8.月を指す


ー2177年8月9日PM1:30ー


──昨日は、夕方まで雨が降っていて、私は迎え酒で消したはずの二日酔いが、更に重くのしかかってきていたので、部屋の中で押し潰されていた。


ただの先延ばしだと薄々気づいてはいたが、それと引き換えに良い夜を過ごせた。

昔の私では、"考えられない選択"とも言える。


今日は、蓮司との約束の日だ。

蓮司は、私が出会った人間の中でも優秀と呼べる逸材だ。


甲屋グループにいた頃、彼が下で働いていたならとんでもない部下に育っていたかもしれない。


私は、今後彼に依頼したい仕事の内容を整えていた。


ある程度まとまってきたし、とりあえず洗濯でもしよう。

私は、1階へ向かった。


管理人は、相変わらずソファーと一体化している。

テレビから、格闘音が聴こえる。


『おはようございます。今日は何を観ているのですか?』


管理人が、大悟に気づきビールを掲げながら挨拶する。


『よお、洗濯かい?こりゃ、"燃えろドラゴン"ってやつさ。200年以上前の、プレミア映画なんだが、何回も観ちまうくらい面白くってな。ただの格闘映画じゃなくて"哲学"が混ざってる。それなのに、主人公が滅茶苦茶強くてかっけぇんだ。最後の鏡張りの部屋での戦いは男でも惚れちまうぜ。CGがない時代の映画ってのも趣があって、たまには良いもんだぜ。』


『格闘映画の中に哲学。武道の世界の哲学は奥が深そうですね。』


『考えるな、感じろ。月を指す指ばかり見るな。指を見てると、栄光の月を見失うぞ。なんつってな。ガハハハッ!映画ってのは、俺にできねぇことを、やってのけるから楽しいんだ。俺もこれ観ただけで強くなった気になるしな。ソファから1歩も動いてないけどな。』


──管理人は、そう言って笑ったあと、中国拳法のような動きをした。今日もとても機嫌が良さそうだ。確かに人は、映画から色んなことを学ぶことがある。未知の世界を体験した気にもなれる。この文化が色褪せることはないだろう。


『そうですよね。映画は物語を感じとりながら学ぶこともできますよね。格闘映画で、戦い方を学んだり、恋愛映画で口説き文句を学んだりもしますもんね。』


『そうだぜ!俺は去勢してるが、その辺のやつより口説き文句知ってるさ。俺が免許持ちだったら、モテモテだったかもな。ガハハハッ!』


『それほど沢山の映画を、ご覧になってるのですね。素晴らしいです。今度おすすめあれば教えてください。では、洗濯に行ってきます。』


『おうよ!今度一緒にビールでも飲みながら、映画たっぷり観せてやるさ!また、来な!』


──管理人との会話を終えて、コインランドリーへと向かった。彼は、能天気に見えるが、映画を通して色々なことを考えていそうだ。今度、ちゃんと話をしてみよう。

考えるな、感じろ。月を指す指...。


何だか、不意に確信を突かれた気がする。

まるで、武術のようだ。



そう。

人は"考えることのできる感情の生き物"だから。



ー2177年8月9日PM3:00ー


──洗濯を終えて、私は両替屋に向かう準備をしていた。その前に、このスラムで使う鞄が欲しくなった。また、美紗子さんの店に行ってみよう。


外は昨日の雨が嘘だったように、晴れている。

雨の面影は、なくなったようだ。

今日は、真夏の日差しが、私を海へと誘い出している気がする。

用事を全て済ませたら、行ってみよう。

私は、サングラスをかけて美紗子さんの店へと向かった。


ー2177年8月9日PM3:30ー


──いつもの裏通りに着いた。

ここには昨日の雨の残り香が、まだ残ってる。

今日は、表にいつもの洋服は出ていないようだ。

扉は開いているので、店はやっているみたいだ。


店を覗くと、扇風機の前でみかんを頬張る美紗子さんの姿が見えた。

スラムに来てまだ日は浅いが、この姿を見ると何だか安心する。


『美紗子さん、こんにちは。』


『あら、あんた。また足りないものでもあったの?』


──前回、少し心を開いてくれたからか、今日は穏やかな口調だ。


『そうなんです。鞄が欲しくてお伺いしたのですが、売っていますか?』


『こんな連日で買い物に来るなんて、あんたは、よっぽど買い物が下手なのね。あっちに置いてあるわよ。』


美沙子がカバンコーナーを指差し、またみかんを頬張る。


『ありがとうございます。あの、こちら良ければどうぞ。』


──そう言って私は、梨を渡した。先ほど八百屋で買っておいたのだ。


『あら、また買ってきたの?やだ、そんなに気遣わなくて良いのに。私は、あんたが買い物すれば儲かるだけだから。本来は生活保護の連中が必要なもの持っていって、政府から助成金もらってるだけの店なのよ。』


『いえ、お近づきの印です。美紗子さんには、今後とも色々なお話し聞かせてもらいたくて。暇なとき顔出すので、ぜひこの街のことなど聞かせてください。では、鞄選んできます。』


──私は、ちょうどいい大きさのリュックを選び、レジへ戻った。500円。安い。だが、安すぎる。


『話聞きたいなら、今後は、こんな気遣いは"なし"にしておいてよね。いつでも気軽にいらっしゃい。』


『はは、そうですね。本来、梨は縁起が悪いかもと思いましたが、僕も今後は余計な気遣いを"なし"にしたくて、あえて選びました。』


『親父ギャグ言うには、あんたはまだ若すぎよ。もう少し上品になさいな。』



──美紗子さんが、少し眉をひそめて私に言った。


『はは、そうですかね。慣れないことをしたら、やはり似合いませんでしたか。』


『それより、あんた街のことが聞きたいって言ってたけど、何でこの街に来たの?』


──美紗子さんが、新しいみかんの皮を剥きながら私に聞いた。


『私は、少しの間誰も私のことを知らない場所で休みたかったんです。そしたら、ここに流れ着きました。』


『何があったかは知らないけど、それなら、ここの連中はあんたが何か言わない限り詮索してこないから気が楽でしょうね。1人例外はいるけどね。』


『やはり例外もいらっしゃるんですね。用心します。』


美紗子がみかんを頬張らながら、店の外を指差す。


『ここの路地抜けて右に行くと、3軒隣に飲み屋があるでしょ?そこの入り口辺りで、いつも鼻真っ赤にして飲んでるジジイがいるのよ。あのジジイは、ズケズケ聞いてくるしずっと話かけてくるから、あんたも気をつけな。』


『それって悟さんのことですか?』


──やはり、赤い鼻はトレードマークのようだ。

美紗子さんが、さりげなく私にみかんを手渡しながら話し出す。


『あら、あんたもう、あのジジイに絡まれたわけ?あんたも目立つもんねー。かわいそうに。』


『ははは、はい。もう絡まれてしまいました。でも、お話は楽しかったですよ。あ、みかんありがとうございます。』


『やっぱり、あんたは変わってるわね。あのジジイの話が面白い若者なんていないと思ってたわ。それに、あんたが持ってきたみかんよ。人にあげるなら"味見"もしなさい。』


──美紗子さんは、そう言い私が払ったお金をレジにしまう。私もみかんの皮を剥き、食べてみた。さっぱりしていて甘味がしつこくない。夏のみかんはやはり良い。私も、暇さえあれば頬張ってしまいそうだ。

『やっぱり、夏のみかんは良いですね。果汁が飛び出してくると爽やかな気分になります。』


『こたつにみかんも良いけど、あたしは、扇風機の前で食べてるのが1番なのよ。暑い夏は、無駄に外に出るより、みかん食べて大人しくしてる方が良いわ。』


──服屋のレジで、店員とみかんを食べる。

甲屋グループでは考えられないし、服が汚れたらなどクレームも心配するだろう。


でも、誰かと一緒に食べるみかんは、何気ない日常に安らぎと安心を感じる。


私は、差し入ればかりに囚われて、こういう時間を見過ごしていたのだろう。


月を指す指...。今日は満月だ。


海で眺めてみよう。

夕日だけでは、もったいない。


そろそろ、蓮司のところに向かわないといけないか。

これからは、飲み屋に顔を出す前に、ここで美紗子さんとこうした時間を過ごすのも悪くない。


『美紗子さん、ありがとうございました。用事があるので失礼します。みかんを一緒に食べながら、お話しできて嬉しかったです。また、来ます。』


『あらそう。あんたのことだから、まだ買い忘れたものあるでしょうからね。気をつけてお帰り。今度は、梨向いてあげるわ。』


──軽くお辞儀をして、私は店を出た。

この街の空気が、私を正しい方向へ導いていく気がする。

私は、大きく深呼吸をして昨日の雨の香りと共に、胸を撫で下ろした。

蓮司に会う前に、何だかほっこりしてしまった。

今夜は栄光の月が見えそうだ。

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