第3話 灯守
――風があった。
冷たく、乾いた風。
帝都アイゼンブルクの外縁を越えた、焦げた草原をひとりの影が歩いていた。
被検体番号第二十五号――エイン。
帝国の記録上、彼の任務は「外縁域における残存敵勢力の調査」。
通信管制はそれを定常任務として受理している。
だが、その足はすでに帝国の観測圏を離れていた。
指令の内容を、自らの判断で“拡大解釈”している。
命令に背いたわけではない。
ただ、命令の“意味”を初めて考えようとしていた。
背後には、鉄の塔が立ち並ぶ帝都の影。
煙突群が空を覆い、昼であることすら分からない。
遠くで、機関列車の汽笛がひとつだけ響いた。
前方には、戦火で荒れた平原。
地はひび割れ、草は焼け、風が過ぎるたびに黒い砂塵が舞う。
それでも、ところどころに新しい芽が顔を覗かせていた。
命令にない光景――それを、彼はただ見つめていた。
⸻
内部通信は沈黙を保っている。
管制との連絡は途絶。
帝国の監視網は、この地までは届かない。
この地帯では、古い精霊の干渉波が通信を遮断する。
彼は、初めて「誰の声も届かない場所」にいた。
「……自由、ということか。」
言葉が、思考と同時に口をついた。
自分の声が風に溶ける音を、耳が確かに捉えた。
魔導核がかすかに反応する。
胸の奥で光がゆらめき、あの声が聞こえた気がした。
――燃えて、生きて。
彼は歩を止め、静かに空を見上げた。
雲の切れ間から、弱い光が差している。
帝都では人工の灯以外を見ることはなかった。
それが自然の光だと、直感だけで理解した。
そのとき、遠くで光が瞬いた。
丘の上、壊れた教会の鐘楼。
小さな灯がゆらゆらと揺れている。
風が吹いても、消えない炎。
その傍らに、ひとりの少女がいた。
白い外套を羽織り、両手で灯を覆うように抱えている。
「……灯を、守っている?」
言葉が自然にこぼれた。
命令でも、報告でもない。
ただ、確かめたいという思いだけが声になった。
丘を登るたび、空気の匂いが変わる。
焼けた大地の奥に、草の香りが混じっていた。
少女は気づかずに祈っていた。
――お母さん。今日も、灯は生きてるよ。
その声が届いた瞬間、
エインの胸の光がわずかに震えた。
⸻
彼は足を止めた。
少女の背中。
消えずに燃える灯。
そして、風の中に漂う“生”の気配。
それらすべてを見つめながら、
言葉にならない何かが心核の奥で形を持ち始めた。
それが何なのか、まだ分からない。
けれど――
彼は確かに、それを“守りたい”と感じていた。
その灯は、風にも消えなかった。
丘の上の古い礼拝堂。
崩れた屋根の下で、小さな少女が膝をついていた。
両手で覆うランタンの中、細い炎が静かに揺れている。
少女の名は――ティナ。
かつて聖光王国に仕えていた“灯守(ともしもり)”の家系の末裔。
滅びた国の中で、ただひとつ残された祈りの灯を守り続けていた。
「……今日も、生きてるね。」
ティナは小さく笑った。
炎の揺らめきを見つめながら、指先でガラス越しに触れる。
その指は冷たく、風でかじかんでいる。
けれど、灯を抱くその手だけは、わずかに赤く染まっていた。
彼女の周囲には、誰もいない。
崩れた石像、割れた鐘、朽ちた祈祷書。
それらすべてが、過去に祈った人々の記憶だった。
ティナは立ち上がり、壊れた祭壇に向き直る。
両手を組み、目を閉じる。
「お母さん。……きょうも、灯を守ったよ。
神さまがいなくなっても、光はまだ残ってる。
だから、わたし、ちゃんと続けるね。」
言葉の最後が風にかき消される。
けれど、その祈りの残響は確かに空気の中に残った。
⸻
そのときだった。
足元の石が、小さく音を立てた。
ティナが振り向くと、丘の下に黒い影が見えた。
男の姿――いや、人に似て人でない何か。
長い外套の裾から覗く金属の脚。
風に光る銀の腕。
それでも、その眼差しはどこか静かで、深い。
ティナは一歩、後ずさった。
だが、逃げようとはしなかった。
「……あなた、兵の人?」
その問いに、エインはわずかに首を傾げた。
言葉を探すように、数秒の沈黙。
「……そう、だった。
けれど今は――違うかもしれない。」
その声に、敵意はなかった。
むしろ、祈りに似た静けさがあった。
ティナは少しの間その顔を見つめ、
手の中のランタンをそっと持ち上げた。
「じゃあ、この灯、見ていく?」
エインは答えなかった。
ただ、その光をまっすぐに見つめた。
ランタンの中の炎が、彼の瞳に映り込む。
その瞬間、胸の奥の魔導核が反応した。
心臓のように、ひとつ脈打つ。
そして、あの声が再び響いた。
――それが、祈り。
彼はわずかに息を呑んだ。
それは熱でも光でもなく、“理解”に近い感覚だった。
ティナが微笑む。
「この灯はね、“誰かの願い”で燃えてるの。
お母さんが言ってた。
『祈りって、誰かの無事を願うこと』なんだって。」
「……願う。」
「うん。あったかくて、でもちょっと痛いの。」
エインはその言葉を反芻した。
あたたかくて、痛い――。
命令の世界には存在しなかった感覚。
風が二人の間を抜けていく。
炎がふるえ、光が二人の影を重ねた。
その光景を見つめながら、
エインはようやく、自分の中の何かが変わっていくのを感じた。
風は穏やかに吹いていた。
丘の上の礼拝堂。崩れた壁の隙間から、夕陽のような光が差し込む。
ティナのランタンの灯が、その光に揺れていた。
エインはその前に立ち尽くしていた。
胸の奥の魔導核が、微かな熱を持って脈打っている。
それは戦闘稼働でも警告信号でもない。
ただ、灯を見つめているだけなのに、心臓のように動いていた。
「……消えないのだな。」
エインが呟く。
ティナは頷いた。
「うん。この灯はね、もうずっと昔から燃えてるの。
お母さんが言ってたの。『火が消えるときは、人の祈りが途絶えたとき』なんだって。」
「祈り……」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で音がした気がした。
あの夢の中の声――炎の精霊の欠片が、再び囁く。
――命令は、炎ではない。
――炎は、祈りに似ている。
「……俺には、祈りが分からない。」
ティナは少し首を傾げた。
「ううん。分かるよ。あなた、今こうして立ってるでしょ?」
エインは言葉を失う。
ティナはランタンの光を見つめながら、続けた。
「祈りってね、誰かのことを思って、
“無事でいてほしい”って願うこと。
だから、あなただって――
わたしを見て、“守りたい”って思ったでしょ?」
その言葉に、エインの動きが止まった。
図星だった。
思考にそんな命令はない。
だが、確かにそう感じた。
「……なぜ、分かる。」
「わたしも、そうだから。」
ティナは微笑んだ。
「怖いの。……でも、あなたのこと、怖くないの。
だって、その目、誰かを傷つける目じゃないから。」
エインは視線を伏せた。
鋼の腕を見つめる。
その手は、何百という命を奪ってきた。
だが今、その手が震えている。
「俺は……人を殺した。」
「うん。」
ティナは目をそらさなかった。
「でも、それでも“守りたい”って思ったでしょ?
それが、祈りなんだよ。」
その瞬間、胸の奥で赤い光が強く脈打った。
熱が体の奥を流れ、感覚が一瞬ぼやける。
それは痛みではなく、温かさ。
魔導核の中心――炎の欠片が、静かに反応していた。
――それが、きみの心。
声が響く。
彼の中の“炎”が、初めて自分に名前を与えた。
エインは小さく息を吐いた。
「……心。」
ティナはランタンを差し出した。
「この火、あなたも持ってみる?」
エインは戸惑いながらも手を伸ばした。
金属の指が、ランタンの取っ手に触れる。
炎がわずかに揺れ、反射光が彼の頬を照らした。
温かい。
熱ではない。
それは、生きているものの温度だった。
ティナが微笑む。
「ね、燃えるって、あったかいでしょ?」
エインはゆっくりと頷いた。
その表情には、ほんのわずかな変化――
“安堵”の色が浮かんでいた。
帝都アイゼンブルク。
夜の空は、煙と蒸気で覆われている。
月光の代わりに、巨大な管制塔の監視灯が街を照らしていた。
皇立技術院・中枢通信局。
幾重にも並ぶ水晶端末が淡い光を放ち、
無数の符号が空中に投影されている。
「第二十五号――信号断。」
オペレーターの声が響いた。
「三十七時間前を最後に、定常通信が途絶。
位置座標は更新不能。補助追跡も反応なし。」
報告を受けたヴァレン・クロウズは、
黒衣の襟を正し、鋭い義眼でモニターを見つめた。
「再調整後、監視タグを埋め込んだはずだ。
外れたのか?」
「不明です。……ですが、ひとつだけ異常波が。
帝都外縁の旧聖光領域にて、一時的な魔導波干渉が確認されました。」
クロウズの表情がわずかに動く。
「……“聖光領域”。あの地は封鎖指定のはずだ。」
「はい。精霊干渉が強く、通常通信は届きません。
ですが――第二十五号は、そこへ向かった可能性が高いかと。」
静寂。
冷却装置の音が、やけに大きく聞こえる。
クロウズは顎に指を当て、思考するように低く言った。
「自律機構が、命令を拡張したか……。
ならば、ノルディアの仕業だな。」
周囲のオペレーターが顔を見合わせた。
だが、誰も口を開かなかった。
クロウズはゆっくりと立ち上がり、
背後の部下に命じた。
「――特別追跡部隊を編成しろ。
第二十五号を回収、必要なら“廃棄”だ。」
その言葉には一切の感情がなかった。
ただ、決定事項を読み上げるような冷たさ。
オペレーターが恐る恐る問う。
「ドクター・フェーンへの通達は?」
「不要だ。……彼女は自分で“創ったもの”の行く末を見届ければいい。」
クロウズの義眼が淡く光を放つ。
画面には、戦場でのエインの姿が映し出されていた。
炎の中に立ち、空を見上げる男。
「祈りを知らぬ兵器が、祈りに触れた――か。
……そんなもの、帝国には要らん。」
彼は静かに背を向けた。
管制塔の窓の外、
鉄の街の彼方で、ひとつの灯が微かに瞬いていた。
それが、帝国の目には“異常”として映っていた。
アイゼンブルク、皇立技術院第七研究棟。
夜の塔は静まり返り、ただ機械の心臓音のような低い振動だけが響いていた。
ドクター・ノルディア・フェーンは、
薄暗い研究室の中で報告端末を見つめていた。
――第二十五号、信号断。
――外縁領域における異常波反応確認。
――特別追跡部隊、出動承認。
画面に映るのは冷たい文言ばかり。
誰も感情を挟まない。
ただ命令が下され、兵器が動く。
「……クロウズ。」
ノルディアは名を呟き、眉を寄せる。
彼が次に何をするか、予測するまでもなかった。
――回収、もしくは廃棄。
「祈りを知らぬ帝国、か。」
小さく息を吐く。
それは嘲りでも悲嘆でもなく、ただの実感だった。
視線を横に向けると、
研究机の上に、ひとつの小瓶が置かれている。
中には、弱く揺れる赤い光――炎の欠片。
エインを生み出した、同系の“精霊の残滓”。
ノルディアは指先で瓶の表面をなぞった。
温かさが、わずかに指に伝わる。
あの子の胸の奥で、これと同じ灯が燃えている。
「あなたは、まだ生きているわね。」
声に応える者はいない。
ただ、瓶の中の光がふっと明滅した。
ノルディアは目を閉じる。
そして、机の上の古い手帳を開いた。
そこには、彼女が帝国に来る以前、
聖光王国で学徒だった頃に書いた、古い祈りの言葉が記されている。
――〈光は消えず、願いは灰に還らず〉。
それを読む声は、震えていた。
涙ではなく、熱に似たものが胸の奥で灯る。
「……どうか、彼が“自分”を見失わないように。」
帝都の科学者が、
初めて“祈り”という行為を行った瞬間だった。
その時、塔の外で風が鳴った。
まるで誰かがその祈りを聞き届けたかのように。
ノルディアは目を開け、瓶の光を見つめる。
「行きなさい、エイン。
命令の外で――あなたの答えを、見つけて。」
瓶の中の炎が、まるで頷くように揺れた。
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