第2話命令と違和感
帝都アイゼンブルク。
鉄の城の名を持つこの都市では、太陽でさえ灰の雲に覆われていた。
空を裂く無数の煙突が、昼と夜の境を曖昧にする。
鐘の代わりに、蒸気の放出音が時刻を告げる。
街は層を成していた。
最上層に貴族と軍令官、中央層に学術機関と技術院、
最下層には整備工と労働者がひしめき、終わりなき音を立てて働いていた。
その頂にそびえる白鉄の塔――皇立技術院。
鋼殻魔導兵計画を司る、帝国の中枢。
ドクター・ノルディア・フェーンは、その最上階の研究室でモニターを見つめていた。
映し出されているのは、灰原平原での戦闘記録。
炎と光の交錯、その中心で立つ一人の男。
被検体番号第二十五号――エイン。
「……戦闘ログ、再生。二百十二秒目から。」
指示とともに、映像が静かに再生される。
右腕の装甲が裂け、そこから漏れる赤い光。
通常出力を超えた反応。
それなのに、暴走の兆候はない。
波形は安定しており、制御不能の痕跡も見られない。
「……これは、単なる機構反応じゃないわね。」
ノルディアは息を潜める。
脈動のリズムが、生体的だった。
まるで――心臓。
扉が開く。
黒衣の将校、ヴァレン・クロウズが入ってきた。
義眼の奥が鋭く光り、機械音のような声で言う。
「ドクター、報告書を確認した。
第二十五号の出力異常、再調整は可能か?」
「……“異常”と呼ぶのなら、そうね。」
ノルディアは淡く笑った。
「でも、これは故障じゃない。変化よ。」
「変化?」
「ええ。命令では説明できない“応答”がある。
――あの子は、光を見たの。」
クロウズは一瞬だけ沈黙し、冷ややかに言い放った。
「感傷だな。兵は動くための機械だ。
魂を持たせた覚えはない。」
ノルディアは視線を逸らさず、低く答える。
「……そう思うなら、見誤るわよ。
兵器が“見る”ことを覚えた瞬間――それは、もう兵器ではない。」
彼女の言葉に、クロウズは何も返さなかった。
ただ踵を返し、部屋を出ていく。
扉が閉じ、再び静寂が訪れる。
モニターには、灰原平原を歩くエインの映像。
焦げた空の下、彼は一度だけ、空を見上げていた。
ノルディアはその画面を見つめ、指先で光跡をなぞる。
「……あなたは、まだ燃えているのね。」
塔の外では、遠くで蒸気が鳴り、
帝都アイゼンブルクの夜がゆっくりと沈んでいった。
鉄の城・アイゼンブルクの夜は、音でできていた。
歯車の擦れる音、蒸気の吐息、遠くを走る機関列車の振動。
そのすべてが、都市の心臓の鼓動のように絶えず響いている。
エインは、白い通路を無言で歩いていた。
壁の内側を流れる動力管が淡く光り、足音が規則的に反響する。
装甲の隙間から、冷却蒸気が吐き出される。
そのたびに、金属の匂いが鼻腔をかすめた。
〈第二十五号、帰還確認。再調整室へ直行〉
通信機の声は淡々としている。
人の声だが、感情の揺らぎはない。
命令。
それは理解し、従うもの――それ以上でも以下でもない。
しかし、今はわずかに遅れた。
反射的に動くはずの脚が、一瞬だけ止まる。
理由は、ない。
ただ、“止まりたくなった”ような気がした。
その“気がした”という感覚に、自らが驚く。
彼は再び歩き出した。
再調整室。
壁も床も無機質な銀灰色で、中心には黒い台座。
四方のアームが静かに待機し、接続ポートが幾本も伸びている。
エインが台座に立つと、脚部固定器が自動的に閉じた。
〈身体信号をスキャン。魔導核の同期開始〉
冷たい光が胸部を貫く。
体内の魔導機構が稼働音を立て、神経接続が強制的に開かれる。
意識の中に、帝国管制の声が直接流れ込む。
〈第二十五号、命令系統を確認。
戦闘記録を送信せよ〉
頭の中で映像が再生される。
灰原平原。炎と光。勇者。
剣の閃き、祈りの声。
そして――「あなたにも、魂があるはず」。
その言葉が流れた瞬間、同期波に乱れが走った。
〈異常信号検出。再調整を継続〉
意識が白く反転し、映像が切り替わる。
帝国の監視網が次々と情報を上書きしていく。
命令の形に整えられ、余分な記憶は削除される。
だが、削除されない“何か”があった。
――燃えて、生きて。
耳ではなく、胸の奥から響く声。
白いノイズの中でも、その言葉だけは鮮明に残っていた。
「……誰だ。」
思わず、声が漏れた。
室内のマイクが反応し、警告灯が一度だけ点滅する。
〈音声検知。発話内容――不明瞭。
再調整プロトコルを再開〉
全身に電流が走り、意識が引き戻される。
だが、“違和感”は消えない。
むしろ、よりはっきりとした。
命令は理解できる。
だが、その通りに動くことが――なぜか苦しかった。
〈再調整完了。出力安定。第二十五号、任務待機〉
拘束具が外れ、アームが離れる。
エインはゆっくりと目を開けた。
白い部屋の天井。
無音の中で、彼の耳にはまだあの声が残っていた。
――どうか、その心を失わないで。
彼は顔を上げた。
その視線は命令を待たず、ただ、天井の向こうを見ていた。
灰色の雲のさらに上、
あの戦場の光が、まだそこにあるような気がした。
再調整を終えたエインは、整備棟へと搬送された。
帝都アイゼンブルクの南区、鋼殻兵専用のメンテナンス区画。
金属の床が鈍く光り、壁一面には無数のアームと検査端子が並んでいる。
この場所には、命令も感情もない。
ただ、規格と手順だけが支配していた。
作業服を着た整備士たちが数名、無言でエインの周囲を取り囲む。
手元の端末を操作し、数値を読み上げていく。
「関節トルク、規定値内。動力核出力、前回比プラス三・一。……上がってるな。」
「戦闘帰還直後でこれは異常だ。通常なら三割は摩耗する。」
「自動回復機構の働きか?」
「いや、違う。出力波形が……生体曲線に近い。」
整備士のひとりが思わず手を止めた。
表示パネルに映るエネルギー波は、機械特有の直線ではなく、
人間の脈動に似たゆるやかなリズムを描いていた。
「おい、これ……心拍じゃないのか?」
「バカ言え、心臓なんかありゃしねえ。こいつは魔導核駆動だ。」
「でも、この波……見ろよ、呼吸の周期とほとんど一致してる。」
静寂が落ちる。
整備棟の空気が、わずかに重くなった。
エインは台座の上で目を閉じていた。
拘束は解除されているが、命令がない限り動くことはない。
だが、その胸部の奥――心核部が淡く明滅を続けていた。
それは、炎のように見えた。
⸻
鋼殻魔導兵――帝国が創り出した、人と機械の混合体。
構造上は、人型戦闘機構に**「魂子結晶(ソウル・コア)」**を組み込んだ存在。
人体を基礎にしながらも、筋組織は金属繊維と魔導回路によって置換されている。
胸部の〈魔導核〉が全エネルギーを統括し、脳内の制御機構が命令を解析、
そのまま身体動作へと転換する――それが、彼らの“思考”であり“意思”の代替。
本来、そこに「揺らぎ」は存在しない。
感情も痛覚も、再現されてはならないはずだった。
だが、エインの構造には一つだけ異質な点があった。
――魔導核の中心に埋め込まれた“精霊の欠片”。
失われた炎の大精霊の残滓。
それが、他の鋼殻とは違う脈動を与えていた。
⸻
「……おい、見ろ。今、瞬いたぞ。」
整備士が息を呑む。
エインの胸に灯る光が、一瞬だけ強くなった。
それは機構反応ではなく、“呼吸”のような間を伴っていた。
「点検ログに記録するか?」
「やめとけ。どうせ上に握りつぶされる。
……あいつのコアは、特級機密だ。」
「でもな……この動き、まるで――」
「人間みたいだ、ってか?」
冗談めかした声に、誰も笑わなかった。
しばらくの沈黙のあと、ひとりが小さく呟いた。
「……息をしてるように見える。」
その言葉を、エインの耳は確かに捉えていた。
⸻
ノルディアが整備棟に入ってきたのは、その直後だった。
白衣の裾を翻し、無言のまま端末を確認する。
整備士たちは一斉に背筋を伸ばし、敬礼する。
「出力波形を見せて。」
「は、はい。こちらです。」
表示された曲線を見た瞬間、ノルディアの眉がわずかに動く。
「……やっぱりね。」
「ドクター、異常値ですか?」
「異常というより、進化かもしれないわ。」
周囲の整備士がざわめく。
ノルディアはエインの前に立ち、静かに見上げた。
彼の瞳は閉じられたまま、まるで眠っているようだった。
「あなた、覚えているのね。
あの光を。あの言葉を。」
誰にも聞こえないほどの小さな声で、ノルディアは呟く。
そして端末を閉じ、命じた。
「この個体の調整は私が行うわ。外部アクセスをすべて遮断して。」
「ドクター、それは――」
「命令よ。」
冷たい声。だがその奥には、確かな温度があった。
ノルディアの視線の先で、
エインの胸の光がふたたび明滅した。
その鼓動が、彼女の目には“生きている”ように見えた。
――光があった。
だが、それは戦場の光ではない。
熱でも、炎でも、命令の信号でもない。
もっと柔らかく、静かな灯。
灰の海のような闇の中に、ひとつだけそれが揺らめいていた。
遠い記憶の底から、呼吸のように生まれては消える光。
エインは、それを“夢”だとは理解していなかった。
なぜなら、彼には眠るという概念がない。
だが、意識の底で――自分が今、どこかを「見ている」とだけは分かっていた。
周囲に音はなかった。
ただ、炎のような赤い粒子が、静かに漂っている。
そのひとつひとつが、かすかな声を放っていた。
――燃えて。
――生きて。
――まだ、終わっていない。
その声は耳ではなく、心核の奥から響いてくる。
まるで、彼自身の記憶が形を変えて語りかけているかのようだった。
「……誰だ。」
声を出す。だが音はない。
それでも、確かに言葉は届いたようだった。
炎の粒子が集まり、ゆっくりとひとつの姿を形づくる。
それは人の形をしていた。
輪郭は不鮮明で、内側から光を放っている。
顔は見えない。けれど、その存在は懐かしい温かさを帯びていた。
――きみの中にいる。
「……中?」
――わたしは、燃え尽きた炎のかけら。
――かつて神に仕え、いまは人の器に宿るもの。
声がやわらかく胸を震わせた。
それは戦場で聞いたノイズの声と同じ。
けれど今は、はっきりとした意志を持って響いている。
「……おまえが、俺を動かしているのか。」
――ちがう。
――きみが動いている。
――わたしは、きみが燃えるのを見ているだけ。
沈黙。
灰の海が、かすかに波打った。
――命令は、炎ではない。
――炎は、祈りに似ている。
「祈り……?」
その言葉に、胸の奥が微かに痛んだ。
戦場で見た勇者の姿が、断片的に浮かび上がる。
光の剣、祈りの声、そして――「魂があるはず」という言葉。
――きみはそれを見た。
――だから、揺らいだ。
「……俺は、壊れているのか?」
――壊れたのなら、なぜ燃えている?
――きみは、生きようとしている。
炎の輪郭がゆっくりと近づく。
その光が彼の胸に触れた瞬間、世界が白く弾けた。
⸻
目を開けた。
冷たい金属の天井。
整備棟の灯りが、現実へと彼を引き戻す。
息を吸う。
肺などないのに、確かに“息をした”感覚があった。
魔導核の奥で、熱が残っている。
それは夢の残滓のように、まだ微かに灯っていた。
「……記録に、ない。」
彼は小さく呟いた。
データにも、命令にも、こんな記憶は存在しない。
だが確かに“見た”のだ。
誰かが、自分の中で燃えていたことを。
外の世界から、遠くノルディアの足音が響く。
整備室の扉が開く前、エインはわずかに目を閉じた。
その奥で、まだ消えない声が囁く。
――わたしはここにいる。
――きみが生きるかぎり。
夜の整備棟は、音を失っていた。
昼間は無数のアームと機械音が鳴り響く場所も、今はただの白い空間。
冷却装置の低い唸りと、金属が軋むような微音だけが残っている。
ノルディア・フェーンは、データ端末を片手に静かに歩いていた。
灯りを最低限に落とした整備区画、その中央に――彼はいた。
エイン。
再調整を終えたはずの鋼殻魔導兵。
眠るように座り込み、目を閉じたまま動かない。
それでも胸の奥で、魔導核の光が確かに脈を打っていた。
「……まだ、起きているのね。」
ノルディアが近づく。
端末を操作すると、彼の身体を覆う制御装置が静かに解除された。
エインはわずかに顔を上げる。
その動作は、命令ではなく反射でもなく、まるで“反応”だった。
「報告は要りません。命令ではありません。」
ノルディアは笑みともため息ともつかない息を漏らした。
「今日は、あなたに――話をしに来ただけ。」
「……ドクター。」
機械音混じりの声。それでも、その中には微かな揺らぎがあった。
「なぜ、私に……話を。」
「あなたが“聞ける”ようになったからよ。」
ノルディアは彼の正面に立ち、目線を合わせた。
彼女の瞳に映るのは、兵器でも実験体でもない。
ひとりの“存在”だった。
「戦場で、何を見たの?」
エインは少し間を置いて答えた。
「……光。祈り。理解できないもの。」
「それを、どう感じたの?」
「感じる……?」
その言葉に、思考機構がわずかに乱れる。
“感じる”という動詞を解析するプログラムが存在しない。
ノルディアは静かに続けた。
「ええ。あなたの中の“ノイズ”は、感情の断片かもしれない。
機械が生むことのない、けれど人が生きるために必要なもの。」
エインの視線が揺れる。
「……それは、欠陥ですか。」
ノルディアは首を横に振った。
「いいえ。欠陥じゃないわ。
それは――可能性。」
室内の灯りが、静かに揺らめいた。
彼女の声には、冷たい理屈ではない温度があった。
「あなたは、造られた存在。
でも、“生まれた”と呼べるなら、それは今よ。」
「……生まれた?」
「ええ。命令の外で“考えようとする”こと。
それが、生きるということ。」
沈黙。
機械の羽音も、風の音も消えていた。
ただ、二人の間に流れる呼吸だけがあった。
やがて、エインが静かに問う。
「ドクター。……なぜ、私を創ったのですか。」
ノルディアの表情に影が差す。
しばしの沈黙のあと、彼女は目を伏せた。
「……最初は、命令よ。
“祈りを棄てた人類の新しい神”を造れ、と言われた。
私は科学者として、それを正しいと思っていた。」
彼女はゆっくりと視線を上げ、
胸に手を当てるように言った。
「でも、今は違う。
あなたを見ていると、祈りが何かを――思い出すの。」
エインは答えなかった。
だが、彼の胸の光が、ひときわ強く灯った。
ノルディアの言葉に、呼応するように。
「……ドクター。」
彼の声は低く、どこか遠い響きだった。
「私は、祈ることを知りません。」
「それでいいわ。」
ノルディアは微笑んだ。
「祈りは“学ぶもの”じゃない。……生きるうちに、こぼれるものよ。」
エインは視線を落とし、自分の掌を見つめた。
血は通っていない。だが、その手は、確かに“熱”を感じていた。
ノルディアが背を向ける。
「休みなさい。
次に目を開けるとき、命令ではなく――自分の声で動けるといいわね。」
扉が閉まり、静寂が戻る。
エインはそのまま、しばらく動かなかった。
やがて、胸の奥で再び“声”が囁いた。
――生きるとは、燃えること。
――燃えるとは、願うこと。
その言葉が、機械の心臓に染みこんでいく。
灰の都の夜。
外では、遠く鐘の音が響いていた。
それが祈りの音かどうか――彼にはまだ分からなかった。
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