2.決断

魔人が去ってから、ガラルンド王は、玉座に座ることなく、ただ呆然と立ち尽くしていました。彼の耳には、つい先ほどまで響いていた魔人の冷たい声が、脳内にこだましています。


『娘を始末せよ。それができぬのであれば、王国もろとも滅ぼすことになるだろう』


その言葉が、王の脳裏に焼き付いて離れません。


「陛下…!」


王妃の声が、遠い場所から聞こえてきた。王妃は、幼いオフィリアを胸に抱きながら、顔いっぱいに涙を浮かべ、王を必死に見ています。


王妃は、王の前にひざまずき、声を震わせながら懇願します。「この子が、この子が何をしたというのです。この子を、まさか魔族の言葉に従って…!」


王はゆっくりと顔を上げ、王妃の言葉を遮りました。その瞳は、もはや恐怖に怯える王の姿ではなく、決断を下した父の姿を宿していました。


「我が娘を…殺すことはない……父親である私にそのようなことをできるはずがないであろう…」


王妃は、一瞬安堵の表情を見せましたが、王は言葉を続けます。


「だが、ここにはいられない。オフィリアを…この国に置いておくわけにはいかない。」


王妃の顔から安堵の表情が消え、また絶望に満ちた表情へと変わります。彼女はオフィリアを抱きしめ、声を漏らしました。


「そんな…!この子を、どこへ…この子をどこへやるのですか…」


「これが、この国と、娘を救う唯一の道なのだ。宛はある。宛はあるのだ...。」


王は、その言葉を振り絞るように言い放つと、王妃に顔を背けました。


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魔人が去った翌日、王宮は深い静寂が満ちていた。生誕祭の喧騒は遠い過去のことであったかのように、玉座の間には冷たい空気が張り詰めている。

ガラルンド王は玉座に座ることなく、ただその場に立ち尽くしていた。彼の顔は憔悴しきっているが、瞳の奥には揺るぎない決意の光が宿っている。


その王の隣に立つのは、王国騎士団長。戦場で幾多の修羅場をくぐり抜けてきた歴戦の勇士だが、その表情には、王と同じく苦渋の決断を下した様子がうかがえる。


「入れ」


騎士団長の声が静かに響くと、玉座の間の扉がゆっくりと開かれた。


そこに現れたのは、王直属の騎士大隊・副団長を務めるビアード。そして、ザファリア帝国で優秀な人材を生み出すリンドバーグ伯爵とその娘であった。

彼の大きな手に引かれていたのは、まだあどけなさが残る、小さな娘。リンドバーグ伯爵家の令嬢、コーネリアスである。


ただならぬ空気を察しているのか、コーネリアスは不安そうに父を見上げていた。


ビアードは深く頭を垂れ、静かに口を開く。「陛下、どうなさいましたか。」


王は、その信頼する部下と、彼の娘の姿を目にすると、一度目を閉じ、そしてゆっくりと開いた。張り詰めていた感情を押し殺すように、絞り出す声で語りかける。


「ビアード。リンドバーグ。よく来てくれた……」


「はっ。」跪ずいた状態で二人が声をあげる。


「そなたたちにも辛い選択をさせねばならぬ。少し聞いてくれ。我々は、一つの決断を下した。我が娘オフィリアを、この国から追放する。」そう述べると王は昨夜の出来事を語りだした。



一連の話を聞いて、ビアードの顔から血の気が引いた。リンドバーグ伯爵も、王の言葉が何を意味するのかを即座に悟った。だが、彼はひざまずいたまま、顔を上げることはできなかった。


「……陛下。申し訳ありません。話にて聞いていましたが昨夜そのようなことになっていたとは……」


「それはよい。そのことでビアードよ。そなたには申し訳ないが私ではなく、今後はこの子にこの先の人生を捧げて欲しい。騎士としてだ。」


王の言葉に、ビアードは一瞬、息をのんだ。彼が王から賜るはずだった輝かしい未来、王国を守るという忠誠心。そのすべてを、幼い王女に捧げよ、と王は告げる。


「はっ……命に代えても、王女様をお守りいたします。」

額に冷たい汗がにじみ、その一滴が頬を伝って顎から落ちる。それは単なる緊張ではなく、王の信頼という、あまりにも重い使命の重圧だとビアードは感じた。


王は、その忠誠心にわずかに表情を緩め、リンドバーグにも語り掛ける。

「リンドバーグよ。そなたには、つらい選択しを迫る。私の娘とともにそなたの娘をビアードと同行させたい。」


「...わかっています。わかっています。陛下。しかし、しかし私は...!!」


リンドバーグはその言葉を振り絞るように叫ぶと、頭を垂れたまま、震える手で地面を強く掴んだ。


彼は、王の決断が王国とオフィリアを救う唯一の方法であることを理解していた。しかし、親としての感情が、その行く手を阻む。


彼は、まだ王が語っていない、この旅の過酷さと危険を想像し、幼い娘をその運命に投げ出すことへの恐怖に震えていた。王の命に逆らうことはできない。それでも、父として、この命を拒絶したいという叫びが、彼の心を支配していた。


「お父さま...。」コーネリアスは不安そうにリンドバーグ伯爵の裾を掴む。


不安そうなコーネリアスの声に、リンドバーグ伯爵はその小さな手をそっと握り返した。


王は、その光景を静かに見つめていた。そしてそこに王は続ける。


「リンドバーグ家には代々、剣の優秀な使い手が多い。そして、そなたの娘には、久しく途絶えていた『剣の加護』が宿ったとの話も聞いた……。」


王の言葉は、そこで一瞬途切れた。彼は、不安そうに父の裾を掴むコーネリアスと、王妃に抱かれたオフィリアに目を移す。


「オフィリアと年は近い。この子には……友達がおらぬ。だからだ。ワシは、二人が兄妹のように過ごしている未来を信じておった……ザファリアでな。しかしそれは、もはや叶わぬ。」


王は、その言葉を絞り出すように告げると、再び顔を伏せ涙を零した。



王の涙を見たリンドバーグは、悲しみに打ち震えながらも、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、親としての悲しみと、王の命を果たすという、揺るぎない覚悟が宿っていた。


「陛下、このリンドバーグ、心を鬼とし、娘を王女様の旅にお供させます。」


その言葉は、王への忠誠と、愛する娘を旅立たせる父の悲痛な決意の証であった。


彼はひざまずいたまま、傍らにいるコーネリアスを強く抱きしめる。その温もりが、今生の別れとなるかもしれない、父と娘の最後のぬくもりであるかのように。

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