鋼殻魔導兵の黎戦記
都丸譲二
第1話 鉄と光の戦場
――神々が沈黙して、もう幾百年。
かつて天にあった声は途絶え、残されたのは、無数の“精霊”たちだけだった。
風を揺らすのも、火を灯すのも、流れる水を導くのも――すべては精霊の営み。
人はそれを“加護”と呼び、祈りとともに生きてきた。
だが、いつしか帝国は祈りを拒絶し、己の手で奇跡を造り出そうとした。
そして、その果てに――〈鋼殻魔導兵(アームド・スピリット)〉が生まれた。
灰原平原。
冷え切った風が吹きすさび、血と金属の匂いが重く漂っていた。
焦げた大地を、帝国の旗を掲げた鋼の軍勢が進む。
黒鉄の鎧に覆われた兵たちの先頭に、一人の男が立っていた。
被検体No.25。
コードネームは――Ein(エイン)。
帝国が誇る最強の鋼殻魔導兵にして、意志を持たない生体兵器。
人の姿をしていながら、その身体の一部は機械仕掛け。
腕や脚、関節の節々からは微かな蒸気が漏れ、装甲の継ぎ目を橙の光が走る。
表情は凪いだ水面のように静かで、瞳には何の感情も映っていない。
「作戦領域、視認完了」
無線のような声が響く。
エインは淡々と戦況を確認し、通信装置に報告した。
「目標――聖光王国軍。殲滅命令を確認。これより攻撃行動を開始する」
その声に、ためらいも迷いもなかった。
彼の中にあるのは、ただ“命令”という一本の線だけ。
足元の土を蹴る。
轟音とともに魔導機構が作動し、全身の鋼殻が淡い炎を纏った。
次の瞬間、彼の姿は爆風の中に消える。
灰の地を裂き、閃光のように駆け抜ける。
遠く、祈りの声が聞こえた。
それは敵陣――聖光王国の兵たちが唱える戦場の祈り。
神へ捧げる、最後の希望の言葉。
だが、エインにはそれが理解できなかった。
祈りとは何か。なぜ声を上げるのか。
命令にない言葉は、ただの雑音として消えていく。
「……対象、捕捉。殲滅を開始する。」
淡々と告げた声の直後、炎が大地を覆った。
轟く爆風の中、灰と血が舞い、空が赤く染まる。
エインの拳が唸りを上げ、鉄の騎士を、光の兵を、次々と焼き砕いていく。
その姿は、まるで“祈りを失った神”のようだった。
灰の風が吹いていた。
大地は焦げ、血と鉄の匂いが空に溶けている。
帝国の鋼殻兵部隊が進撃し、地平の端まで炎が伸びていた。
エインは無表情のまま歩を進める。
燃え尽きた陣の中央で、彼の視界に情報が流れた。
――殲滅率、八十六パーセント。
――敵性反応、残存七百二十一。
数字が冷たく点滅し、命令が更新される。
〈対象勢力、完全排除を継続〉。
それが、彼の“意志”の代わりだった。
右腕の装甲が微かに光を帯び、魔導機構が稼働する。
踏み出すたびに、足元の灰が押し潰され、蒸気が立ち上る。
炎が彼の背を照らし、進む方向だけが、かすかに明るかった。
そのとき――光が、炎を押し返した。
遠方に、白銀の輝きが立ち上る。
柔らかく、それでいて凜とした光。
炎を鎮め、灰を洗うような清浄の波。
戦場全体の流れが、一瞬止まった。
エインの視界に、ひとりの少女が映る。
白銀の鎧。金糸のような髪。
倒れ伏す兵の前に膝をつき、両の手を組んで祈っていた。
その周囲に光が満ち、傷ついた者の息をつなぎとめている。
識別装置が警告を放つ。
《聖光王国・勇者級存在》――敵性最上位。
「対象を確認。殲滅命令を再優先。」
声は冷ややかで、何の揺らぎもなかった。
だが胸の奥で、わずかに熱がうねる。
機械の誤作動か、あるいは別の何かか。
少女が顔を上げた。
祈りの余韻をまとった瞳が、まっすぐにエインを見つめる。
「……あなたが、帝国の兵なの?」
声は静かで、透き通っていた。
戦場の叫びの中でも、不思議とよく届いた。
「命令を確認。応答不要。」
自らに言い聞かせるように呟き、歩を進める。
距離が詰まる。
光と炎が交錯し、熱と冷がぶつかり合う。
エインの拳が上がり、勇者の剣がそれを受けた。
衝撃が走る。
地が裂け、灰が舞う。
光の粒が漂い、二人の間に一瞬の静寂が生まれた。
勇者は退かず、剣を握る手を下ろさなかった。
彼女の瞳の奥には、何かを確かめようとする意志があった。
「あなたにも、魂があるはず。」
その言葉が、冷却機構の奥を震わせる。
ノイズが走り、視界がわずかに霞む。
――燃えて……生きて……。
聞こえた。
誰の声でもない、内側から響く音。
勇者の声と重なり、心臓の鼓動のように脈打つ。
右腕の装甲が裂け、赤い光が滲み出した。
それは炎ではなく、命のように律動する光。
痛覚信号が走り、思考が乱れる。
「……エラー。出力制御不能。」
勇者が剣を構え直した。
息を荒げ、血に濡れながらも、まっすぐに彼を見ていた。
「神が創った命も、人が創った命も……
同じ炎を宿せるはず。」
返す言葉を、エインは持たなかった。
命令が再生される。だが、その下で、別の声が囁く。
――やめろ。
――その手は、誰のために。
世界が静まり返る。
風だけが、灰を撫でて通り過ぎていった。
光が収束していく。
勇者の剣先がわずかに下がり、彼女は静かに息を吐いた。
その周囲を囲んでいた光の結界が、ゆっくりと消えていく。
地面は抉れ、炎の名残がまだ揺らめいていた。
帝国兵も聖光王国の兵も動かない。
ただ、灰と熱気だけが空を満たしていた。
エインは拳を下ろした。
右腕の装甲は裂け、そこから漏れ出す赤い光が、心臓の鼓動のように脈動している。
鉄の腕が“痛み”を覚える感覚に、彼自身が一瞬戸惑った。
通信機構が再起動する。
だが、内部で反響しているのは命令ではなかった。
――きこえる?
――まだ……生きて……いる?
低く、やわらかい声。
誰のものでもない。
記録にも、通信波にも一致しない。
ただ、胸の奥で、かすかに響いていた。
「……ノイズ、発生源不明。」
報告の声が震えた。
音声出力の揺らぎ。冷却系の異常か、それとも――。
勇者が、一歩前へ出た。
血に濡れた頬。息は荒く、それでもその瞳は澄んでいた。
「あなたは……誰に、命じられて生きているの?」
問いの意味は理解できた。
だが、返答の“言葉”が存在しなかった。
命令で動く。それ以外の定義を持たない。
にもかかわらず、その言葉が心の奥に重く沈んでいく。
――命じられて、生きる。
その響きが、どこかを痛めた。
何かが、違う。
命令と行動の間に、わずかな空白が生まれる。
勇者は剣を下ろし、目を閉じた。
祈るように唇を動かし、周囲に再び光が広がる。
それは攻撃ではなかった。
癒しと退避の光――神への帰還の祈り。
背後で、残存していた聖光王国の兵たちが光に包まれ、後方へと退いていく。
勇者は最後までエインを見つめていた。
その眼差しは、恐れではなく、哀惜にも似たものだった。
「……祈りは届いた。」
彼女が小さくそう呟いた。
そして光が強くなり、輪郭が薄れていく。
「どうか――その心を、失わないで。」
声が風に乗り、灰の空へ消えた。
光が消えた後、戦場には誰もいなかった。
残されたのは、炎の残滓と、彼の内で鳴り続けるノイズだけ。
――燃えて、生きて。
声はなおも響いていた。
それが幻聴なのか、本当に誰かの言葉なのか、彼には判別できない。
ただ、確かに“命令以外の何か”が心に残っていた。
通信が復旧し、上官の声が無機質に響く。
〈第十一号、任務完了を確認。帰還せよ〉
応答までに、一拍の空白。
計測すれば一秒にも満たない。
だが、彼にとっては、初めて“選んだ沈黙”だった。
「……了解。」
その声は、わずかに掠れていた。
風が灰を運び、遠くの空に、微かな光の粒が残っていた。
灰原平原を、風が渡っていた。
戦火の残滓が地を焦がし、折れた槍と黒く焼けた旗が転がっている。
空には、まだ煙の筋が残っていた。
帝国の鋼殻兵たちはすでに撤収を始めていた。
勝利は確定。報告も滞りなく送信され、戦線は完全に制圧された。
それでも、エインはしばらく動かなかった。
右腕の修復を命じられていたが、応答信号を送らない。
焦げた装甲の下で、赤い光がまだ微かに明滅していた。
心臓の鼓動のように――規則正しく。
冷却蒸気が肌を撫でる。
それが風の感触に似ていることに、彼は気づく。
風など、感じるはずもない。
それでも確かに、“何かが通り抜けていった”。
視界の端に、溶け残った光が漂っている。
勇者が消えた場所だ。
その光は空気に溶け、灰の中でなお消えずにいた。
――燃えて、生きて。
その声が、再び胸の奥をかすめた。
幻聴。誤作動。
そう分類することはできる。
だが、分類してもなお、胸の奥のざわめきは消えなかった。
「……ノイズ。記録保持を申請。」
無意識に、報告文を口にしていた。
けれど上官の通信はそれを無視した。
〈第十一号、帰還ルートを送信。指令通り撤収せよ〉
通信が切れる。
残ったのは風と灰だけ。
エインは無言のまま、光が消えた方角を見つめた。
その瞳の奥には、命令では説明できない“空白”があった。
それが痛みなのか、渇きなのか、自分でも分からない。
けれど確かに、何かが生まれている。
それを否定できなかった。
風が一度だけ、灰を巻き上げた。
空の彼方に、微かな金色の残光が流れていく。
その光を、エインは見上げた。
視線を上げるという行為に、明確な命令はなかった。
――行動理由、不明。
報告用の文が、思考の片隅に浮かぶ。
だが送信されることはなかった。
静寂の中で、彼はゆっくりと歩き出した。
灰を踏みしめ、戦場を離れていく。
炎と光の記憶を、その胸の奥に残したまま。
帝国軍通信管制局。
無数の音声が交錯し、機械の光が明滅していた。
冷たい金属の壁の内側で、人の声よりも機械の信号が支配する。
〈第十一号、任務完了を確認〉
〈損耗率二十三パーセント。戦果、規定値を超過〉
〈帰還ルートを送信。次指令を保留〉
無機質な音声が淡々と流れ、誰も感情を持たない。
ただデータが処理され、戦果として数字に変換されていく。
その中で、ひとつだけ異なる報告が届いた。
〈補足:第十一号より、ノイズ報告一件。発生源不明。記録保持を申請〉
オペレーターが顔を上げる。
「ノイズ……? 戦闘中の信号干渉では?」
誰も気にも留めないまま、報告書にチェックを入れた。
だが、そのデータは、ひとりの人物の端末で止まった。
――ドクター・ノルディア・フェーン。
鋼殻魔導兵計画の主任研究者。
彼女は、モニターに映る“第十一号”の識別信号を凝視していた。
脈動の周期が通常値よりも遅い。
心拍ではない。だが、それはまるで――
「……心臓の鼓動みたいね。」
呟きが漏れる。
研究室の中は静まり返り、金属の壁にその声だけが反響した。
画面の中で、灰原平原を歩くエインの背が映っている。
焼け跡の中を、ひとり。
報告の必要もない小さな動作――彼は空を見上げていた。
ノルディアは唇を引き結び、指でデータを拡大する。
そこに微かに揺れる、赤い光。
「……どうして、それを感じたの、エイン。」
彼女の目に、わずかな感情が灯る。
それは母性にも似た、科学では説明できないものだった。
通信が再び鳴る。
〈ドクター・フェーン、指令部より通知。第十一号、帰還後の再調整を実施せよ〉
「了解。……でも、調整で済むかしらね。」
モニターの中で、エインの背は遠ざかっていく。
灰の中を、風が抜けた。
その足跡が、薄く光を帯びて残る。
まるで、そこに“人間”がいた証のように。
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