七つ影の勇者
ななし
【第1章 祈りが裏返る夜】
大聖堂の空気は、祈りで満たされていた。
だがその静謐は、どこか脆く、張りつめた糸のように危うかった。
リーナ・アルフィンは胸の前で手を組み、静かに息を整えた。今日、この《召喚の儀》が成功しなければ、世界は終わる。
神が沈黙して久しい。七つの国は憎しみを一時封じ、伝承に記された"光の断章"を携えて、この神殿都市ルミナ=グランデに集った。王たちは互いに目を合わせず、ただ祭壇の白炎を見つめていた。信仰は擦り切れ、希望だけが薄紙のように残っていた。
「――七つの光よ、降臨せよ。神の名において、選ばれし勇者を顕現せん」
詠唱が高まり、七つの聖具――剣、杖、冠、聖杯、書、盾、羽が淡く光を放った。床一面の陣が共鳴し、光の筋が天へと昇る。百を超える神官が輪を組み、同じ息で聖句を編んでいく。ステンドグラスの月は青く、光は白かった。
しかし、光の動きが――乱れていた。
本来なら中央へ収束するはずの輝きが、七つの陣それぞれで脈打っていた。まるで七つの心臓が別々に鼓動しているように。
「……違う……これは……」
隣に立つ老神官が小さく呟いた。祈りではなかった。怯えの声だった。
彼の指は震え、胸元で握った羊皮紙がかすかに擦れる。古い墨の匂いが、リーナの鼻先を刺した。
「導旨原典――"第一片"だ」
老神官はリーナだけに聞こえる小声で言った。
「上層にしか見せぬ。記述はこうある――『七つの光、ひとつの魂より生じ、ひとつの影より滅ぶ。勇者はひとり。他の光は、その心より生じた影なり』」
リーナは息を呑んだ。七人の勇者が現れると信じて疑わなかった。けれど、もし本当に勇者がひとりだけなら――残る六人は何なのか。疑念は祈りの形を崩し、胸の内側で乾いた音を立てた。
「勇者は……ひとりだけのはずだ……」
老神官の声が震えた次の瞬間、光が裏返った。
白が黒へ。詠唱が悲鳴へと変わった。大理石の紋が裂け、聖具の光がひとつ、またひとつと消えていく。風もないのに祭壇の布が逆巻き、リーナの髪が震えた。祈りの輪の中心で光が弾け、神官たちは灰へと崩れ落ちた。
それでも両の手は、祈りの形のままだった。
七つの陣のうち、四つが黒く滲んだ。残る三つは沈黙したまま、冷たい石と化した。
黒霧の渦の縁から、人の姿が立ち上がる。影が、輪郭を得ていく。
最初に現れたのは、金の瞳を持つ青年だった。黒衣の外套は光を拒み、手にした刃は影を映すように鈍く輝いていた。青年は足元の砕けた紋に視線を落とし、刃の峰で床の灰をなぞった。刃は灰を傷つけず、代わりに温度だけを奪い、そこだけ空気が冬になった。
「……呼ばれたのか?」
低く乾いた声。怒りも戸惑いもなかった。ただ、長い夢の途中で思い出したものを確認するような無表情だった。
彼は何も尋ねなかった。世界が彼に語りかけるのを、ただ待っているだけに見えた。視線が一度リーナを掠め――そして、微かに遅れた。まるで記憶が遠くから戻ってくるのを待つように。
名は、レオン・クロウズ。忘却の残響。
二つ目の陣から、白衣の少女が音もなく立ち上がった。目は閉じ、唇は動かなかった。それなのに、声だけが聖堂を満たした。
「……祈れ」
床の灰がざわめいた。風もないのに形を取り戻し、人の輪郭を描く。指が、掌が、胸の前で重なり――合掌。かつて祈った姿勢のまま、影は脆く崩れ落ちていった。
少女は静かに目を開いた。瞳は井戸の底のように澄み、感情の光はほとんど揺れなかった。
「言葉は奪える。だから私は話さない」
懺悔にも、告知にも聞こえる低い囁きだった。彼女は声を持たずとも、他者に言葉と祈りを強いることができる。沈黙が命令の形になる者。誰かの祈りは、彼女の前では意志ではなく反射に変わる。
名は、セリナ・フェイル。沈黙の支配。
三つ目の陣では、鎧の男が膝をつき、右手を胸に当てて祈っていた。
「……神よ、罪なき世界を」
穏やかな声音。誰よりも勇者らしい佇まい。彼は立ち上がると、リーナに手を差し伸べ、柔らかく微笑んだ。
「恐れることはありません。これは試練です」
救済の響き――それなのに、リーナは背筋を冷たい刃で撫でられたような感覚に襲われた。彼の瞳の奥にあったのは慈悲ではなく、受容だった。崩壊も死も、この惨状すらも正しき結末として受け入れる揺るがぬ確信。世界が滅びても構わない――それが神の意志ならば。彼にとって祈りは救いではなく、終わりを受け入れるための儀式に過ぎなかった。
名は、エルド・ラグナス。救済の終着。
最後の陣から、黒髪の少女がよろめき出た。涙の跡が頬を伝い、笑おうとして、うまく笑えなかった。
「痛いの……あなたたちの心の痛みが、ぜんぶ、聞こえる」
指先が床に触れた場所から、赤い花が咲いた。花弁は血に濡れたように重く、それでも散っていく。ミラは花弁を見つめ、そこに宿る痛みに肩を震わせた。
「ごめんなさい。誰のでもない痛みまで、私の中で鳴ってるの」
共感ではなかった。彼女の中で、他者の苦しみが勝手に音を立てていた。拒むことも、遮ることもできない――強制的な共鳴。優しさは祝福ではなく、裂傷として刻まれていく。
名は、ミラ・オルデイン。共鳴の傷痕。
四人の影が揃い、崩れた聖堂に静寂が降りた。輝きは途絶え、神官たちは灰となり、祈りの声は風に溶けた。祭壇の白炎は煤けた灯へと変わり、ステンドグラスの月は赤く滲んだ。
リーナは唇を震わせた。「……勇者の召喚だった、はずなのに」
返る言葉はなかった。ただ、割れた天蓋の隙間から覗く赤い月が、沈んだ海のように揺れていた。
「勇者、か」
奥から低く響いた声が、崩れた石壁に反響した。リーナが振り向くと、仮面の男が立っていた。黒衣の裾は闇と溶け合い、形を定めない。足元で影が波のように蠢き、彼が一歩踏み出すたび、それは音もなく位置を変えた。
「――その名は、もうとうに滅びたはずだ」
男は四人の影を順に見渡し、最後にリーナへ目を留めた。微笑は柔らかかったが、眼差しは人のものではなかった。
「ようこそ、選ばれし影たち。神が沈黙したこの時代に、影は再び目を覚ました。――お前たちは、七つの罪の継承者だ」
リーナの喉が鳴った。「あなたは……誰?」
「魔王、カイリ・ヴェルザード」
仮面の男は、自分の名を静かに置いた。そして、まるで古い傷跡を撫でるように言葉を重ねた。
「かつてこの世界を救った勇者のひとり、だよ」
赤い月が割れた天井から降り、聖堂を審判の色に染めた。リーナの耳に、囁きが落ちた。神の声にも、魔の声にも似た、名を持たぬ呼び声だった。
『選べ。光を信じるか、影を受け入れるか』
これは誰の声だ――神か、魔か、それとも。
リーナは確かめようと口を開き、喉の奥で言葉を呑んだ。答えは、まだ持てなかった。
ただひとつ確かなのは――勇者はひとりだけのはずなのに、ここに五人がいること。そして、その誰もが自分こそ"本物"だと信じていることだった。
――――――――――
【作者コメント】
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
作者はまだ小説執筆も投稿も初心者ですが、この物語をどうしても形にしたくて書き始めました。
召喚されたのは勇者ではなく、“影”を宿す四人。
そこへ現れたのは、かつて勇者だったと語る魔王。
本物の勇者は誰なのか。あるいは、本物など最初から存在しないのか。
次章からは、祈りよりも疑念が強くなる物語、信頼よりも沈黙が語る物語へと変わっていきます。
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