次元を渡る天才科学者、結婚相手を実験体にしてみた

ざわざわ

第1話 無意味な伴侶

――正直に言えば、少々やっかいな話だ。


 あの「もう一人の自分」から招待を受け、この奇妙な次元へ渡ることを決めたとき、まさか――

 この世界の「自分」が、そんなとんでもない“サプライズ”を用意しているとは思わなかった。


 家の中に、知らない人間が一人、増えていたのだ。

 まるでホラーの導入のような話だと、ミアは苦々しく笑った。


 あの性格最悪な「彼女」に、よくもまあ指輪を渡し、花束を差し出して「永遠を誓う」などという酔狂な男がいたものだ。

 勇敢というより、愚かと呼ぶべきだろう。


「やだなぁ、私のかわいいプリンセス。そんなに気にすることないじゃない?」


 通信機の向こうで、別の次元の“彼女”――今ごろどこかの惑星で優雅に遊び呆けている同位体が、

 サングラスを掛け、襟元を開け放ち、まるで享楽の化身のように笑っていた。


 その放埒な態度に、初めてこの世界に立ったばかりのミアは、心底うんざりした。

 どの次元の彼女であろうと、他人が自分の空間に踏み込むことを何よりも嫌う。

 だからこそ、目を覚ました瞬間、床の上で誰かに悲鳴を上げられたとき、

 彼女はまず冷静に起き上がり(そして心の中で「なぜ座標をベッドではなく床に設定したのか」と舌打ちした)、

 次の瞬間には迷いもなく、ベッド脇の暗箱から記憶消去銃を取り出していた。


 閃光が走り、世界が一瞬、息を呑んだように静まり返る。


「言わせてもらうけど、あなたのせいで無駄な手間が増えたわ。それに、ここに“居候”がいるなんて聞いてない」


 冷凍庫のような声で、ミアは通信機に向かって言った。

 もう一人の“ミア”は、サングラスを外し、気楽に肩をすくめる。


「ちゃんと忠告したはずだよ? この世界、かなりイカれてるって。

あなたの求める“完璧な管理”なんて、どこにも存在しない。

それに――その“ペット”を使って実験していいって、私も言ったでしょ?」


 そう言って、彼女は画面に顔を寄せた。翠の瞳が光を受けて妖しく輝く。

「シルヴィア。あなたの行く世界には“複数の性”が存在するの。

しかも、性差別が常識として成立してる。狂ってるけど、ちゃんと動いてるのよ」


 言葉を区切り、愉快そうに笑い出す。

「――ようこそ、“大人の世界”へ!」


 通信は、そこで無情に切断された。


「……いってぇ……」


 床に転がっていた男が、うめき声を上げて目を開けた。

 記憶消去そのものは痛くない。だが、後頭部のたんこぶは別だった。

 彼は眉をひそめ、腫れた箇所に手を当てる。鋭い痛みに顔をしかめ、

 ぼんやりした意識が、少しずつ現実に戻っていく。


 ――ここは、あの狂気の科学者の屋敷だ。


 ミア・シルヴィア。

 若き貴族にして、貴族制度を最も軽蔑する女。

 帝国第一学院を退学し、軍の召集を拒否。挙句には「反社会的思想」を公言して全星域の公敵にまでなった。


 ……まったくもって、結婚相手としては最悪だ。


 だが、彼――家の名誉のために政略結婚を強いられた次男坊であり、議会進出の夢に敗れた男――には、選択肢などなかった。

 決められたのは“生涯”だけで、自分の意思などどこにもない。


 当然、結婚生活に奇跡など起きるはずもない。

 物語のように“氷の妻が夫の前でだけ微笑む”など、あれはただの幻想だ。

 現実の彼女は、結婚式にさえ遅刻し、白衣姿のまま兄の戦艦に引きずられて式場へ現れ、

 「親への義理だから来ただけ」と言い放った。

 結婚後も、その態度は微塵も変わらない。

 どれだけ優しくしても、どれだけ笑いかけても、彼女はいつも彼を“空気”のように扱った。


 そして今――

 男は後頭部をさすりながら、涙のにじむ目で天井を見つめていた。

 ――倒れていても、心配の一言もないのか。

 ……本当に、この結婚を続ける意味があるのだろうか。


 そのとき、扉が開いた。

 ミアは、彼のそんな内心など知る由もなかった。


 男が昏倒している間に彼女は採血を済ませ、研究室で“成体男性”という生物の初期データ解析を終えていた。

 彼女は、珍しい生命体を集めるのが趣味だった。

 誰かがレアカードを集めるように、彼女はこの世でただ一つの存在を収集したがったのだ。


 彼女の元いた世界には、“性別”という概念すら存在しなかった。

 だからこそ、「この世界には性があるんだよ。見てみたくない?」という同位体の挑発に、つい乗ってしまったのだ。


 解析は全体の五パーセントほど。

 残りの九十五パーセントの時間、彼女はなぜか“製糖機”の設計に没頭していた。

 材料は安価、構造は完璧。生成された角砂糖は、精密な六角形をしていた。

 彼女は甘党だった。

 なにより、“自分の味覚に合う”砂糖を愛していた。


「コーヒーを淹れて。」


「かしこまりました、マスター。」


 研究室のAIは、既に彼女専用に書き換えられていた。

 外見も、動作も、プログラムも、市販のモデルとほとんど変わらない。

 それでも彼女は、自分仕様のもの以外は絶対に使わない主義だった。


 金属の腕が静かに動き出し、無人の温室ではコーヒーの木が瞬く間に成長していく。

 収穫、焙煎、粉砕、抽出――そして過剰なまでに砂糖を加え、

 ぎこちなく歩くロボットが、湯気を立てるカップを彼女の手元に運んできた。


 その光景は、帝国軍の技術者が見れば腰を抜かすほどのものだった。

 軍事機密級のテクノロジーを、彼女はただ――“自分で淹れるのが面倒だから”という理由で使っている。


「ボタン一つで済むだろう? なぜそんなに手間をかける?」

 そう問いかけた者に、彼女は迷いなく答えた。


「――やりたくないからよ。」


 理由など、それだけで十分だった。


 * * *


 再び扉が開く音がした。

 床に倒れていた男が、意識を取り戻す。

 最初に感じたのは、香りだった。

 焙煎された豆の香ばしさと、甘い砂糖の香り。

 そして、それをまとって入ってくるミアの姿。


 白衣の裾が光を受け、彼女の髪に微かに金の粒子が宿る。

 その一瞬の美しさに、男は思わず息を呑んだ。

 ――まるで、幻のようだった。


 彼の胸に、懐かしい錯覚がよぎる。

 愛された記憶のない男が、それでも「もしかして」と思ってしまうほどに。

 彼女の横顔は、あまりにも静かで、完璧だった。


「ミア……」


 絞り出すように名前を呼ぶ声には、かすかな希望が滲んでいた。

 けれど、次の瞬間、淡い閃光が走る。


 ――記憶消去銃の光。


 男は、再び床に崩れ落ちた。

 ミアは無言で銃口を下げ、淡々とそれをホルスターに戻す。

 視線はすでに、倒れた男ではなく、手元のデータパッドに向けられていた。


 彼女にとって、目の前の男は“実験体No.06”にすぎなかった。

 血清、脳脊髄液、腺分泌物――必要なサンプルを採取し終えると、

 彼女は何事もなかったように試験管にラベルを貼る。


 ふと、気づいた。

 ――そういえば、あの男の名前を知らない。


「ま、どうでもいいわ。」


 独り言のように呟き、背を向けた。

 試験管の中で光を反射する液体が、淡くきらめく。

 ドアが閉まり、再び静寂が訪れる。


 ミアはカップを手に取り、冷めかけたコーヒーを口に運んだ。

 苦みと甘みが、まるで別の次元で溶け合うように舌の上で広がる。

 その味に一瞬だけ、彼女の表情が和らいだ。


 だが、それも束の間。

 彼女は淡々とデータを整理し、次の実験項目を呼び出す。


 ――結局、彼女にとって彼は、ただの“記録”にすぎなかった。

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