中編

(……寒い)


夜会用の薄いドレス一枚で、どれだけ歩いただろう。

王都を出て、ひたすらに国境を目指して歩いた。

もう、ここにはいられない。


ヒールはとうの昔に折れ、素足は石や枝で傷だらけだ。

公爵令嬢だった頃の面影は、もうどこにもない。


(父様、母様、ごめんなさい……)


私のせいで、両親はすべてを失った。

今頃、牢にでも入っているかもしれない。

……いや、エドワード殿下のことだ。私を追放しただけで、満足しているかもしれない。

そうであって、ほしい。


夜が明け、霧が立ち込める国境の森に、私は足を踏み入れていた。

もう、どの国とどの国の境目なのかも分からない。

ただ、エドワード殿下のいない場所へ、マリア様のいない場所へ行きたかった。


(……疲れた)


ガクン、と膝の力が抜ける。

大きな木の根元に、私は倒れ込むように座り込んだ。

もう、一歩も動けない。


(このまま、ここで……死ぬのかな)


それも、いいかもしれない。

「悪役令嬢」には、お似合いの最期だ。

私は、そっと目を閉じた。


――パキリ。


不意に、枯れ枝を踏む音で、私は意識を引き戻された。


(……獣?)


この森には、狼が出ると聞いたことがある。

私は、恐怖で身を固くする。

どうせ死ぬなら、せめて苦しくないように……。


「……こんな場所で、何を?」


聞こえてきたのは、獣の唸り声ではなく。

低く、落ち着いた、男の人の声だった。


恐る恐る目を開けると、そこには、一人の男性が立っていた。

霧のせいで、姿はぼんやりとしか見えない。

だが、その立ち姿は、ただの旅人ではないと分かった。


「……」


私は、声が出なかった。

あまりのことに、現実感がなかった。


男性は、私に一歩近づいた。

そこでようやく、彼の姿がはっきりと見えた。


(……あ)


艶やかな、夜空のような黒髪。

透き通るような、雪の肌。

そして、すべてを見透かすような、怜悧な紫(すみれ)色の瞳。


その姿を、私は知っていた。


「……隣国の……ジュリアス、殿下……?」


なぜ、こんな場所に?

彼は、昨夜の夜会で、私を冷ややかに見つめていたはずの。


ジュリアス殿下は、私(という名の、泥だらけのボロ雑巾)をじっと見つめ、そして、わずかに眉を寄せた。

……あの時と、同じ顔だ。


「……やはり、君か。アルノー公爵令嬢」

「……私のこと、を……?」


彼は、ため息を一つつくと、自分が着ていた分厚いマントを脱ぎ、無言で私の肩にかけた。

ふわりと、温かい体温と、気品のあるお香の匂いがした。


「立てるか」

「あ……はい……」


彼が差し出してくれた手を、私は戸惑いながらも取った。

その手は、ゴツゴツとして、驚くほど温かかった。


彼に引き起こされ、私はよろよろと立ち上がる。


「……殿下。なぜ、私だと……。こんな、姿なのに」

「忘れるものか」

ジュリアス殿下は、淡々と言った。


「三年前の国際会議。この国(エドワードの国)の穀物輸出関税について、各国の重鎮が誰も反論できずにいた時、君だけが、『それは長期的に見て、貴国の農民の首を絞めることになります』と、的確なデータと共に、あの愚かな王(エドワードの父)に進言した」

「……え? あ、そんなことも……」


(あった、気がする……)

(あの時、父様に「出過ぎた真似だ」と後で少し叱られたけど……)


「あの時、君は言った。『国とは、王のものではなく、民のものである』と」

ジュリアス殿下は、私の目(泥で汚れている)を、まっすぐに見つめていた。


「そんな君が、か弱い聖女()を虐げるような、『悪役』であるはずがない」


「……!」


(……この人は)

(信じて、くれた……?)


あの場にいた全員が、私を「悪役」だと信じて疑わなかったのに。

この、たった今会った(正確には二度目だが)だけの、隣国の王子が。

私を、信じてくれた……?


「……ですが、私は……もう、公爵令嬢では……ありません……」

「知っている。昨夜の茶番は、すべて見させられた」

「……」

「……行く当ては?」

「……ありません。ただ、この国から、遠くへ……」


ジュリアス殿下は、少し考える素振りを見せた後、きっぱりと言った。


「なら、俺の国へ来い」

「……え?」


「客人として、歓迎する」

「で、ですが! 私は、追放された身で……あなた様の国に迷惑が……」

「迷惑かどうかは、俺が決める」


ジュリアス殿下は、私の反論を許さない、という強い光で、私を見つめた。

噂通りの「氷血の王子」とは思えない、強い瞳。


「……イザベラ。君は、こんな森の中で朽ち果てるような女ではない」

「……」

「俺が、君の『翼』になる。……いや、君が、俺の『翼』になってほしい」

「殿下……?」


(……翼?)

(どういう、意味……?)


私が彼の言葉の意味を測りかねていると、彼は、ふ、と口元を緩めた。

氷が、ほんの少しだけ、溶けたような気がした。


「……まずは、温かいスープと、ふかふかのベッドが必要だな」


彼は、私を軽々と抱き上げた。

いわゆる、お姫様抱っこ、というやつだ。


「きゃっ!?」

「暴れるな。落ちるぞ」

「お、降ろしてください! 私、汚れて……!」

「黙れ。……ああ、これでは、俺の服も泥だらけか」


彼は、心底嬉しそうに、そう言った。


(……え?)

(今、この人、笑った……?)


霧の森の中。

「悪役令嬢」は、「氷血の王子」に拾われた。

それが、私の新しい人生の――想像もしていなかった、甘い逆転劇の、始まりだった。

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