第11話 停止命令と移動工房

 翌朝九時、研究所の代表アドレスに届いた通達は、氷で縁取られた判決文みたいに簡潔だった。

 ——白ノ原市告示第七四一号。感応場技術機器(通称EmoHeat)を用いた公共空間での運用を、当面のあいだ一時停止とする。根拠:社会不安の抑制および公共秩序維持。所管:市政顧問室。発出:市長印、顧問室長職印。

 メールの末尾には、事務的に整ったFAQへのリンクと、午後一時からの記者発表予定が添えられている。所内チャットが一斉に震え、廊下の空気が目に見えないまま一段低く沈んだ。誰も走らない。走らないのに、時間だけが転ぶ。

「……来たな」

 所長は額を揉み、唇の片側だけで笑った。笑っていない笑い。会議室の長テーブルの向こうで、アルヴィンが短く頷き、ミアは椅子の背を強く握った。指の腹に木の目が食い込む。木は冷えの速度で人に触れる。触れられた温度は、すぐに引く。

「停止命令に従え」

 所長の声は低く、厚かった。冬の毛布をたたき直す音に似ている。

「ただし研究は止めない。手は残る。方法を探せ。路上にいられないなら、路上の手前に居場所を作れ」

 言い終わる前に、壁のモニタが勝手に切り替わった。市の記者発表のライブ予告。映るのは、市章の前でマイクスタンドの高さを調整する職員の手、青い幕の折り目、照明の寒い反射。そして、黒のダッフルにジャケットを合わせた神崎が、硬い足取りで入ってくる。画面越しでも、彼の吐息は曇らない。

「我々は、人の善意に頼らない確実な温度管理を提供する」

 彼は開口一番そう言い、白霧プラントの新制御スキームの図を指し示した。滑らかな曲線、揺らぎの小さい帯。感情の“ノイズ”から切断された、清潔な経路。数字は正しい。正しい数字は、あたたかくない。拍手とフラッシュが控えめに交錯し、チャット欄のハッシュタグは「#正しい温度」「#技術の中立」。ミアは視線を落とし、手の中の椅子の背が汗で少しぬるくなったのを感じた。

「止まらない」

 彼女はテーブルの向こうのアルヴィンに向けて、言葉を押し出した。押し出すときに、言葉の角が立つ。角は刃じゃない。杭だ。杭がある場所は、すぐ風に飛ばない。

「路上を離れても、できることはある」

 会議室のドアが重たく鳴って開いた。グレス親方だ。コートの襟に粉雪が張りつき、ごつい手をポケットに突っ込んだまま、まっすぐ歩いてくる。彼はミアの背中を、冗談みたいに軽く、しかし確かに叩いた。

「うちのトラック、貸す。屋台の冬眠用にしてたやつだ。内側は空洞、電源は独立。移動式の“工房車”を作れ。道路上で商売はできなくても、停めたトラックの中で“相談”はできる。お上は車の中まで凍らせられねえ」

 所長は眉を上げ、すぐに頷いた。

「法的には問題ない。車内は私有空間の扱いになる。安全計画と個人同意の取り回しを整えろ。やるなら、今日中に動け」

 ミアは椅子から跳ね起き、アルヴィンと目を合わせた。彼の目の奥に、いつもより薄い春色が一枚だけ重なったように見える。春は色ではない。待ち時間の長さだ。

     ◇

 工房車に選ばれたのは、組合が催事用に使っていた中型の保冷トラックだった。外装の白は、冬空に溶けて主張しない。荷室の左右に折りたたみのベンチ、中央に小さなテーブル。天井には蓄電池とインバータ、壁に換気ユニット。ミアはオフライン動作に切り替えたEmoHeatのミニユニットを四台、角とテーブルの縁に配した。ネットに繋げない代わりに、車内で完結する“許可”“待つ”“戻る”のUIを物理スイッチに落とし込む。触れたときに、迷わない硬さ。今は、それがいる。

「このスイッチが“泣く許可”。点灯している間、他のユニットは“待つ”。これが“戻る”。押したら、薄い対流が寄ってくる」

 アルヴィンは外で延長コードを束ね、風の通り道をほんの少しだけ撫で直した。撫で方はかすかで、誰も気づかない。気づかれない工事は、長持ちする。サラはスマホを両手で持ち、顔の高さで掲げて短い動画を撮った。トラックの側面にマグネットで貼った看板には、色の少ない字が並ぶ。

 ——移動工房やわらぎ(仮) 温度相談・感情の“間”の使い方の説明/予約優先 料金:無料 DMで時間枠

 動画はそのままSNSに流れ、最初の返信は十分も経たないうちに来た。中学生の兄妹。放課後なら行ける、とある。サラが時間を押さえ、場所は商店街裏の駐車スペース。停止命令の通知が貼られたばかりのポールの影に、トラックが静かに止まる。停止の表示に重ねて、動こうとする音。音の側にいると、人は凍りにくい。

 真っ先にドアを叩いたのは、背の伸び始めた兄と、髪を耳にかけた妹だった。兄は靴ひもを何度も結び直した痕跡のあるスニーカー、妹は手袋の指先に小さな穴。二人とも、目の下に冬が薄く残っている。冬は睡眠の隙間に溜まる。

「入って」

 ミアはベンチを指し、二人を向かい合わせに座らせた。アルヴィンは一度だけ会釈して、外に出た。外が必要な話がある。風を整える人は、壁にもなる。

「……兄ちゃん、泣かない」

 妹が先に口を開いた。言葉は紙で包んだ飴玉みたいに固い。固いままの甘さは、舌に刺さる。兄は肩を少しすくめ、視線を落とした。

「泣くと、家の窓が凍る。マジで。内側から、白くなって、筋みたいに広がる。母ちゃん、寒いって言う。だから、泣けない」

「泣かない兄ちゃん、怖い」

 妹は淡々と言い、親指の爪を自分の人差し指で押した。押したところが白くなり、すぐ消える。消える速度で、その家の温度が分かる。

「説明するね」

 ミアは物理スイッチの列を指さした。パネルの上には、色分けも文字もできるだけ少なくしてある。迷いに色は効かない。触り心地の違いだけが、迷いをほどく。

「どっちかが泣きたくなったら、この“許可”を押す。押した側の前にあるユニットが、薄い音で“待つ”に変わる。押さなかったほうには、この“待つ”ボタン。押すと、相手のまわりの空気が少し休憩する。泣き終わったら、二人で“戻る”を押す。そしたら、薄い風が寄ってくる。慰めじゃないよ。寄ってくるだけ」

 二人は顔を見合わせ、同時に小さく頷いた。最初に“許可”を押したのは兄だった。パネルの小さなランプがやわらかく点き、反対側のユニットが「待つ」を示す薄い光に変わる。妹は深く息を吸い、パネルの“待つ”に人差し指を置いた。押す、ではなく、置く。置く、は押すよりむずかしい。むずかしいことを、彼女は一度でやった。

 兄は声を殺した。殺した声は、殺しきれない。殺しきれない分だけ、喉の奥で熱になり、目の縁で水になる。水は音を持たない。けれど、落ちるときに空気の拍を一瞬だけ変える。ユニットがその拍を受け取り、「待つ」の位相をさらに遅らせる。戻らない時間を作る。戻らない時間の中でしか、戻れないことがある。

 やがて、妹が“戻る”に触れ、兄も遅れて同じボタンに指を重ねた。重なった指を、ユニットは認識しない。認識しないことが、いいときがある。車内の空気が、ほとんど分からない程度にゆるんだ。ゆるみは熱ではない。方向だ。出口の方向。二人は同時に息を吐き、兄は赤くなった目頭を親指で拭った。拭いた親指の跡が、すぐに消える。消える速度は、家に帰ってから遅くなるだろう。遅くなる分を、彼らは今日稼いだ。

「ありがと」

 妹が言い、声の最後に小さく笑った。笑いは殻ではない。殻を作る暇がなかった笑いは、冬に強い。ミアが頷くと、ドアの布カーテンが少し揺れた。アルヴィンが風の通り道を整え終えて戻ってきたのだ。彼は無言で小さく会釈し、妹の「お兄ちゃんが泣けたよ」の一言を受け止めるように、目だけで笑った。その目は一瞬だけ春色に揺れ、すぐにいつもの薄い青に戻った。戻る、その遅延。遅延は、彼の生存のかたちだ。

 兄妹が去ったあと、次の時間枠には若い母親と幼子、夜勤明けの看護師、独居の老人が続いた。誰も長居はしない。長居しないのに、出ていくときの背中が少しだけ軽い。軽いものは、寒さに勝つ。ユニットのログはローカルに保存され、名前は何も残らない。同意の紙だけがクリップに挟まれて増え、クリップの重みが夜に向かって静かに傾く。

     ◇

 日が暮れ、工房車を組合の裏手に戻したころ、神崎の“市民向け勉強会”のライブ配信が始まった。タイトルは控えめで、背景は清潔、スライドの余白は広い。発話は流暢で、間違いがない。彼は「感情は個室で」と言い、「公共は“正しく静かに”」と繰り返した。チャット欄には拍手のスタンプと「安心する」というコメントが並ぶ一方で、「息がしにくい」「静かすぎるのは怖い」といったひそやかな懸念も混ざる。混ざり方は汚くない。均された不安は、目立たない。

 ミアは配信を閉じ、工房車の天井を見上げた。金属の板は薄く、冬の空気に素直だった。素直なものは、守りやすい。守りやすいものを選べるだけで、人は少し長く生きる。

「ねえ、私たち、負けそう?」

 座席の背にもたれ、毛布を膝にかけたまま、ミアは正面を見ずに訊いた。訊く声は、勝ち負けを求めていない。定義を探している。

 アルヴィンは首を振り、工具箱の上に畳んだ軍手を指で押さえた。軍手は柔らかい。柔らかいものは、すぐに冷える。冷えるのに、役に立つ。

「負ける定義による」

 彼は少し間を置き、続けた。

「君が作った“間”は、もう人に伝わってる。今日の兄妹に、サラの動画の向こうの誰かに。伝わったものは、回収できない。奪えない。奪えないものがある限り、僕らは負けない」

 ミアは、空気の底で笑った。笑うと、喉の奥の凍りが薄く割れる。割れ目は小さいのに、光が通る。

「詩人」

「気流屋」

 やり取りは短く、毛布は古い。毛羽立ちが腕に触れるたび、昔の冬の匂いが一瞬だけ立ちのぼる。外では、路地の猫が雪を蹴って走り、車体の下に入り込んで丸くなる。猫の呼吸は早い。早い呼吸は熱を集める。集めた熱は、すぐに散る。散るけれど、隣の生き物に移る。

 サラが小さなポットで温め直したココアを配り、「明日の巡回は午前は病院の裏、午後は中学校のフェンス脇ね」と短く確認する。短い言葉は作業を進める。作業は恐怖の遅延だ。恐怖が遅れると、夜は長くても、越えられる。

 その時、工房車の外壁を爪で撫でるような音がした。グレス親方が顔を覗かせ、顎だけで上を示す。

「空、見るか」

 三人で外に出る。街灯は間引かれ、計画停電の短い窓が始まったところだ。空は低く、雪は細い。白霧プラントの方向に、薄い橙が沈み、煙突の影が地面に長い針を落としている。針の影は、刺さらない。刺さらない影ほど、人を追い詰める。追い詰められないための“間”を、今日いくつ作れたか。数えない。数えた瞬間に、数になってしまう。数は冷える。

 ミアは工房車のドアを閉め、内側の鍵を回した。金属が小さく鳴る。鳴った音は、生活の音だ。生活の音は、倫理より先に街を温めることがある。アルヴィンは助手席に座り、ダッシュボードの上の巡回表を指でなぞった。指の跡は残らない。残らない跡が、明日の地図になる。

 暗く、ゆっくり、静かすぎる夜。静かすぎることそれ自体が、誰かの正しさに見える夜。見える正しさは、刃の形をしている。刃は、光をよく反射する。反射に目を奪われている間に、手元を切る。切り口は、冷えて痛みを遅らせる。遅れた痛みは、朝に来る。朝に来る痛みを、受ける場所を用意しておく。それが仕事だ。

「明日も、待つ」

 ミアが毛布を肩まで引き上げながら言うと、アルヴィンは短く頷いた。頷いた拍が、車内のユニットの“待つ”に同期する。同期はやさしい暴力だ。やさしい暴力に、今日は身を任せる。任せたぶんだけ、起きたときに、誰かを抱きとめられる。抱きとめるのではない。落ちないように、床の角を丸くしておく。それだけで、転ぶ速度は少し遅くなる。遅くなった一秒の間に、呼吸はひとつ、増える。

 その一秒の価値を、彼らは知っている。だから、停止命令の夜でも、工房車の空気は薄く温かかった。温かさは所有できない。借りて、繋いで、返すだけだ。返した先で、誰かがまた借りる。借り物の温度で回り続ける都市の心臓は、今日もかろうじて動いている。動いているあいだに、やることをやる。

 ミアは端末を取り出し、短いメモを打った。

 ——車内の“許可”は物理ボタン。押すではなく触れる。泣く側/待つ側の役割を交互に練習。戻るは二人で同時に。

 打ち終わって顔を上げると、アルヴィンが目を閉じていた。眠ってはいない。風の音を数えている。数え終わると、朝になる。朝になれば、また路上の手前で、間を作る。作り続ける手は、凍らない。凍らせないように、毛布の端を彼の肩にかけ直して、ミアは目を閉じた。車体がゆっくりきしみ、外の雪が静かに増える。増えるものは、いつか溶ける。溶けるまでの遅延が、彼女たちの武器だった。明日のための武器は、今夜の眠りの底で、薄く温度を保っている。

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