第13話 精霊の空白帯

 朝の光が、街の屋根を淡く照らしていた。

 アルメリアの東門は静かに開き、外の光が差し込む。

 だが、風は入ってこなかった。


 ティナは足を止めた。

 草が揺れず、砂も動かない。

 空気の中に、音がなかった。


 「……静かすぎる。」

 エインの声が、わずかに重く響いた。

 彼の言葉が届くと、世界が一瞬だけ揺らいだように感じた。


 シオンが門の外を見渡す。

 深藍の外套が光を受け、金糸の刺繍が淡く反射する。

 「ここから先が、祈りの空白帯です。

  精霊の姿が薄れ、声も届かなくなる場所。」


 ティナは眉を寄せた。

 「……精霊がいないの?」

 「完全にではありません。」

 シオンは穏やかに首を振った。

 「呼びかけが途絶えたまま、長い時間を過ごした地です。

  誰も祈らず、誰も返事を聞こうとしない場所。」


 ティナはランタンを握り直した。

 炎は穏やかに揺れている。

 けれど、そこに漂うはずの温もりが薄い。

 「……寒い。風が、いないだけでこんなに。」


 エインは空を仰いだ。

 灰を帯びた雲が、静止したまま浮かんでいる。

 太陽は昇っているのに、光がどこにも届かない。


 「息をしていない世界だな。」

 彼は低く呟く。

 その声に、ティナがわずかに肩をすくめた。


 しばらく歩くと、足音だけが続いた。

 鳥の鳴き声も、葉擦れの音もない。

 空白帯の境界を越えた瞬間、

 世界はまるで、誰かに見放されたようだった。


 ティナはしゃがみ込み、土をすくった。

 冷たい。湿り気がない。

 「何も、生きてない……。」

 「生きてはいる。」

 シオンが静かに答える。

 「ただ、呼ばれていない。

  名を忘れられた精霊たちが、まだこの地に留まっている。」


 ティナはその言葉を聞き、ランタンを胸の前に掲げた。

 炎が小さく瞬く。

 その光が土に反射し、かすかな色を戻していく。


 「……光が、戻った。」

 「呼んだんだ。」

 エインの声が風よりも静かに響く。

 「おまえの炎が、精霊の名を思い出させた。」


 ティナは炎を見つめた。

 その奥に、わずかな息遣いのような気配があった。

 冷たい空気の中で、それだけが確かに生きていた。


 シオンが記録帳を閉じる。

 「――ここから先は、祈りの届かぬ地です。

  けれど、灯がある限り、完全な沈黙ではない。」


 三人は歩き出した。

 灰色の風景の中で、炎の光がひとつだけ揺れている。

 祈りと呼吸を奪われた世界で、

 それだけが確かな命の証だった。



 陽は高く昇っても、影が伸びなかった。

 時間が止まったような光の中で、

 空も大地も、同じ灰色をしている。


 ティナは歩きながら、何度も耳を澄ませた。

 足音以外の音がない。

 だが、地の奥からかすかな振動が伝わってくる。


 「……地面が、鳴っている。」


 エインが立ち止まり、土を踏みしめた。

 硬く、乾ききっているはずの地が、

 生き物のように低くうねっていた。


 「自然の音じゃない。」

 彼の声が低く落ちる。

 「何かが、目を覚まそうとしている。」


 ティナはランタンを抱え、光を近づけた。

 炎の揺らぎが、地の表面をなぞる。

 その瞬間、砂の粒が細かく震えた。


 「……今、動いた?」

 シオンが眼鏡の奥で目を細める。

 「はい。地層の内部に反応があります。

  精霊ではありません。もっと――人工的な反応です。」


 遠くの丘が、わずかに傾いた。

 風もないのに、砂が巻き上がる。

 空気が歪み、輪郭のない影が形を取り始めた。


 ティナは思わず息を呑む。

 「……人の形……?」

 「似ているだけだ。」

 エインが前に出る。

 「生きてはいない。」


 砂が割れ、白い影が立ち上がった。

 輪郭は曖昧で、体を構成するものは光でも肉でもない。

 ただ、動くための形だけがそこにある。


 シオンが短く息を飲む。

 「……再構の兵。帝国の残骸です。」

 ティナが顔を青ざめさせた。

 「でも、ここには誰も――」

 「命令だけが残った。」エインの声は冷たい。

 「祈りの届かない地では、命令だけが生き残る。」


 白い影が一斉に顔を上げた。

 瞳孔もない空洞が、三人を見据える。

 音のないまま、地を踏み、ゆっくりと進み出した。


 エインが腕を構えた。

 装甲の継ぎ目が光を帯び、

 拳に淡い炎の痕が走る。


 最初の一体が突進してくる。

 エインの拳がそれを打ち抜いた。

 衝撃が走り、砂が舞い上がる。

 だが、形は崩れず、すぐに元に戻った。


 ティナが息を詰めた。

 「……壊れない。」

 「魂がない。」

 エインの瞳が紅を帯びる。

 「壊すことも、救うこともできない。」


 そのとき、ランタンの炎が大きく揺れた。

 光が広がり、白い影の群れを照らす。

 影の動きが止まる。


 静寂。


 音もなく、時間だけが凍りつく。

 炎だけが、その中で生きていた。


 ティナは灯を抱きしめる。

 「……止まった。」

 エインが息を吐く。

 「祈りの光が届いた。

  まだ、この地は死んでいない。」


 シオンがゆっくりと頷いた。

 「命令では動かせない領域。

  それが――生命の底に残る祈りです。」


 風がひとすじ、丘を越えて吹いた。

 灰色の砂を撫で、止まっていた空気を動かす。

 世界がわずかに音を取り戻す。


 エインは目を細めた。

 「……行こう。まだ終わっていない。」


 三人は歩き出した。

 炎がその背を照らし、

 止まっていた風が、ゆっくりと彼らを包み込んだ。



 風は、ほんのわずかに戻っていた。

 それでも、世界を満たすには足りない。

 音も色も薄く、遠い夢の残り香のようだった。


 ティナは立ち止まり、ランタンを見つめた。

 炎が静かに揺れている。

 けれど、さっきよりも息がある。

 まるで、誰かがそこにいるようだった。


 「……聞こえる。」

 その小さな声に、エインが振り向く。

 「何を?」

 「風の音。さっきまでは何もなかったのに……。」


 ティナは耳を澄ませた。

 風のささやきの中に、かすかな言葉が混じる。

 音にはならないが、確かに意味を持っていた。


 ――ここにいる。


 短く、確かな響きだった。


 ティナの瞳がわずかに震える。

 「……生きてる。まだ、誰かが。」

 エインはその横顔を見つめる。

 炎の光が彼女の頬を照らし、

 その表情に祈りの色が戻っていた。


 「精霊の声か。」

 シオンが静かに問う。

 「分からない。でも、優しかった。」

 ティナの声は穏やかだった。

 「怖くない風なんて、久しぶり。」


 エインは歩み寄り、炎の揺らめきを見つめた。

 火の奥で、赤と橙が交わり、

 その隙間に淡い青の光が走る。

 炎の中に、風の色が混ざっていた。


 「……共鳴している。」

 エインが低く呟く。

 「炎の精霊が、風を受け入れている。」

 「祈りが届いたのです。」

 シオンの声には、驚きよりも安堵があった。

 「命令では起こり得ない現象。

  祈りだけが、異なる精霊を結びます。」


 ティナはそっとランタンを胸に寄せた。

 「ありがとう……。

  この風が、また誰かのもとへ届きますように。」


 炎がやわらかく脈を打つ。

 風がそれに応えるように、地を撫でた。

 灰色だった砂が、わずかに色を取り戻す。

 草のような匂いが立ちのぼり、

 どこかで、見えない葉が揺れた。


 エインは息を吸い込む。

 空気に、かすかな温度が戻っていた。

 「……世界が、目を覚まし始めている。」


 ティナが笑う。

 その笑みは、空白の大地で初めて見た色だった。


 シオンが手帳を閉じる。

 「記録しておきましょう。

  “祈りは、眠れる精霊を呼び戻す”――。」


 エインは前を見据えた。

 「それでも、これはまだ始まりだ。

  帝国が再び動けば、この風も奪われる。」


 ティナはランタンを掲げる。

 炎が、風に合わせて揺れる。

 「なら、奪わせない。

  風も火も、私たちが守る。」


 エインの瞳に赤い光が宿る。

 「……ああ。祈りのある限り、世界はまだ戦える。」


 風が吹いた。

 柔らかく、確かな音を伴って。

 それは命令ではなく、

 祈りに応えた世界の息吹だった。



 帝都アイゼンブルク。

 灰色の塔が並ぶ中心区、その最深部に「制御聖堂」はあった。

 外観こそ神殿を模しているが、祈りのためではない。

 そこに流れるのは命令の波――世界を統べる冷たい律動だった。


 制御台に並ぶ魔導管が淡い光を放つ。

 水晶を組み込んだ術式盤が、規則正しく脈を打っている。

 光は壁を伝い、やがて中央の黒い鏡に集束した。


 監視員が一人、報告を上げる。

 「――観測帯、東方第三区。祈りの反応を検知。」

 「強度は。」

 「零点二三。通常、無反応域での発生はあり得ません。」


 室内に緊張が走る。

 指揮卓に立つ男が、ゆっくりと顔を上げた。

 ヴァレン・クロウズ。

 黒衣の軍監にして、帝国再構計画の監視官。


 「映像を。」

 魔導鏡が淡く波打ち、空白帯の映像が浮かぶ。

 灰の大地の中央で、小さな光が揺れていた。

 止まっていた砂が動き、風が戻る。

 世界が、わずかに呼吸を取り戻していた。


 クロウズは静かに言った。

 「……祈りの再起動か。」


 監視員が首を振る。

 「波形は不規則で、命令波とは異質です。」

 「当然だ。祈りは命令ではない。

  だが、何かが世界を動かした。原因は必ずある。」


 クロウズは術式盤に指を滑らせた。

 黒い光が走り、魔導陣が浮かび上がる。

 数値列の中央に、一つの名が刻まれていた。


 ――第十七号体。


 室内がざわめく。

 「再構兵カイムの信号……? まさか、まだ反応が?」

 「消失報告は虚偽か?」


 クロウズは目を細めた。

 「消えたのではない。命令が途絶えたのだ。」


 沈黙が広がる。

 彼の声だけが、低く響いた。

 「祈りが風を呼び戻したなら、命令もまた応じる。

  世界は均衡を求める。ゆえに、我々はその均衡を支配する。」


 光が深く沈む。

 クロウズは短く命じた。

 「観測炉を開け。第十七号の命令波を再送信。

  祈りの発生源を特定しろ。」


 研究官たちが一斉に動き出す。

 黒い管を通じて魔力が走り、塔の内部が低く唸った。

 壁面の術式が赤く灯り、制御聖堂全体が呼吸を始める。


 クロウズは掌で振動を感じ取りながら、静かに笑んだ。

 「祈りが世界を温めるなら、命令はその熱を形に変える。

  神々が沈黙したなら、我々がその声を継ぐ。」


 鏡に映る光景の中で、三つの影が立っていた。

 炎を掲げる少女、無表情の兵、

 そして深藍の外套をまとう青年。


 クロウズの瞳が、ゆっくりと細まる。

 「……また現れたか。」

 隣の研究官が問う。

 「識別は?」

 「不要だ。」

 クロウズは短く答える。

 「原因は明らかだ。命令の外にある存在――それだけで十分だ。」


 命令が放たれる。

 魔導管の脈動が速まり、黒い光が塔の外へ走る。

 帝都の空に、音のない雷が閃いた。


 祈りが風を呼び戻したその時、

 帝国は新たな命令を刻み始めていた。

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