第3話 美月のブレンド③ 走る理由

都大会当日。 美月は、これまでとは違う気持ちでスタートラインに立つ。 勝ちたい。でも、それだけじゃない。 自分のために走る——その理由を胸に、彼女は風を切る。 一杯のコーヒーがくれた“整う心”が、今、彼女の足を支えている。




スタートラインに立った瞬間、風の音がよく聞こえた。 観客のざわめきも、仲間の声も、遠くに感じる。


美月は、深く息を吸った。 胸の奥に、あの香りが残っている気がした。


「自分のために、走る」


その言葉を、心の中で繰り返す。


ピストルの音が鳴る。 身体が前へと飛び出す。


地面を蹴る感覚。 風を切る感覚。 誰かと競っているわけじゃない。 でも、誰かに届いてほしい気持ちは、確かにある。


コーナーを回る。 足が重くなる。 でも、心は軽かった。


「負けても、終わりじゃない」 「走ることが、私の選択」


その思いが、彼女の背中を押す。


ゴールラインが見えた。 最後の一歩を踏み出す。


——そして、走り抜けた。


結果は、自己ベスト。 順位は、あと一歩届かなかった。


でも、美月は笑っていた。 悔しさもある。 でも、それ以上に、走り切ったことが嬉しかった。


大会後、彼女はカフェ・デ・ソルテを訪れた。


カラン、と鈴の音が鳴る。


マスターは、変わらずカウンターの奥に立っていた。


「お疲れさまでした」


「……走ってきました。ちゃんと、自分のために」


マスターは微笑んだ。


「それは、素晴らしい一歩ですね。 今日のあなたに合わせて、もう一杯お淹れしましょう」


棚から豆の瓶を取り出す。 ラベルには「Runner’s Glow」と手書きされていた。


深煎りのケニアと、軽やかな香りのパナマ。 力強さと透明感を併せ持つブレンドだった。


豆を挽く音が、店内に響く。 美月はその音を聞きながら、静かに目を閉じた。


湯を注ぎ、香りが立ち上る。 それは、走り終えた身体に染み渡るような香りだった。


「どうぞ」


美月はカップを受け取り、そっと口をつけた。


苦みの奥に、澄んだ甘さ。 走ったあとにしか味わえないような、静かな達成感が広がる。


「……おいしいです。 今日の私に、ぴったりの味です」


マスターは頷いた。


「走った人だけが味わえる一杯です」


美月は、カップを見つめながら微笑んだ。


「また走ります。 勝ちたいけど、それより、自分を信じていたいから」


「その気持ちが、きっとあなたを導いてくれます」


店を出た美月は、空を見上げた。 風が、少しだけ優しくなった気がした。


そして彼女は、歩き出した。 次のスタートラインへ向かって——。

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