第10話 二度目の白霧

 白霧プラントの第二警報は、昼と夜の境目に鳴った。雪は細く、音がない。研究所の非常ベルに連動する通知が、ミアの端末の画面を真っ白に塗りつぶし、次の瞬間、施設長の顔がポップアップに現れた。頬のあたりがかすかに震えている。

「まただ。今度は……不可解な“掌痕”が、配管の接合部に連続して出てる。人間の手の形に似た霜だ。そこだけ熱交換効率が落ちている。十年前の断水のときも、同じ跡があった……」

 十年前。白ノ原大断水。冬の最中、都市の心臓が一斉に止まり、配給所に並ぶ列が夜通し揺れ続けた日。記憶の底に沈んでいた映像の一部が、寒さに押し上げられるようにして浮かぶ。ミアは毛糸の手袋越しに指を握りしめ、アルヴィンと視線を交わした。彼は頷くだけで、白いコートの襟を少し上げた。その仕草だけで、風の向きがわずかに変わるように見えるのは、彼の“輪郭”の作り方を知ってしまったからだろう。

「ログをさかのぼれますか?」

「やってくれ。監視のカメラは、凍りついてノイズだらけだ」

 ミアは研究所の端末から施設の過去ログにアクセスし、十年前の冬の夜間データを掘り起こす。センサーの数値、警備動線、保守記録、夜勤交代の署名欄。欠落の並び方が、妙にきれいだ。抜かれた部分の縁は、削った刃物の種類を教える。意図的な削除は、粗い。粗いのに、目立たない。目立たないことを優先すると、消す手は震える。震えの周期が残る。周期から、人が見える。

「夜勤担当者──三名。うち一名の記録だけ、タイムスタンプの揺らぎが大きい。サインは本物。でも、筆圧が違う」

 アルヴィンが隣で小さく息を吸った。息は白くならない。白くならない呼吸は深い。深い呼吸は、冷えを拡散する。

「名前は?」

 画面の右上に、当時の夜勤担当の名簿がポップアップする。ひとつの名が、ミアの視線を掬い上げた。今は市の外郭団体“市政顧問室”の職員となっている人物。その名前の周囲を、関連ドキュメントのリンクがいくつも取り巻く。面談記録、兼務の履歴、顧問室の“政策提言”の下敷きになった議事メモ。さらに、匿名掲示板の過去ログの片隅に、同じ人物のハンドルがうっすら重なる。そこには、子どもを事故で失った親たちが集う非公式グループの呼びかけが、臆病な字体で残っていた。俗称“氷面会”。

 泣けば凍る。だから、泣かない練習。泣かないでいるうちに、泣く場所が街から消えていく。消えた場所の跡地に、霜の掌が並ぶ。ミアの胸がじわりと痛んだ。痛みは、温度だ。温度がある場所にしか、痛みは残らない。

「行こう」

 アルヴィンが言う。施設長から現地許可が出るまでに時間はかからなかった。所内はすでに緊急モードに移行し、警備員の目は疲れているのに光っている。現場は地下一層の北ブロック。主配管が曲がり、太い肋骨みたいに壁に沿って連なる付近だ。空調は落とされ、唇に触れる空気が硬い。硬い空気は、声を壊す。壊れた声は、壁に吸われる。

 鋼鉄の回廊に降りると、吐く息が白く尾を引いた。床のグレーチングに、作業靴の音が薄く響く。警告灯が等間隔に点滅し、赤が冷たいのはいつものことだ。ミアは工具箱からポータブルの発熱ドットを取り出し、アルヴィンは手袋を外して掌を擦り合わせた。彼の掌は冷たい。冷たいのに、風の骨組みを持っている。

 掌痕は、配管の接合部にきれいに残っていた。大人の手の大きさ。指は長く、掌の付け根に力がこもっている。押しつけたのではない。そこに、手が置かれたのだ。置かれて、動かず、凍った。凍りながら、求めるものを忘れた手。忘れられないのに、忘れたふりをした手。その手の跡が、数メートルおきに並び、配管の表面温度をわずかに下げ、熱交換効率を崩している。見た目の霜は薄いが、内側で流れの道を細くしているのが、サーモの色で分かる。

「輪郭をつくる」

 アルヴィンは掌を配管に近づけ、風の流れを握り直した。暴れている冷えは、冷やして形を与えないと散ってしまう。散らばったものは、追いかけられない。彼は局所の熱の逃げ道を“静かな帯”で囲い、掌痕の縁に沿って空気のうねりを緩やかにした。その中で、ミアは発熱ドットを慎重に置いていく。親指の根、薬指の腹、小指の付け根──圧の深かった箇所から順に、小さな熱点を布石のように配置し、点と点を遅延でつなぐ。点が線になり、線が輪郭を形成する。輪郭は、泣き声の入る器だ。器があれば、音は壁を傷つけない。

「誰かがここで泣いた」

 ミアは低く呟いた。誰に向けてもいない声。声は自分の喉から出て、すぐに耳に戻る。

「泣いていい場所がなかったから、配管が泣いた」

 アルヴィンは静かに頷き、掌を配管に当てた。金属は冷たい。冷たいものに触れると、手の内側の温度が言葉の前にやって来る。彼は目を閉じたまま、言う。

「君の言葉は、僕には難しい。けれど、分かる気がする。冷やすのは、傷を見ないためだ。形を与えれば、見える。見えるものは、扱える」

 彼の言葉の拍に合わせて、ミアは二つ三つと発熱ドットの“遅延”をわずかに伸ばした。熱がつく前の間。間の長さに、体が合わせる。合わせることで、熱は暴れずに収まる。掌痕の輪郭がうすく浮きあがり、やがて霜の侵食が止まった。止まる音はしない。でも、止まったことは分かる。分かるのに、誰も褒めない。褒められない仕事ほど、都市を支える。支えるものは、目立たない。

 ひと区画を終えたころ、回廊の角に影が伸びた。警備灯の赤が一瞬だけ分厚くなり、そこから人が剥がれる。監察官カイル。腕章はしていない。目の下に隈。乾いた唇に、いつもより色がない。彼は立ち止まり、ポケットから折り目のついた封筒を取り出した。

「命令で、ログを隠した。あの夜も、今回も。けど、もう嫌だ」

 音量は低いのに、言葉は壁に弾かれない。弾かれない言葉は、重い。重い言葉は、嘘が乗らない。

「顧問室が神崎と組んでいる。街の温度を“正しく”管理する社会を作るって言ってる。『情動の平準化に関する提言』。公共空間におけるトラウマ反応の“迷惑”化。感情の可視化と罰則。冷却技術の独占運用。俺は、正しさが怖い」

 最後の一文だけ、彼は早口になった。早口は、怖い人の速度だ。ミアは封筒を受け取り、指の腹で紙の角をなぞった。角は鋭くない。使い込まれて丸くなっている。誰かが、何度も出し入れした跡。

「怖いと言える人は、凍らない」

 ミアが言うと、カイルは小さく笑って、すぐ笑いを閉じた。笑いを閉じるのは上手い。上手いのに、閉じきれないものが残る。残ったものが、彼をこちら側に繋ぐ。

 封筒の中身は、顧問室の内部文書の写しだった。表面だけは官僚の言葉で丁寧に整えられている。だが文の継ぎ目ごとに、冷たい思想が見える。都市を“平均化”する設計図。外れ値をノイズと規定する段落。感情の許可を制度の外へ追い出す文言。安堵の波形を“遅延なき即時平準化”の対象とし、誰にも触れない熱を“浪費”と呼ぶ脚注。ミアは紙の中心に視線を置いたまま、喉の奥で小さく呟いた。

「この文書は、街の呼吸を止める。“泣く許可”の場所を、罰の場所に変える」

 アルヴィンの横顔に影が落ちた。影は鋭くない。鈍い影のほうが、長く残る。

「神崎は、都市の気候を数式で囲い、エラーを外へ出す。泣く許可を、法の外に追い出す」

 彼は言葉を選びながら、最後の一語をわずかに強くした。強くすることを、彼は慎重に行う。強すぎる言葉は刃になる。彼は刃を知っている。刃で生きてきた時間がある。だから、刃を使わない。

「戦うなら、路上で」

 ミアは封筒を胸に抱き、配管に沿って振り向いた。発熱ドットの灯りは消えている。熱はすでに流れに混ざり、跡形もない。残っているのは、少しだけ柔らかくなった金属の色と、空気の拍。拍は遅い。遅い拍は、人を守る。

「私たちの武器は“遅延”と“許可”。押し返さない。受けて、溜めて、戻す。泣きたいときは、泣ける。泣き終わったら、暖かい帯が寄ってくる」

 カイルは頷き、肩の力を抜いた。抜いた肩が落ちすぎないように、アルヴィンが視線を一度だけ彼の肩に置く。視線の重さは、選べる。選んだ重さだけ、相手の体重が軽くなる。軽くなる間に、言葉が動く。

「顧問室は、いつ動く?」

「明日の委員長レク。“平準化提言”の叩き台を市長に上げるはずだ。神崎は、その場で白霧プラントの新制御案を“緊急導入”として提示する」

「止める」

 ミアは即答し、即答した自分に少し驚いた。即答は熱い。熱い言葉は、冬に強い。強いけれど、燃え尽きやすい。燃え尽きる前に、遅延で囲う。自分の言葉を、まず自分で包む。

「ログは、こちらに。顧問室のアクセス履歴、消したはずのタイムスタンプの影も、復元しておいた。怒られるなら、俺が怒られる」

 カイルは封筒の底からもう一枚、USBメモリのような薄いカードを取り出して差し出した。彼の指は冷たい。冷たいのに、震えていない。震えない指は、恐怖の先で立っている。

「ありがとう」

 ミアは受け取り、内ポケットに入れた。ものを懐に入れる動作は、戦う前の儀式みたいだ。儀式は人を落ち着かせる。その落ち着きが嘘でも、役に立つ。

 処置を終えて地上に上がるころ、深夜はすでに朝の色をひと筋含んでいた。雪は止み、東の空に薄い橙が差し始める。プラントの敷地のフェンスの上に積もった霜が、音もなく剥がれ落ちる。剥がれ落ちた薄片は、空気の中でほどけ、細かい粉になって風に混じった。十年前の影の上に、朝が薄く乗る。乗った朝は、すぐに消える。でも、乗った事実だけが残る。事実は、言葉になる。言葉は、道具になる。

 施設長が出迎えに出てきた。顔色は悪く、だが目ははっきりしている。

「止まった……のか?」

「今は。輪郭を与えた。侵食は止まってる」

「ありがとう。君たちは、たぶん……いや、言葉は後でいい」

 彼は途中で言い直し、肩を小さくすくめた。寒さのせいだけではない。感謝は、喋るときに薄くなる。薄くなりすぎると、相手に届かない。届かない感謝は、冷える。冷えたものは、霜になる。

 研究所に戻る車の中、ミアは顧問室の文書をもう一度開いた。読みながら、思った。街の冷えは、特定の誰かの悪意だけではない。失われたものの重さが絡み合ってできた網の目だ。網目は引っかかるためにある。引っかかったものは、ほどかないといけない。ほどくには、時間がいる。時間は、遅延の別名だ。

「君の顔が、怒ってる」

 運転席のアルヴィンが、ミラー越しに言った。声は低く、いつもより近い。

「怒ってる。怒りは、熱だ。熱は、使える」

「使い方を、選ぼう」

「選ぶ。路上で。顧問室の室内じゃなく、路上で」

 アルヴィンは何も言わず、ウインカーを柔らかく倒した。交差点を曲がると、夜の街がゆっくり背中を見せる。背中の形は、昨日と同じで、少しだけ違う。違いは、誰にも言えない。言えない違いが積み重なると、季節になる。

 研究所に着くと、所長が待っていた。室内の照明は弱く、廊下の端にだけ濃い影が落ちている。ミアが顧問室の文書を机に置くと、所長は眉間に手を当てて、うなずいた。うなずきは、疲れている人の速度だった。

「やるなら、正面から。議会の手続きを無視しない。けれど、路上で人を味方につけろ」

「分かっています」

「……それから」

 所長はミアの視線から少しだけ外れた場所を見た。外れた視線の先には、白いコートのアルヴィンがいる。彼の肩は、よく見れば小さく上下している。寒さのせいではない。疲労の呼吸だ。

「二人とも、凍るな」

 言われるまでもない、と言いかけて、ミアはやめた。言い切りは、刃だ。刃は、簡単に人に触れる。触れたところから、冷える。彼女は代わりに、短く頷いた。

 夜が明けた。白霧プラントの上空に、薄い橙が広がり、金属の面が一瞬だけやわらかい色をもらう。配管の表面に貼りついていた霜が、波が引くみたいにさざなみを立てて剥がれ、音もなく落ちた。十年前の掌痕の列の上を、新しい光が斜めに横切る。光は温度を持っていない。でも、温度を呼ぶ。呼ばれて、どこかで誰かが息を吐く。吐いた息が、黒氷の端を薄く曇らせ、曇りはすぐに透明に戻る。戻る、その遅延の長さを、街が覚える。覚えた街は、少しだけ、春のほうへ傾く。

 ミアはポケットの中の薄いカードを握り、指の腹で角を確かめた。角はもう、鋭くない。誰かが何度も触れた紙の角みたいに、丸くなっている。丸い角は、刺さらない。刺さらない道具は、しぶとい。しぶとい武器を、彼女は選ぶ。

「行こう」

 アルヴィンが隣で言い、コートの襟をもう一度上げた。彼の横顔は疲れていて、凍っていない。凍らない理由は、どこにも書いていない。書いていないものは、書ける。書けるということが、街を温める。温める仕方はゆっくりで、誰にも褒められない。褒められなくても、朝は来る。来た朝の薄い匂いを肺に入れて、二人は、路上のほうへ歩き出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る