【第2章 祈りの残骸】

崩れた大聖堂に、風の音すら届かない。

 灰と血の匂いだけが、夜の冷気と混ざり合って漂っていた。


 リーナは砕けた紋章の縁に膝をつき、祈りの型を保ったまま崩れた灰の山をそっと撫でた。触れれば粉となって散る――それでも、ここにいたはずの誰かの体温を確かめたかった。目を閉じれば、詠唱の重なりと、白炎のゆらぎと、最後に裏返った絶叫が、耳の奥でまだ続いている。


 四人の"影"は黙っていた。

 レオンは冷えた刃の峰で床を軽く叩き、砕けた紋の裂け目を一つずつ目で追った。視線は世界の外側から覗き込む者のようにわずかに遅れ、まるで"思い出す順番"を探しているように見えた。

 セリナは瞑目したまま、唇を開かず、指先だけがほんの僅かに震えていた。

 エルドは膝をつき、低く短い祈りを途切れなく紡いでいる。

 ミラは肩を抱え、胸の奥で鳴る誰かの痛みに耐えるように、浅く息を刻んだ。


 そのとき、大聖堂の外から途切れ途切れの叫びが聞こえた。儀式の異常と崩壊音に気づいた近衛兵や市民、そして一部の神官たちが様子を確かめに駆けつけてきたのだ。


「――誰か、生存者はいるか!」


 大扉の向こうから、複数の声。鎧の擦れる音、槍の石を突く乾いた音、息を整えようとする荒い気配。リーナは反射的に立ち上がり、振り返った。来てくれたのだ、と胸が浮いた次の瞬間、その感覚は氷水で冷やされた。


 この光景を、見せるのか。


 扉の閂が外れ、重い蝶番が悲鳴を上げた。隙間から青黒い夜気が流れ込み、燃え尽きた香の匂いを押し流す。先頭の兵が半歩踏み入れ、松明の橙が崩れた祭壇と灰の山を照らした。


 彼は言葉を失った。後続が肩を押し、扉はさらに開く。

 神官の白衣は形を保たぬまま灰となり、祈りの型のまま崩れた手が重なっている。床を覆う黒い渦模様は焦げたように波打ち、中央にぽっかりと空洞を穿っていた。


「……これが、召喚の……?」


 絞り出された呟きに、別の声が噛み合う。「退け。奥に誰かいる」槍先が月明かりを反射し、ゆらぎながら前に出る。その先にいたのは――黒衣の外套、白衣の少女、鎧の祈り手、黒髪の泣き顔。そして、崩れた柱の影から、仮面の男がゆっくりと身を起こした。


 兵たちの肩が一斉に固くなる。剣環に指が滑り、鞘口が鳴った。


「武器を下ろしてください!」リーナは声を張った。喉が痛むほどに。「ここで戦えば、本当に取り返しがつかない」


 先頭の兵が目を細めた。近衛鎧の胸甲には王都の紋章。彼はリーナの顔を見て、かろうじて形式の礼を取った。「……聖務院のリーナ・アルフィン殿か。ご無事で何よりだ。しかし――」


 彼の視線は、影の四人に移った。松明の灯が彼らに近づくほど、闇は濃く縁取り、輪郭を曖昧にする。


「それは、何だ。魔族か」


 レオンが顔だけをわずかに上げた。金色の瞳が松明を一度だけ舐め、また床に戻る。刃の柄に手をかけたまま、低く乾いた声を落とした。


「剣を抜くな。――死ぬぞ」


 兵たちの背中にざわめきが走る。挑発ではなく、事実の告知のように聞こえてしまうことが、さらに神経を逆撫でするのだとリーナには分かった。


 言葉が空気を張り詰めさせるなら、一語で切り裂くものもある。


「――祈れ」


 声にならない囁きが、確かに大聖堂を満たした。セリナの唇は動かない。けれど、その一語の形だけが、空気に刻まれる。先頭の兵の指が、無意識に胸の前で重なった。隣の兵も、その隣も。槍が床に傾き、金属音が鳴る。


「だめ!」リーナは彼らの間に割って入り、セリナに振り向いた。「お願い――やめて」


 セリナは静かに瞼を開いた。井戸の底に冷たい星が沈んでいるような、澄んだ瞳。彼女は微かに首を横に振り、肩を落とした。兵たちは我に返り、慌てて槍を握り直す。異様な沈黙が残り、彼らの恐怖だけが倍加していた。


「やはり魔……!」


「落ち着け」鎧の男――エルドが立ち上がり、右手を胸に当てた。「これは試練だ。神が人の心を試しておられる。剣を握るか、祈りの型を握るか」


「祈りは――もう灰になった!」兵の一人が叫んだ。彼の足元には、祈りの型のまま崩れた灰の山。彼はそれを見下ろし、剣を抜いた。「お前たちがやったのか!」


 リーナは一歩前に出た。剣先が胸元で止まり、冷たい光が喉元をかすめた。自分の声が震えていないことだけを、彼女は冷静に観察していた。


「待って。彼らは――違う。少なくとも、今あなたたちが斬るべき相手ではない」


「"彼ら"と呼ぶのか」別の兵が吐き捨てるように言った。「なら、あんたはどちらだ。人間か、その影の側か」


 怒号が広がる前に、柔らかな声がその上を滑った。


「争うなら、勝手にどうぞ」仮面の男――カイリが廃墟の柱にもたれ、片手を挙げた。「ただ、よく考えるといい。ここで剣を振るうということは、この場に残っている希望を――まとめて切り捨てる、ということだ」


 仮面の下で微笑む気配。兵たちの喉がごくりと鳴る。彼の言葉は、挑発でも威圧でもない。劇の舞台で役者に台詞を促す観客のように、事実を淡々と差し出すだけだ。


「……お前は何者だ」


「魔王、カイリ・ヴェルザード」その名は、息をするように置かれた。「かつての勇者の一人だった男――それはそれとして、今は説明に向かない肩書きだね」


 兵たちの間に、剣尖の揺れが走る。魔王。言葉一つで、理性がほどける。誰かが一歩踏み出す。誰かがそれを止める。止めようとした手が、袖を滑り、肩を押し、前へと転ぶ。


 群衆は、意志ではなく方向で動く。


「下がって!」リーナは声を張り上げ、広げた両手で剣先を押し戻した。刃が皮膚を掠め、熱い線が走る。痛みよりも、兵の瞳の奥にあるものが恐ろしかった。理解されないまま膨張する恐怖。名付けられないまま剣へ変わる焦燥。


「私は人間よ」リーナははっきりと言った。「けれど、今あなたたちがしようとしていることは、人間のすることじゃない」


 短い沈黙ののち、甲冑の列の横から、別の衣の色が現れた。焼け焦げた法衣の裾を引きずりながら、小柄な神官が一歩前に出た。煤で汚れた頬、震える手。懐かしい顔だった。


「……リーナ?」彼女は掠れた声で名を呼び、震えながら首を振る。「勇者は――ひとりだけのはず。老神官がそう言っていた。ここにいるのは、五人……? なぜ……」


「分からない」リーナは素直に答えた。「でも、だから剣じゃなく、問いを向けるべきだわ」


 ソフィア――かつて同じ聖務院で学んだ彼女は、勇気を振り絞るように一歩前へ出た。「……武器を下ろして。今、ここで血を流したら、祈りは本当に終わる」


 先頭の兵が歯噛みし、剣を半分だけ下げた。彼の視線は揺れている。背後では、別の兵が低く囁く。「殿、あの少女が術を……」「見たか、言葉もなく……」「魔王と名乗った男もいる……」


 ミラが堪えきれず、一歩下がった。「痛い……」彼女は自分の胸を押さえ、目を伏せた。リーナには、ミラが他者の痛みに耐えて震えているように見えた。「やめて、お願い、やめて」


 その声で、兵たちの何人かが顔色を変えた。泣き声に似た震え。彼女が"攻撃"しているようにしか思えない者もいる。踏み出しかけた足が、また踏み越えようとする。


「――もういい」レオンが、刃の柄から手を離した。「俺は斬らない。斬ってほしいなら、理由を寄越せ」


 兵の視線が彼に集まり、その瞬間にセリナの瞳がリーナを掠めた。命令を出すことは簡単だ――けれど彼女は唇を噛み、目を閉じた。リーナが見ている。だから、しない。選ばない。沈黙を保つ。沈黙は命令になる――その矛盾を抱いたまま。


 エルドは祈りを終え、剣先の前に右手を差し出した。「私を縛れ」穏やかな声。「疑うなら、まず私を。私の両手を鎖でつなぎ、見張りを置け。試練は、逃げるためではなく、耐えるためにある」


 兵たちがたじろぐ。自ら拘束を求める者は、敵なのか。善なのか。判断の物差しがぐにゃりと曲がる。ソフィアが震える手でロープを差し出し、エルドの両手に回した。エルドは抵抗せず、静かに受け入れた。


「一時的に――同行してもらう」先頭の兵が、ようやく言葉を選んだ。「ここを避難拠点にする。市民と生存神官を集める。お前たちは……監視下だ」


 カイリが小さく肩を竦めた。「賢明だ」仮面越しに、小さく笑う気配がした。「舞台は狭い方が、芝居がよく見える」


 リーナは彼を睨みつけ、息を吐いた。胸の奥に、焼けつくような疲労と、細い火種のような決意が残っている。祈りは灰になった。けれど、灰にはまだ温度がある。火は消えても、熱は残る。まだ、選べる。


 外から、別のざわめきが近づいた。避難していた市民たちの声。泣き声。誰かの名を呼ぶ声。兵たちは慌てて扉口へ振り向き、陣形を整える。大聖堂は、祈りの場所から、避難と監視の場所へと意味を変えるだろう。


 リーナは一歩退き、崩れた祭壇を振り返った。そこに重なる無数の祈りの型――合掌の灰。その上に、影の四人と、仮面の魔王。そして、人間の兵と、震える神官と、市民たち。救いを求める手、疑いを握る手、どちらも同じ型をしている。


(まだ、誰も殺させない)


 自分にだけ聞こえる声で、彼女はそう誓った。


 松明の火がひとつ、またひとつと持ち込まれ、大聖堂にオレンジ色の湖が広がっていく。冷えた石がわずかに温まり、影はより濃く、よりはっきりと形を持った。


「――最初の剣は、いつだって味方に向く」カイリの囁きが耳の裏を撫でた。「だから面白い」


 リーナは答えなかった。代わりに、扉の向こうから入ってくる人々の列を見据える。彼らの目は赤く腫れ、手は震え、子どもは親の袖に縋っている。誰もが何かを失い、何かを守ろうとしていた。


 祈りはもう盾にならない。けれど、祈りが残した"型"だけは、まだここにある。手を重ねる型。繋ぐための型。


「場所を分けましょう」リーナは兵に向き直った。「怪我人は右翼の回廊へ。食料は聖倉庫に。彼ら――影たちは、私の監視下で中央に」


 先頭の兵は短く頷き、部下に命じた。動きが生まれると、群衆は少しずつ落ち着きを取り戻す。役割と言葉は、人を現実へ引き戻す鎖だ。


 ミラがそっとリーナの袖を引いた。「ありがとう」小さな声。「あなたがいると、少しだけ静かになるの。頭の中が」


「私も、あなたがいると――騒がしくなるわ」リーナは微笑の型だけ作った。「でも、それでいいのかもしれない」


 セリナはその会話を横目に、ほんの一拍、肩の力を抜いた。エルドは縛られた手を前に重ね、押しつけがましくない短い祈りを、風に紛れるくらいの小声で続ける。レオンは祭壇の裂け目から視線を上げ、扉の向こうの群衆を一つ一つ数えるように見渡した。数えることは、世界の輪郭を取り戻す動作だ。彼が何を思い出そうとしているのか、リーナにはまだ分からない。


 大聖堂の高窓から、赤く濁った月が覗き込む。ガラスの亀裂を縁取って、光がゆっくりと位置を変える。夜は深く、朝は遠い。それでも、動いている。止まったままの祈りより、動き続ける疑いの方が、まだ扱いようがある。


 リーナは扉の外に向けて歩を進めた。最初に必要なのは、死者の名を記すこと。次に、避難の秩序。そして、その次に――問いを始めること。誰が何を知っているのか。誰が何を隠しているのか。問いは剣だが、今は鞘に収めて持つ。抜く時は、間違えない。


 背後で、仮面の男が静かに笑う気配がした。舞台は整いつつある、とでも言いたげに。

 リーナは振り向かず、夜気の冷たさに肺を満たし、一歩ずつ前へ進んだ。

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