第14話 風の歪曲
アルメリアの東端を越えると、祈りの光柱が途絶えた。
そこから先は、かつて帝国が“再構実験”を行った焦土。
祈りも命令も届かぬ――空白帯の境域だった。
風は、戻ったはずだった。
けれど、どこかが違う。
ティナは丘の上で立ち止まり、ランタンを胸に抱いた。
炎はまだ揺れている。
だが、その揺らめきが時おり震える。
呼吸に似た脈動が、別の何かに乱されていた。
エインは空を仰いだ。
雲が流れている。
しかし、動きが速すぎた。
まるで何者かが風を押し出しているようだった。
「……風の向きが、変わっている。」
「悪い方へ?」
「わからない。」エインは首を振った。
「けれど、自然ではない。」
丘の下では、砂が帯のように流れていた。
音が重なり、ざわめきのような響きを生む。
ティナが耳を澄ますと、その中に“声”が混じっていた。
――歩け。
――止まるな。
乾いた声。
風が命令を運んでいる。
「……今、誰かが言った?」
ティナが振り向く。
シオンの表情が固い。
「聞こえました。風に、言葉が混じっています。」
彼は静かに帳を開き、波形の記録を取った。
「これは……人の声を写した波です。」
エインが一歩前へ出る。
「帝国だ。」
「え?」
「この流れは知っている。命令波を風に乗せた“再構信号”だ。」
ティナの胸が強く鳴る。
「じゃあ、この風……」
「命令に操られている。」
エインの目が赤く光った。
「やつらは、祈りを利用して風を再起動させた。」
その瞬間、地面が震えた。
遠くの岩壁が崩れ、砂煙が空を覆う。
風が渦を巻き、声を放つ。
――従え。
ティナは耳を塞いだ。
炎が暴れ、光が吹き消されそうになる。
エインが咄嗟に手をかざす。
装甲の継ぎ目が光り、火を包み守った。
「命令の風だ。精霊が支配されている。」
シオンが叫ぶ。
「このままでは、世界の呼吸が止まります!」
ティナは炎を抱え、必死に祈った。
「お願い……戻って。あなたは誰かを傷つけるための風じゃない……。」
風の渦が一瞬だけ止まる。
音が引き、砂が降り注ぐ。
その隙間から、柔らかな風が流れた。
――まだ、聞こえる。
ティナの胸の奥に、誰かの声が響いた。
かすかだが、確かに生きている。
エインが息を吐く。
「祈りが、命令を拒んだ。」
「けれど完全には消えていません。」
シオンが帳を閉じる。
「帝国の干渉は続く。次は、もっと強く来るでしょう。」
ティナは炎を掲げ、空を見上げた。
風はまだ乱れている。
けれど、その中に――微かな温もりがあった。
風が裂けた。
音を立てることもなく、ただ空気が割れた。
砂が浮かび、草が逆立つ。
ティナは思わず目を覆った。
空が白く閃く。
風が形を持った――そう思った。
輪郭を持たない影が、空間を歩いている。
人の形に似ているが、骨も肉もない。
「……風が、立ってる。」
ティナの声が震えた。
シオンが手帳を開き、符号を走らせる。
「命令波が形を取っている。干渉率七十を超えました。」
「帝国が……ここまで届くのか。」
エインが低く呟いた。
風の人影が、顔のないまま振り向いた。
その中心に、かすかな青光が揺らめく。
声が流れ出す。
――従え。
――戻れ。
ティナの耳に、誰かの名を呼ぶような響きが混ざった。
その声は、どこか懐かしかった。
「……これ、カイムの……?」
エインが息を呑む。
確かに、聞き覚えがある。
命令の奥に、かすかに“意志”がある。
「帝国が彼の命令波を再構したんだ。」
シオンが眉を寄せる。
「命令そのものを再生し、残響を操っている……。」
「つまり、カイムは――」
エインの言葉を風が遮った。
――命令を、返せ。
声は風に乗って地を這う。
ティナが息をのむ。
「違う……彼はそんなこと言わない……!」
ランタンの炎が大きく揺れ、空気が波打つ。
エインが手を伸ばす。
「ティナ、下がれ!」
風の影が腕を伸ばした。
触れた瞬間、地が凍る。
熱が奪われ、炎の光が細くなった。
エインの装甲が鳴る。
関節部が一瞬、凍結した。
「命令波が、熱を奪ってる……!」
シオンの声が響く。
「祈りを熱とするなら、命令は冷却だ――生の逆流です!」
エインは拳を握った。
「命令で凍ったなら、意志で燃やす!」
胸の炎核が輝く。
紅の光が風を裂き、影がひるむ。
ティナは震える手でランタンを掲げた。
「お願い……もう、命令なんか聞かないで!」
炎が伸びる。
風を包み、ひと筋の光となった。
その中で、声が変わった。
――ティナ……。
彼女の瞳が見開かれる。
風の影が揺らぎ、青い光が柔らかくなる。
確かに、それはカイムの声だった。
エインが息を詰める。
「……聞こえてるのか?」
「ええ。祈りが届いています。」
シオンが静かに答えた。
「けれど、命令がそれを押し戻している。」
風が再び強く吹く。
ティナの足が浮き、エインが腕を伸ばして支えた。
「まだ、終わってない。」
「ええ。帝国は彼を“器”として使っている。」
シオンの声が冷たく響く。
「次に来るのは……命令そのものです。」
風が鳴いた。
耳の奥を貫く鋭音。
それは音ではなく、命令の波。
空白帯の空気そのものが、何かに従うように震えていた。
砂が浮き、光が形を取る。
風が輪郭を持ち、人影を描き出した。
右腕が欠け、胸に青い光。
かつての戦友――カイムの姿だった。
ティナが声を詰まらせる。
「……カイム?」
命令体は答えず、ただ立つ。
空気が重く、呼吸がしづらい。
風の渦が彼の足元を螺旋に巻き上げていた。
シオンが観測盤を開く。
「命令波、安定しています。……密度、八十三。
これは――ほぼ生体構造です。」
エインはわずかに息を吐く。
「命令で形を保つ……帝国のやり方か。」
風が鳴った。
命令体が動く。
一瞬で距離が詰まる。
衝突。
エインは腕を交差して受けた。
金属が悲鳴を上げ、地を削る。
圧力に押されて半歩、二歩と後退。
衝撃の余波で砂が宙を舞う。
命令体が腕を振り抜く。
風が刃のように地面を割った。
エインは反射で身をひねり、かわす。
頬を掠めた風が岩を粉砕した。
踏み込み。
エインは低い姿勢から拳を突き出す。
炎が尾を引き、命令体を包んだ。
だが燃えない。
風が炎をはがし取る。
背後へ回った命令体の一撃。
肘が空気を裂き、エインの肩口を打つ。
金属がきしみ、左肩の外殻が剥がれた。
冷気が流れ込み、感覚が鈍る。
衝撃で膝が落ちる。
片膝をつき、砂が沈む。
立ち上がろうとした瞬間、命令体の刃が迫る。
反射的に腕で受け止め、火花を散らした。
装甲の隙間が凍りつき、動きが鈍る。
ティナが叫ぶ。
「エイン!」
「下がれ。」
短い言葉。声に力はないが、確かな命令だった。
エインは膝を支点に地を蹴る。
炎核が脈動し、赤い光が全身を走る。
残った右腕を振り抜く。
衝撃波が砂を巻き上げ、命令体を押し返した。
数歩、距離が開く。
命令体は崩れかけた形を再び組み直す。
青い粒子が集まり、人の形へと戻る。
ティナが息を呑む。
「……生きてるみたい。」
シオンが小さく首を振る。
「いえ。生かされているのではありません。」
目を細め、穏やかに続けた。
「命令そのものが、生きようとしているようです。」
エインは無言のまま風を見据える。
肩の装甲が軋む。
右拳をゆっくり握り直した。
風が唸る。
命令体の胸が脈動する。
その光は命令の律動ではない。
感情――怒りにも似た震え。
エインはわずかに首を傾け、低く言った。
「……カイム。まだ、命令の中で戦っているのか。」
風が叫んだ。
音ではない。悲鳴のような震えが空気を裂く。
ティナのランタンが震え、炎が揺れる。
シオンが記録盤を見つめながら呟いた。
「……命令波、急上昇。帝国が出力を上げています。」
エインは無言で立ち上がる。
風が爆ぜ、砂丘が震えた。
炎核が応じ、装甲の継ぎ目から光が漏れる。
風と炎がぶつかる。
音が消え、世界が白く染まった。
風が裂け、丘が沈んだ。
世界が音を失い、砂が逆流する。
白い光の中で、エインは息を整える。
装甲の表面にひびが入り、関節から赤い光が漏れていた。
胸の炎核はまだ脈を打っている。
命令体は、なお立っていた。
胸の青光が不規則に脈動している。
形が乱れ、風が暴れている。
「……出力が限界を超えています。」
シオンの声はかすかに震えていた。
「命令波が、命令であることを保てなくなっている。」
ティナが顔を上げる。
「それって……?」
「命令が、“意思”を模倣し始めているんです。」
風が唸った。
命令体が一歩を踏み出す。
その動きはぎこちなく、だが確かに“人”のようだった。
エインは構えたまま動かない。
胸の炎核が静かに脈を打つ。
風と炎の光が交錯し、空間が歪んだ。
命令体の胸から、かすかな声が漏れた。
――……終わらせてくれ……。
ティナが息をのむ。
「今……“終わらせてくれ”って……!」
シオンが目を細めた。
「自分の命令を否定している。
命令に抗っているんです。」
エインは短くうなずいた。
「なら、まだ届く。」
風が爆ぜた。
嵐が丘を呑み込み、視界を失わせる。
命令体が突進する。
エインは前に出て、拳で受け止めた。
衝撃。
腕が軋み、金属が裂ける。
拳と拳がぶつかり、光が弾けた。
青と赤――命令と祈りの色が混じり、空を染める。
命令体が腕を広げた。
風が刃となって伸び、ティナの方へ向かう。
「ティナ!」
エインが躍り出て、身体を盾にした。
冷気が走り、肩装甲が砕ける。
露出した炎核が閃き、風の刃を焼き払った。
ティナが駆け寄る。
「エイン、もう戦えない!」
「……戦うんじゃない。」
短く、低い声。
その目は風の中心だけを見ていた。
命令体は静止している。
風の渦が乱れ、青光が脈を打つ。
苦しむように、形が揺らいだ。
ティナは震える手でランタンを掲げた。
炎が風を照らし、渦の中に影を描く。
「カイム、聞こえる?
もう命令なんて、いらないよ。
あなたは、あなたのままで――生きていい。」
風が一瞬、静まった。
青い光が赤に染まり、渦が止まる。
その隙に、エインが踏み込む。
右拳に炎が集まり、光が脈を打った。
「――戻れ、カイム。」
拳が風を貫く。
音が消え、光が世界を満たした。
風の形が崩れ、粒子がほどけていく。
命令体の胸の光が淡く瞬き、
――ありがとう、という声が、風の中で消えた。
エインは拳を下ろしたまま、しばらく動けなかった。
装甲がひび割れ、熱を失っていく。
ティナがそっと駆け寄る。
ランタンの炎が、二人を柔らかく照らした。
「……聞こえた?」
「……ああ。」
短い答え。それで十分だった。
シオンが観測盤を閉じ、静かに言った。
「命令波、完全に沈静化しました。
風は……いま、ただの風です。」
エインは空を仰いだ。
白い雲が裂け、朝の光が差し込む。
風が流れ、丘を撫でる。
ティナの声がかすかに響いた。
「カイム、帰れたんだね……。」
エインは目を閉じた。
「……ああ。風の中で、やっと自由になった。」
砂が流れ、丘の傷を覆っていく。
残ったのは、静かな風の音だけだった。
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