んです。』
『旦那に認められると、何か嬉しいな。急に思い出したんだが、むかし死んだ親父が持ってた本で"1984"ってのがあってな、読んだことがあったんだ。その中に"無知は力だ"って言葉があったんだが、ガキだった俺は意味がわからなかった。ただの、若気の至りみたいな力だと思ってた。そんなんじゃこの世界では、命がいくつあっても足りねぇ。知識こそ力だと、俺は思った。そして、大人になってあれは、社会に対する皮肉だって気づいたんだ。"危険な言葉"だぜ。だが、今日俺は旦那と話してて改めて思ったんだ。無知を本当の力にするのは、旦那の言う"好奇心"ってやつなんだろうな。』
蓮司はそう言って、タバコに火をつけ続けた。
『両替の料金に関しちゃ、今後お金はとらねぇよ。旦那とは、良い関係を築けそうだからな。今後ともよろしく頼むぜ。』
『オーウェルの作品ですね。監視社会に警鐘を鳴らす不朽の名作を持っているとは、蓮司さんのお父様は、素晴らしい読書家だったのですね。そして、蓮司さんも読んでいたなんて感激しました。こちらこそ、今後ともよろしくお願いします。』
『旦那も知ってんのかい。流石だな。俺は、旦那にスラムを統一して、政府に反逆するためにあの資料が必要だって言われても、あんたなら出来るかもって思って、真剣に取り組んでるだろうな。ところで、上の世界じゃ、デジタル決済が普通だろ?どうしてそんなに、現金を持ってるんだい?』
──蓮司はそう言って、静かに微笑んだ。
『私は、そこまで大物ではありませんよ。確かにデジタルが主流ですが、私は、有事の際に備えて現金と、金地金を少しだけポートフォリオに組み込んでいました。なので、資産のほとんどを失いましたが、有事の現金が生きていたと言うことです。』
蓮司は関心を示し、話し出す。
『世の中いざってときは現金だもんな。それにしても、旦那の備えの良さや備え方を聞いてると、つくづく敵にはしたくない相手だな。俺は、何があっても裏切らないから俺の敵にだけはならないでくれよな。』
大悟が、手を差し出し口を開く。
『そんなことは絶対しません。この世に絶対がなくても、私の中には確かにあります。そうだ、これからは親しみを込めて“蓮司君”って呼んでもいいですか?』
『蓮司で良いぜ。旦那にならどう呼ばれたって気にしないよ。』
『じゃあ蓮司。私のことも大悟と呼んでも良いので、これからは同じ立場でよろしくお願いします。では、また明日この時間に来ます。』
『呼び方はフランクになったのに、何だか固いな。旦那らしくて良いのかもな。こちらこそよろしく。』
──そう言って、私たちは握手を交わし、私は店を出た。今日の会話はとても良かった。蓮司のおかげで、上手くいきそうだ。
管理人さんといい、美紗子さんといい、今日の会話には、心が反応してばかりだ。
空が綺麗なオレンジ色に染まる中、私の心も爽やかで明るく温かい色に染まっていった。
よし、全て終わったし、海に向かおう。
ー2177年8月9日PM6:00ー
──蓮司の店を出たあと、ビールを買い、悟さんに海までの道を聞き、海へ向かっている。
飲み屋のある北地区と、ここ南地区では雰囲気が違う。
ここは、昔"平塚"と呼ばれていた場所らしいが、21世紀末に関東は大震災に見舞わられ、神奈川の沿岸部は殆どが津波の影響で、壊滅的被害を受けた。
復興に向けて政府も力を尽くしたが、私が元いた横浜や川崎、鎌倉ー藤沢、茅ヶ崎など富裕層が愛する街や歴史的建造物、観光名所付近を中心に行っていったために、平塚あたりから徐々に流れものや浮浪者が溜まり出し、現代の泪橋と呼ばれるようになったそうだ。
そこに目をつけた政府が、橋から先をスラム地区と認定して、徐々にいまのスラムが出来ていったと言われている。
"世界の二分化"には、ちょうどいいタイミングだったかのように。
家は、個人が自分で建てたのか、現代の建築法というより、だいぶ原始的な感じだ。
ほとんどが1階建てで、塀や仕切りもお粗末といえばそう見えるだろう。
夕焼けに染まっているからか、とても生活感と哀愁が漂っている。
悟さんも、確かこの地区に住んでいると言っていたな。
そんなことを考えながら歩いていると、潮の香りと、共に目の前に海が見え始めた。
夏だからか、まだそれなりに人がいる。
釣竿を持ちながらお互い釣れたものを見せ合う人たち。
まだ、釣りに勤しむ人たち。
さらに遠くでは、海と丘でサーフィンをしてる人や、私と同じように夕陽を観に来ている人もいる。
左側を観てみると、輪になってギターを弾きながら夕陽に歌っている人。
犬と遊んでいる人。
お酒を飲みながらふざけ合っている人たち。
どこを見渡しても、色とりどりなのに、みんなが同じ夕陽に染まっている。
そして、聴こえてくる話し声や笑い声は、これから暗くなるというのにとても明るい。
何だかとても不思議な光景だ。
私も、1人で座れる場所を見つけて座り、早速ビールの蓋をあけ、口に流し込みんだ。
ホップのシトラスの香りが鼻を抜け、
沈みかけた鮮やかな夕陽と視界いっぱいに広がる穏やかな海が、目に焼きつく。
まだ、少し眩しいが私はサングラスを外し、胸元にかけた。
私は、桃香のことを考えていると同時に、
咲楽さんのことも考えていた。
別に比べているわけではない。
いま目の前にある太陽と海という、違う性質のもの同士が景色として、同じ場所に存在するように、2人に対する別々の感情が私の心の中に存在している。
私は、どちらが良いと決めつけることなく、ただその2つが調和していく様を眺めている。
ビールを流し込むと、その色はより深く、より幻想的で捉え所がないような不思議な気分になっていく。
サイケデリックといえばかっこよく、そして怪しく聞こえる。
まさに、そんな気分だ。
言葉にするのは、とても難しいが私にとって2人はもう無くてはならない存在だ。
私はビールを1本飲み干し、寝そべってみた。
−2177年8月9日PM7:45ー
──辺りが暗くなり、星と満月が顔を出し始めていた。
私は、しばらく寝そべりながら1番星を探していたが、どれが1番星か断定できず、諦めて起き上がった。
私の人生を支えてきた本や音楽、芸術に学問、そして、出会った人々が、まるで夜空の星たちが一斉に話し出すように、私に語りかける。
その様は、まるで愉快でおとぎ話のようだ。
新しいビールをあけて、私はその空想の世界を楽しんだ。
私は、これからどうしていくべきなのか、どうしたいのかわからない。
でも、私がこれまで触れてきたものが、私をこの先のどこかへ導いてる。そんな夜空が、いま目の前にある。
明日、咲楽さんをどうやってバーベキューに誘おうか、桃香とはまた会って話ができるのか、もしできたとき何の話をするのか、そんなことはわからない。
"指ばかり見ていると、栄光の月を見失う"
"大悟くんなら、その翼を治して天界に戻れるかもしれない。私は、そう信じてるよ。先生"...か。
私は今日の月を、まだ見失ってはいないだろうか?
私は目を閉じて、深く深呼吸をした。
波の音が、暗くなってより大きくなっている。
ノイズを消すように、私の心の奥まで響く。
海の外に答えを求めていると、答えは心の中にあると気づかされる。
今は、言葉にできなくても、私は間違いばかりを犯していたわけではないだろう。
きっと私が、ありのままこの先を歩み続ければ言葉にできる日が、言葉にしたくなる日が訪れるかもしれない。
私は、もう1度目を開いて月を眺めてみた。
いままでで、1番鮮やかで大きな月が、空から私を見下ろしていた。
まだ、あの日のことをしっかりと思い出すことはできないが、受け入れる準備は整い始めたみたいだ。
まだ、完全ではないけどきっと新しい星が見えてくる。
昔、桃香と訪れた石垣島では、年中オリオン座が見えていた。
いまの私に、似てるようで似つかないオリオン座の側を流れ星が静かに軌跡を描いて通っていったことを、私は静かに鮮明に思い出した。
この間観た星も眩しく光り輝いている。
さて、最後の1本飲んだら、ホテルに戻ろう。
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