【第3章 影と火の夜】
崩れた大聖堂に、鉄の靴音が増えていく。ひび割れた大理石の上で、甲冑がきしみ、怒声と祈りと泣き声が交じった。祭壇の陰で深呼吸をひとつだけして、わたしは前へ出た。
「下がってください。ここは――」
「黙れ!」若い兵が叫び、剣先が震えながらわたしを素通りして、四人の影へ向いた。「なぜ神官が灰になって、そいつらだけ立っている!」
回答はどこにもない。レオンは無表情のまま床の紋を見つめ、セリナは瞼を伏せ、エルドは胸に手を当て静かに佇み、ミラは泣き腫らした目で周囲の呻きを聴いた。疑いは、乾いた藁の山のように、ひと息で燃え上がる。
そのとき、崩れた柱の影から、あの男が歩み出た。仮面、黒衣、静かな気配。魔王カイリ。
「――忘れるな。勇者は本来、ひとりだ」
その一言で、空気が反転した。ざわめきは怒号になり、怒号は恐怖へと裏返る。
「じゃあ残りは影だっていうのか!」
「誰が本物だ! 名乗れ、今すぐ!」
「影を縛れ! いや、殺せ!」
刃が抜かれ、槍が影たちへ向く。わたしは前へ出て、両腕を広げた。
「やめて! ここで血を――」
「退け!」兵が肩でわたしを押しやる。背中が石に打ちつけられ、肺から息が抜けた。視界の端で、レオンに剣が振り下ろされる。
金属音は鳴らなかった。レオンが振り下ろされた刃を指二本で挟み止め、ただ首を傾げたからだ。
「順番を決めろ」温度のない声。「俺からでもいい。だが、覚悟はあるのか」
兵士の手が強張る。そこへ、別の刃が突き出された。今度はミラへ。
「泣いているふりをするな、影!」
ミラは後ずさりしない。震える膝を押しとどめ、わたしを見るでもなく、兵士を見るでもなく、胸の前で指をぎゅっと握った。
「……痛いの。怖いの。みんなの心が刺さってくるみたいに」掠れた声。それでも途切れない。「でも、誰も死んでほしくない。だから、逃げない。もし――斬るなら、その前に、私の声を聞いて」
ひと呼吸。赤い花が、ミラの足もとにひとつ、ふたつ、静かに咲いた。血ではない。けれど、痛みの色をした花弁。花の揺らぎに合わせるように、怒鳴りかけた兵士の喉がふ、と緩む。彼の瞳に、一瞬だけ後悔の影が差した。
共鳴――わたしは息を呑んだ。これは慰めではない。感情そのものを揺らし合わせる力だ。優しさの形をして、もっとも危うい。
「……お願い」ミラは踏み出す。「斬る前に、あなたの痛みを、私に少し分けて。私が持つから」
「馬鹿なことを――」
兵士が言い切るより早く、エルドが一歩進み出て、その剣の前に手を差し出した。刃は止まる。彼は静かに首を振る。
「恐れに任せて振るう剣は、祈りを守らない」
セリナはようやく目を開け、わずかに唇を動かした。音は出ない。けれど、彼女の沈黙は、周囲から叫びを奪っていく。怒号が削がれ、代わりに荒い息だけが満ちる。
そのとき、カイリがまるで古文書を読み上げるように淡々と続けた。
「勇者は必ずいる。救いは、まだ消えていない。だが――ひとりだ。他は、心から生じた影。罪の残響。模倣。あるいは、世界が自分を守るために作った"嘘"」
希望と絶望が同時に投げ込まれる。人々の顔が、明滅する灯りみたいに揺れて見えた。
誰かが叫ぶ。「だったら選べばいいだろ! 本物をひとり選んで、残りは――」
「やめて!」喉が裂けるほどの声が出た。「ここを裁きの場にしないで。祈りの残骸の上で、誰かを殺して得る安堵は、救いじゃない!」
沈黙。刃の先が、わずかに下がる。わたしは体の震えを隠さず、兵士たちの間を縫って影の前に立った。ミラがこちらを見る。泣き顔のまま、それでも、あの子の瞳は揺らいでいない。
――もし"勇者"が、誰かを救おうとする意思のことだとしたら。
いま、この瞬間いちばんそれに近いのは、この少女かもしれない。
だが、わたしの胸の奥の確信は、次の瞬間、別の恐怖に冷やされた。そう感じるわたし自身は、どれほど信じられるのだろう。儀式は失敗し、神官たちは灰になり、わたしは生き残った。疑いの矢は、影だけでなく、いずれ必ずわたしにも向く。
「リーナ殿」老兵が声をかけた。「この者らを、どうする」
皆の視線が集まる。選択の時間は、もう始まっている。
わたしは息を整え、言葉を搾り出した。
「夜が明けるまで、ここを避難所にします。武器を下ろし、負傷者を運び込み、祈りの型で、互いを確かめ合ってください。影の四人は、私の目の届くところに。……魔王は――」
カイリは仮面越しに、穏やかに首を傾げた。「私は客でいい。見届け人であり、告げる者だ。始まりを、終わりへ連れていく」
彼の足もとで、影が波のように呼吸した。人々は視線を逸らせないまま、各々の場所へ動き始める。雑多な命の音が、崩れた聖堂の空洞に満ちた。
火を焚いた。赤い月の光が弱まり、炎が人の顔を浮かび上がらせた。恐怖にこわばった頬、怒りで熱を帯びた目、絶望の色。ミラは火から離れた柱の根本に座り、震える手で花弁を集めている。セリナは壁際に立ち、沈黙で周囲の怒声を吸い取っていた。エルドは負傷者の止血を手伝い、妙に手際が良い。レオンは、火と人と影の位置関係を見て、何かを記憶しようとしていた――いや、思い出されるのを待っていた。
わたしは民と兵を回り、祈りの型で額に触れ、確かめた。熱、脈、目、呼吸。生きている。生きている。生きている。
「……リーナ様」
小さな手が袖を引いた。避難してきた少年だ。煤で汚れた頬。震えた声。
「勇者は、いるの?」
喉が痛かった。わたしは微笑んでみせた。偽りでない笑みでありたいと願いながら。
「いるよ。必ず」
少年はうなずき、火のそばへ走っていった。言葉は、軽すぎただろうか。けれど――あの問いに重さで応じる方法を、いまのわたしは持たない。
カイリがいつの間にか近くにいた。仮面の奥から、柔らかい声が落ちる。
「良い火だ。夜は越えられる」
「……あなたは、何を望んでいるの」
「結末を。救いでも滅びでも、どちらでも構わない。重要なのは――選ばれることだ」
「誰が、誰を、何から選ぶの」
「世界が、自分から。あるいは、人が人から。君が、君自身から」
答えになっていない。けれど、その言葉は冷たい井戸水のように胸の奥へ沈んでいった。
火がはぜる音に紛れて、囁きがひとつ、耳の裏を撫でた。神の声か、魔の声か、あるいはわたし自身の恐れか。
『選べ。信じる火を。斬る影を』
眠れない夜が始まる。ここから、だましあいが始まる。わたしたちは、祈りの残骸の上で、それでも救いを求めてしまう。
勇者は――いる。だが、誰かは、まだ分からない。
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