第2話 美月のブレンド② 整う午後
焦りの朝を越えた美月は、もう一度カフェ・デ・ソルテを訪れる。 あの一杯が、彼女の心に残っていたから。 今度は、少しだけ整った気持ちで、もう一杯を味わう。 勝ち負けだけじゃない、自分のために走るという選択が、静かに芽吹いていく。
週末の午後、美月は再びカフェ・デ・ソルテの前に立っていた。 扉の向こうに漂う香りが、記憶の奥から静かに呼びかけてくる。
カラン、と鈴の音が鳴る。
マスターは、変わらずカウンターの奥に立っていた。 その姿に、前回とは違う安心感を覚える。
「おかえりなさい」
「……また来ちゃいました」
「嬉しいです。今日は、どんな一杯にしましょう?」
美月は少しだけ考えてから、答えた。
「前と同じブレンドで。……でも、今度は、ちゃんと味わって飲みたいです」
マスターは頷き、静かに豆を挽き始めた。 その音が、心のざわつきを少しずつ静めていく。
湯を注ぎ、香りが立ち上る。 前回と同じはずなのに、どこか違って感じられる。 それは、彼女の心が変わったからかもしれない。
「どうぞ」
美月はカップを受け取り、そっと口をつけた。
酸味の奥に、柔らかな甘さ。 静かな余韻が、胸の奥に広がっていく。
「……やっぱり、好きです。この味」
マスターは微笑んだ。
「それは、あなた自身が整ってきた証かもしれませんね」
美月はカップを見つめながら、静かに頷いた。
「勝ちたい気持ちは変わらないけど、 負けることが怖くて走ってた頃より、今の方がずっと楽です」
「その感覚、大切にしてください。 走る理由が変わると、景色も変わります」
窓の外には、春の光が差し込んでいた。 店内には、ジャズが静かに流れている。
「……あの時、負けたら全部が終わると思ってました。 でも、終わるんじゃなくて、変わるだけなんですね」
マスターは頷いた。
「変化を受け入れられる人は、強いです。 そして、強さにはいろんな形があります」
美月は、カップの底を見つめながら、ふと呟いた。
「……都大会、楽しみです。 勝ちたいけど、それより、自分らしく走りたい」
マスターは静かに微笑んだ。
「その気持ちが、きっとあなたを導いてくれます」
美月は立ち上がり、カップを丁寧に返した。
「ありがとうございました。 この一杯が、私の“焦り”を整えてくれました」
マスターは頷いた。
「その一杯が、あなたの中に残り続けることを願っています」
店を出た美月は、空を見上げた。 風が、少しだけ優しくなった気がした。
そして彼女は、歩き出した。 次のスタートラインへ向かって——。
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