希望の一杯お入れします
浅緒 ひより
第1話 美月のブレンド① 焦りの朝
都大会を目前に控えた高校生・美月は、焦りと不安に押しつぶされそうになっていた。 そんな彼女が、ふと立ち寄った喫茶店で出会った一杯のコーヒー。 その香りと味が、彼女の心を静かに整えていく。 希望の一杯が、人生の歩みをそっと変えていく物語。
朝の空気は、少しだけ冷たかった。 春のはずなのに、心がざわついているせいか、肌寒く感じる。
美月は、駅前のベンチに座っていた。 制服の襟を握りしめながら、スマホの画面を見つめる。
「都大会まで、あと三日……」
画面に表示されたカウントダウンが、胸を締めつける。 練習はしている。記録も悪くない。 でも、心が追いついていない。
「勝たなきゃ意味がない」 「去年の悔しさを晴らすんでしょ?」 「期待してるよ」
そんな言葉が、頭の中でぐるぐる回る。 誰かの声なのか、自分の声なのか、もうわからない。
ふと、風が吹いた。 スマホの画面が消え、視線が外れる。
その先に、小さな喫茶店が見えた。
「Cafe de Sorte」——カフェ・デ・ソルテ。
木製の看板に、手書きの文字。 どこか懐かしいような、初めて見るような、不思議な感覚。
美月は、吸い寄せられるように扉を開けた。
カラン、と鈴の音が鳴る。
店内は静かだった。 木の温もりと、低く流れるジャズ。 窓際の席には柔らかな光が差し込んでいる。
カウンターの奥には、白髪混じりの穏やかな男性——マスターが立っていた。
「いらっしゃいませ」
美月は、少しだけ戸惑いながらもカウンター席に座った。
「おすすめ、ありますか?」
マスターは微笑んだ。
「お客様に合わせて、ブレンドをお淹れすることもできます。 もしよろしければ、いくつか質問をさせていただいても?」
美月は驚いたように目を見開いた。 けれど、すぐに頷いた。
「……お願いします」
マスターはカウンター越しに、静かに問いかける。
「今、何かに向かっている途中ですか?」
「はい。都大会が近くて……陸上部なんです」
「それは、あなたにとって大切な挑戦ですか?」
「……わかりません。勝ちたいけど、怖いです。 負けたら、全部無駄になる気がして」
マスターは頷いた。
「わかりました。 あなたの“焦り”に寄り添う一杯を、お淹れしましょう」
棚から豆の瓶をいくつか取り出す。 ラベルには「Morning Clarity」と手書きされていた。
浅煎りのグアテマラと、柑橘系の香りを持つエチオピア。 その配合は、朝の不安を静かに整えるようなブレンドだった。
豆を挽く音が、店内に響く。 美月はその音を聞きながら、少しだけ肩の力を抜いた。
「……楽しみです」
マスターは微笑みながら、湯を注ぎ始めた。
香りが立ち上る。 それは、どこか遠くの景色を思い出させるような香りだった。
「どうぞ」
美月はカップを受け取り、そっと口をつけた。
酸味の奥に、柔らかな甘さ。 静かな余韻が、心の奥に広がっていく。
「……おいしい」
その言葉には、少しだけ安堵が混じっていた。
そして、彼女は静かに笑った。
「勝ちたいけど、負けても、全部が無駄になるわけじゃないですよね」
マスターは頷いた。
「その気持ちが、きっとあなたを支えてくれます」
美月は、カップを見つめながら、静かに息を吐いた。
「……ありがとうございます」
その声は、誰にも聞かせたことのない、素直な声だった。
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