第12話 契約の国

 昼のアルメリアは、光に満ちていた。

 白い石畳が太陽を反射し、通り全体がまるで星の腹の中にあるように眩しい。

 人々の衣には銀糸の刺繍が輝き、行き交う声が光に溶けていく。


 ティナは目を細め、両手で額をかざした。

 「まぶしい……これ、夜より星が多い気がする。」

 「光を反射しているだけだ。」

 「ロマンがないね、ほんと。」


 彼女は笑って肩をすくめ、通りの露店を覗き込んだ。

 果実、香料、金細工、そして――羊皮紙。

 どの店にも、祈りを書くための紙束が山のように積まれている。


 「……お祈りグッズ専門街?」

 エインは横目で店先を見た。

 「祈りじゃない。契約書だ。」

 「え?」

 「この国では、祈りは“取引”だ。

  願いを言葉にし、印を押して初めて神に届く。」

 「えぇ……神さまも書類仕事してるの?」

 「そういう国だ。」


 ティナは笑いながらも、どこか感心したように紙束を手に取った。

 星の紋章が金のインクで印刷されている。

 「きれい……。でも、お願いを書くのにお金がかかるんだね。」

 「祈りを“形にする”には、代償が要るという考えらしい。」

 「なるほど。……ちょっとわかるかも。」


 ティナはペンを借り、そっと一枚に書き込んだ。

 『どうか、この風が迷わずに還りますように。』

 文字の終わりをなぞり、息を吹きかけて乾かす。

 彼女の指先から、淡い熱が広がっていった。


 「……おかしいな。風が動いた。」

 エインが周囲を見渡す。

 市場の風向きが、ほんの一瞬だけ逆になっていた。

 紙片が宙を舞い、屋台の旗が反対側へ翻る。


 「祈りの反応だろうか。」

 「風が応えてるんじゃない?」

 ティナは笑って言った。

 「風は自由だから、きっと祈りも好きに動くんだよ。」


 しかし、その風はすぐに異様な静けさを纏った。

 音がなくなった。

 羽ペンの擦れる音も、足音も、遠くの鐘の音も止んでいる。

 人々が一斉に顔を上げた。


 「……なんだ?」

 エインが小さく呟く。

 街の上空を、透明な“波”が通り抜けていった。

 目に見えないが、確かに空気が震えた。


 ティナの手の中で、書いた祈りの紙がふわりと浮いた。

 そこから、かすかな声が滲み出す。


 『……命令……応答……欠損……』


 ノイズのような断片的な響き。

 意味を持たない、壊れた命令文。


 エインの炎核が低く唸る。

 「……命令波の残響だ。」

 ティナが不安げに彼を見上げる。

 「カイム、なの?」

 「違う。これは……風の中に残った“記録”だ。」


 風が再び吹く。

 今度は優しく、市場の布を揺らした。

 まるで何事もなかったかのように。


 ティナはゆっくりと手を下ろし、紙片を見つめた。

 そこにはもう、何も書かれていなかった。


 「……消えちゃった。」

 「祈りが風に還ったんだ。」

 エインが言う。

 ティナは微笑んだ。

 「なら、ちゃんと届いたってことだね。」


 風が頬を撫でた。

 遠くで鐘が鳴る。

 その音が、世界の呼吸を取り戻すように響いた。



 その夜、アルメリアの空には雲がなかった。

 街の中央塔――星読院(せいどくいん)の天蓋に、

 無数の銀盤が浮かび、星の光を受けてゆるやかに回転している。


 そのひとつの盤の上で、青年が羽ペンを走らせていた。

 星読士(ほしよみし)――シオン=カーディアン


 彼の前に広がるのは、巨大な星図。

 けれど、今記されているのは星ではなく、祈りの記録波形だった。

 人々が日中に交わした契約、その祈りの残響が光の線となって刻まれている。


 「……また乱れている。」

 シオンは眉をひそめ、ペン先で波形をなぞった。

 通常なら、契約の祈りは安定した律動を描く。

 だが、今映っている線はまるで風に吹かれる炎のように揺れている。


 「風の干渉……?」

 彼が呟いたとき、背後の助手が帳簿を手に走り込んできた。

 「報告です! 市街区第三層で祈願紙の異常発光を確認、

  原因は“風の残響”との解析が出ています!」

 「風の……残響?」


 シオンの指が止まった。

 机上の記録盤に触れると、光が走る。

 音にならない“声”が微かに響いた。


 ――命令……応答……欠損……


 「……命令? そんな祈り文は存在しない。」

 助手が戸惑いの声を上げる。

 「祈りの波じゃありません。異質な符号です。」

 「符号……?」

 シオンの金の瞳に光が宿る。

 「つまり、祈りではなく“指令”だ。」


 青年は立ち上がり、外の星空を見上げた。

 夜の風が流れ、街の灯を揺らす。

 その風の中に、どこか金属のような冷たい匂いが混ざっていた。


 「……帝国の残響、か。」


 彼の呟きは、風にかき消された。


 * * *


 同じ頃、ティナとエインは宿の屋根の上にいた。

 灯を消したランタンを膝に置き、星を見上げる。


 「さっきの風、やっぱり変だったね。」

 ティナが言う。

 「契約の国なのに、あんな“命令みたいな”声がするなんて。」

 「命令は消えたはずだ。」

 「でも、風はまだ探してるのかも。」

 ティナは両手を胸の前で組んだ。

 「祈りも命令も、どっちも“誰かを信じること”でしょ?

  だったら、命令だって帰りたいのかもしれない。」


 エインは答えなかった。

 ただ、夜風を受けて目を閉じる。

 彼の胸の奥――炎核がわずかに共鳴した。


 ティナが目を開けたとき、遠くの塔が光った。

 「……見て、星が降りてる。」


 星読院の天蓋から、光の粒が舞い落ちている。

 それはまるで、星が祈りを数えているかのようだった。


 「星読士が祈りを“読む”んだ。」

 エインが呟く。

 「契約の国では、星が帳簿なんだ。」


 ティナは微笑んだ。

 「神さまが書き物好きでよかったね。」

 「……その神は、たぶん俺たちを監査している。」

 「え、それ怖い冗談だよ!」


 彼女が笑い、エインが小さく息を吐く。

 その瞬間――風がひとすじ、街を横切った。

 静かに、だが確かに。

 シオンの観測盤の針が跳ね、記録が新たに刻まれる。


 翌朝のアルメリアは、まるで夜の星がそのまま溶けたような光で満ちていた。

 風はやわらかく、街全体が祈りの余韻に包まれている。

 市場の人々は口々に昨夜の話をしていた。


 「祈り紙が風に乗って光ったんだってさ。」

 「星読士が神の記録を読み違えたんじゃないか?」

 「いや、きっと風が帳簿を読み直したのさ。」


 どの言葉も半ば冗談、半ば信仰。

 この国では、奇跡は驚くものではなく、日常の一部だった。


 ティナは通りを歩きながら言った。

 「ねえ、昨日の風……やっぱり祈りのせいなのかな。」

 「偶然ではない。」

 エインは短く答えた。

 「命令波が共鳴していた。だが、出所は不明だ。」

 「命令……って、帝国の?」

 「ああ。」


 ティナは少し顔を曇らせたが、すぐにランタンを抱き直した。

 「なら、星を読む人なら何か知ってるかも。」

 「星読士か。」

 「うん、お願いしてみよう。風のこと、祈りのこと……ぜんぶ。」


 エインは頷き、二人は星読院へ向かった。


 * * *


 星読院は、街の中央にそびえる高塔だった。

 白い石壁には星々の軌跡を刻んだ紋章が走り、

 昼でも薄光を集めるその構造は、まるで星が地上に降りたかのようだった。


 受付の神官に事情を話すと、意外にもあっさりと通された。

 「星読士殿がちょうど観測を終えられたところです。」


 案内された観測室は静寂に包まれていた。

 壁一面に流れる光の線――それは祈りの記録だった。

 人々が交わした契約や願いの波が、星図のように刻まれている。


 「……ようこそ、旅の方々。」

 柔らかな声が響いた。


 扉の向こう、光の帳の中に一人の青年が立っていた。

 髪は深い紺黒(こんこく)。星の光を受けるたび、かすかに紫を帯びる。

 その瞳は黄金混じりの群青――まるで夜空そのものを閉じ込めたようだった。

 彼が視線を動かすと、瞳孔の奥に微細な星環がきらめく。


 青年は静かに歩み出て、胸の前で両手を重ねる。

 「ようこそ、星読院へ。」

 声は落ち着いていて、深く、澄んでいた。


 身にまとうのは星商国特有の礼装ローブ。

 深藍の外套の内側には、金糸で繊細な星図が縫い込まれている。

 肩から下がる小さな円盤――星読士の象徴〈星盤徽章(アストロ・シール)〉が、

 灯りを受けて淡く光を返した。


 「私はシオン=カーディアン。星読士を務めています。」

 

 彼は丁寧に一礼した。

 その所作には、神官のような敬虔さと学者のような冷静さが同居している。


 理知的で穏やか。だが、その瞳の奥には、

 この世界のすべてを既に見通しているような光があった。

 無表情なエインとは対照的に、

 どこか“静かな慈悲”を感じさせる顔立ちだった。


 「昨夜の祈りの乱れ、あなた方に関係があるようですね。」


 ティナが一歩進み出た。

 「はい……私が祈りを書いたら、風が動いたんです。」

 「ええ、観測しました。」

 シオンは壁に触れ、光の記録盤を開いた。


 波形が空中に浮かび上がる。

 ティナの祈り文――『どうか、この風が迷わずに還りますように』。

 その後に、異質な信号が続いていた。


 ――命令、応答、欠損。


 「これは……祈りの記録には存在しない符号です。」

 シオンは声を落とした。

 「帝国の通信形式に酷似しています。」


 エインの瞳がわずかに赤く光る。

 「……間違いない。命令波だ。」


 その瞬間、シオンのまなざしが鋭くなった。

 「あなた、詳しいようですね。」

 「少しな。」

 「帝国の符号を識別できる者は、そう多くないはずです。」


 エインは無言で視線を外した。

 沈黙が、観測室の空気を凍らせる。


 だが、シオンはそれ以上は問わなかった。

 彼は静かに羽ペンを置き、わずかに目を細めた。

 「星読士は告発者ではありません。

  祈りを読むのが、私の役目です。」


 声には、探るでも責めるでもない響きがあった。

 ただ、すべてを理解した上で、沈黙を選んだ者の声。


 ティナは張りつめていた息をそっと吐き出した。

 「……よかった。少し、怖かったから。」


 シオンは小さく首を振る。

 「恐れることはありません。

  私たちは祈りを記録するだけ。裁く権限は、星にもありません。」


 エインは短く頷いた。

 「……助かる。」


 その一言に、シオンはわずかに微笑みを返した。

 それは優しさというより、理解への頷きだった。


 シオンは光の記録を指でなぞりながら言った。

 「帝国の技術は、祈りを模倣して作られたものだと言われています。

  命令波は本来、祈り波と同じ構造をしている。

  違うのは“返事”がないこと。」

 「命令は命を動かす。祈りは心を動かす。似ているが……違う。」

 エインの声には静かな重みがあった。

 「けれど、どちらも“届く”ことを願う点では同じです。」

 シオンが穏やかに返す。

 ティナが小さく頷く。

 「……あの風、たぶん迷ってたんだね。

  祈りの返事を探して、でも言葉を知らなくて。」


 その言葉に、シオンは小さく笑った。

 「詩的ですが、的確です。星もまた、言葉を持たない祈りですから。」


 エインは黙って彼を見た。

 光を映すその横顔――

 

シオンは一瞬、エインの頬をかすめる橙の輝きに気づいた。

 皮膚の下を脈のように走る光。

 けれど、それを不思議とは思わなかった。

 この国では、“奇跡のような違和感”はむしろ加護の証として受け入れられていたからだ。


 ――人に見える。

 でも、どこか現実から少しだけずれている。

 シオンは胸の奥でそう感じながら、エインの顔を見つめ続けた。

 

 (……帝国の技術、か。)

 

 だが彼は何も言わなかった。

 観測者が祈りを疑うことは、契約違反にあたるからだ。


 「この波を追うことは可能です。」

 やがてシオンは言った。

 「ただし、加護の境界線を越えねばならない。

  ――祈りの外へ。」

 ティナが息を呑む。

 「そんな場所があるの?」

 「はい。祈りの空白帯。

  誰の願いも届かない地です。」


 沈黙。

 エインが低く言った。

 「そこに、何かがいる。」

 「命令の残響が、ですか?」

 「……たぶん。」


 ティナはランタンを見つめた。

 「なら、行かなくちゃ。」

 エインが彼女を見る。

 「まだ早い。」

 「でも、放っておけない。」


 シオンが柔らかく口を開く。

 「行くにしても、準備が要ります。

  アルメリアを出るには、“旅の契約”が必要です。」

 「旅も契約……?」

 「ええ。祈りを伴う行為は、すべて契約として記録されます。」


 ティナは苦笑した。

 「神さま、事務仕事が多そうだね。」

 「記録することこそ、神の最初の仕事です。」

 シオンは穏やかに微笑む。


 エインが短く息を吐いた。

 「……なら、契約を結ぼう。風を追うために。」


 シオンは羽ペンを取り、契約書を開く。

 「契約名――“祈りの風の追跡”。」

 ティナが署名し、エインが続く。

 最後にシオンが印を押すと、金色の光が一瞬だけ紙を包み、風が通り抜けた。


 「これで、あなた方の祈りは記録されました。」

 ティナは微笑み、紙を胸に抱いた。

 「じゃあ、これで旅の準備はできたね。」

 シオンが頷く。

 「契約は祈りの証。破られぬ限り、星はあなた方を導くでしょう。」


 外では、昼の星がひとつだけ瞬いていた。

 ――風は、まだその光を探している。




 夕暮れ。

 アルメリアの空は金色の光を帯び、塔の影が長く伸びていた。

 市場の喧噪は遠のき、石畳の街路には風の音だけが残る。


 ティナは宿の屋上に立ち、ランタンを両手で包んでいた。

 昼の間に交わした“旅の契約”の印章が、まだ胸の奥に熱を残している。


 ――契約とは、祈りの形を記すこと。

 シオンの言葉が、耳の奥に残っていた。


 「……祈りを紙にするなんて、やっぱり変な国だね。」

 ティナは小さく笑いながら、風に髪をなびかせた。

 その笑みの裏に、わずかな緊張が混じっている。


 背後から、足音。

 「眠れないのか。」

 「うん。あした出るんだって、思ったら。」


 エインが無言で隣に立つ。

 風が、彼のコートの裾を揺らした。

 その動きの中に、かすかな機械の音が混ざる。


 ティナは横目で彼を見た。

 表情はいつもと変わらないが、どこか静かに遠くを見つめている。

 「……不安?」

 「不安は感じない。ただ、風の先に何があるかは見えない。」

 「それを“不安”って言うんだよ。」

 ティナが微笑むと、エインは少しだけ眉を動かした。


 「おまえは、怖くないのか。」

 「うん、怖いよ。でも……」

 ティナはランタンを掲げ、揺れる炎を見つめた。

 「怖くても歩くのが、祈りなんだって思うから。」


 沈黙。

 風がふたりの間を通り抜け、炎が小さく揺れる。


 「……祈り、か。」

 エインは目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。

 「帝国では、祈りは雑音とされた。

  制御不能なノイズとして切り捨てられた。」

 「でも、あなたはまだ“祈ってる”みたいに見えるよ。」

 ティナの声に、彼はわずかに息を詰まらせた。

 「俺が?」

 「うん。命令じゃなく、自分で考えて動く。それ、祈りだよ。」


 エインは答えなかった。

 ただ、胸の奥で炎核がゆっくりと脈を打つ。

 ティナの言葉が、炎の波形に共鳴するように。


 その時――階段の方から足音がした。

 シオンが現れ、夜風を受けて外套を押さえた。

 「やはり、ここにいましたか。」

 「どうしたの?」

 「出立の許可が下りました。

  ただし、出発は明朝。夜の加護は弱い。」


 エインが頷く。

 「了解した。」

 「……あなた、帝国の出身ですね。」


 ティナが息を呑んだ。

 シオンはそれを見て、静かに首を振る。

 「驚かないでください。言わない約束です。」

 「どうして……気づいたの?」

 「観測者ですから。あなたの瞳の光を、星と同じ波で見ました。」


 シオンは淡く笑った。

 「アルメリアでは、加護を持たぬ者を“契約されざる星”と呼びます。

  あなたはその一人。だが、それは罪ではない。」


 エインは沈黙したまま、視線を夜空へ向けた。

 無数の星々が光を放ち、街の祈りと混ざり合って瞬いている。


 「……契約されざる星、か。」

 「ええ。星は他の星と結ばれず、独りで輝く。

  けれど、誰よりも自由です。」


 ティナが微笑む。

 「じゃあ、あなたも“自由な星”だね。」

 「……そう呼ばれるなら、悪くない。」


 シオンは軽く頷いた。

 「明日、あなた方が向かう“祈りの空白帯”は、

  星も記録しない領域です。

  ――契約のない祈りが眠る場所。」


 「契約のない祈り……?」

 ティナが問い返す。

 「はい。かつて誰かが願い、誰にも届かずに消えた祈り。

  命令と祈りの境界が崩れた“裂け目”です。」


 風が吹く。

 その音が、どこか哀しげに響いた。


 「もしも、その風が本当に“命令の残響”だとしたら……」

 シオンの声が低くなる。

 「彼らは、主の声を求めて彷徨っているのです。」


 ティナはランタンを抱きしめた。

 炎が揺れ、風の音に重なった。

 「……なら、探してあげよう。

  あの風が、帰れる場所を。」


 シオンは微笑み、エインは静かに頷いた。


 夜が深まる。

 星々が一斉に瞬き、街の祈りを天に映す。

 契約の印章が三人の胸でわずかに光った。


 ――契約が結ばれた。

 祈りが記録された。

 風はそれを覚え、再び吹き始める。

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