閑話1 美月のブレンド・風のあとで

大会の翌日、美月はカフェ・デ・ソルテの扉を開けた。


カラン、と鈴の音が鳴る。


マスターは、変わらずカウンターの奥に立っていた。


「おかえりなさい」


「……走ってきました。昨日、都大会でした」


マスターは頷いた。


「お疲れさまでした。 今日のあなたに合わせて、もう一杯お淹れしましょう」


美月は、カウンター席に腰を下ろした。 少しだけ、身体が重い。でも、心は軽かった。


マスターが選んだ豆は、深煎りのケニアと、軽やかな香りのパナマ。 力強さと透明感を併せ持つブレンド。


豆を挽く音が、店内に響く。 美月は、その音を聞きながら、昨日の風景を思い出していた。


湯を注ぎ、香りが立ち上る。 それは、走り終えた身体に染み渡るような香りだった。


「どうぞ」


美月はカップを受け取り、そっと口をつけた。


苦みの奥に、澄んだ甘さ。 走ったあとにしか味わえないような、静かな達成感が広がる。


「……おいしいです。 昨日の私に、ぴったりの味です」


マスターは微笑んだ。


「走った人だけが味わえる一杯です」


美月は、カップを見つめながら微笑んだ。


「順位は、あと一歩届かなかったけど…… 悔しいより、走り切ったことが嬉しかったです」


「それは、あなたが自分のために走ったからですね」


窓の外には、春の光が差し込んでいた。 店内には、ジャズが静かに流れている。


美月は、カップの底を見つめながら、ふと呟いた。


「……また走ります。 勝ちたいけど、それより、自分を信じていたいから」


マスターは頷いた。


「その気持ちが、きっとあなたを導いてくれます」


美月は店を出て、空を見上げた。 風が、少しだけ優しくなった気がした。


そして彼女は、歩き出した。 次のスタートラインへ向かって——。

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