第9話 最初の“逆凍結”

 承認が下りて三日後、EmoHeatのミニユニットは駅前のベンチの陰、病院の夜間受付の柱、商店街の軒先に等間隔で据えつけられた。黒く小さな箱は、目立たないように塗装され、雪避けの小さな庇を与えられ、足元に青い点のマーキングだけを置いていた。人が近づくと、小さなファンの音よりさらに小さな、空気の撫でる気配がする。撫でかたは一定ではない。歩幅や吐息の高さに合わせて、箱は少しずつ違う息を返す。返ってくるのは、熱というより「行き場」だった。行き場があると、人は立ち止まらずに済む。立ち止まらずに済むことが、温度の最短距離になる。


 反応は上々——のはずだった。


 商店街の裏路地は、表の賑わいの裏で音が吸われる場所だ。段ボールの甘い匂い、油の冷えた膜、電線のうえの雪が細かく砕ける乾いた音。午後四時、配達員の青年が曲がり角をすり抜けようとして、ふと足を止めた。ミニユニットの真下、壁に背を預けてしゃがみこみ、肩が一度、二度と小刻みに震えた。肩の動きは凍えではない。震えの波形が喉へ上がり、そこで押しとどめられている。青年は顔を両手で覆い、人差し指の節が白くなった。


「大丈夫?」


 通りかかった子どもが、迷いのない角度で声をかけた。こぼれ落ちるようなイントネーション。問いに正解はないのに、まっすぐ差し出される正しさ。青年は指の隙間から短く答えた。


「ごめん、今は……」


 ユニットのログに異常値が立ち上がった。ミアの端末に警告が走り、画面の端から赤い波がせり出す。安堵パルスの過剰入力。遅延バッファの飽和。受け取る器に、やさしさが一度に注がれすぎている。周囲の人々の視線が、気遣いの速度でいっせいに集まる。直接は近づかない。近づかないのに、心拍の拍が同じ高さで寄ってくる。それを箱は、まじめに全部受け止め続けた。受け止め続けた重みで、ログの別の欄が揺れる。「逆相の兆候」。ほんのわずかな気温の落ち込み。重さが、地面に沈むときの温度。


 ミアは息を呑み、足もとで粉になっていく雪を見た。粉はすぐ消える。消えるくせに、足裏の神経だけを冷やす。端末のグラフの上で、青い帯がふくらみ、やがて押し戻すように灰色が盛り上がる。優しさの渋滞。押し付けの逆、過剰な「寄り添い」の押し付け。


「まずい」


 無線の向こうでアルヴィンの声が低くなる。彼はどこにいても気流の質で位置を知らせる。今は角の向こう、肉屋の排気ダクトの下。油の香りに混じる金属の匂い。ミアは短く返事をして駆けた。路面の黒氷が薄く隠れている。踏み方を間違えると、明日まで痛むやつ。バランスを保ちながら角を曲がると、箱の下で縮こまった青年と、その周囲でためらう人たちが見えた。距離はある。あるのに、気持ちの向きは一点に揃っている。揃った向きは、風に似て刃になる。


 アルヴィンは青年の隣にしゃがみ、壁に背を合わせた。彼はまず何もしない。何も、変えない。指先も、肩の角度も。変えないという動作に、彼は熟練している。変えないことで、変えようとする意志の刃を鈍くする。


「五分だけ、僕たちに時間をちょうだい」


 囁くように言う声は、暖かくなかった。暖かくないのに、冷たくもない。温度じゃなく、拍だけがある声だ。拍は、遅延の親戚。拍を渡せば、遅延が橋になる。橋の上では、すぐには落ちない。


 ミアはユニットに指先をあて、入力を二段階に分ける設定に切り替えた。分散リンク。ひとつの箱に集中した感情入力を、周囲の箱へ薄く広げる。安堵を遠回りさせる。真上からではなく、斜めから、あとから。足首からじゃなく、耳の後ろから。耳の後ろには、涙腺につながる細い道がある。そこを通る温度は、派手に上がらない。上がらないけれど、長く残る。


「ユニット三番から七番、負荷を一五%ずつ分散。四番は“避難角”に切り替え。視線の向きが集まりすぎたら、対角の角に“抜け”を作る。あそこ、角のポストの影」


 アルヴィンが短く頷く。頷きは風の働きかけの合図で、路地の上の層がわずかにずれる。層がずれると、白い息の漂い方が変わる。止まっていた流れに逃げ道ができ、正面の視線の束が少しだけほどけた。視線は温度だ。向けられ続ける温度は、刃になる。刃の向きを少しだけ逸らす。逸らした先に、避難角。張り詰めた人の肩が、逃げ込める影。


 数十秒後、青年は指のあいだから深く息を吐いた。吐いた息は、床の冷気で白くならなかった。白くならない息は、たいてい重たい。重たい息が床のほうへ流れ、足もとの黒い氷を撫でる。氷の表面が一瞬だけ曇って、すぐに透明に戻る。戻る、その遅延。遅延の長さに、体が気づく。気づくと、どこかが少し軽くなる。


「ありがとう」


 青年は二度言い、言葉の二度目に重さが乗った。重さは落ちない。落ちないで、肩の上で形を変える。目の縁が赤い。泣く前の赤さ。泣けないときの赤さ。ミアは膝を折り、目の高さを合わせた。


「今は、ここで話さなくていい」


 青年は首を横に振り、しかし少しだけ話した。過労、賃金未払い、そして借金。具体的な数字は出ない。出ないのに、重さは伝わる。数字を言うより、重さは正確だ。重さを受け取るために、箱はあった。受け取りすぎたから、渋滞した。渋滞するほど、ここには温度が集まった。


「温かさが怖いときもあるんだね」


 さっき声をかけた子どもが、足先で路面の端をつつきながら言った。言い方は平ら。平らな言葉は、刃にならない。ミアは小さく頷いた。


「あるよ。だから、逃げ込める角をつくる」


 装置の設定に、新しい項目を追加する。避難角。安堵が怖い人のために、そっと抜け道を作る機能。ユニットの発熱方向を対角に偏らせ、視線と拍の束の「向き」を散らす。誰かに向かう安堵を、誰にも向かわない「薄い空気」に変換して、角に流す。角の空気は、そこにあるだけ。そこにあるだけのものは、依存になりにくい。


 落ち着きを取り戻した青年は、商店街の人たちに礼を言い、ポケットからくしゃくしゃになった伝票を出して、次の配達先を確認した。紙の角が指の跡で濃くなっている。濃いところは、水を早く吸う。吸った水は、すぐに冷える。冷えた水は重く、投げにくい。投げにくいものは、落としにくい。落としにくいものは、持ち運べる。持ち運べる重さは、まだ生きている。


 夕刻、ラボに戻ると、匿名掲示板に新しいスレッドが立っていた。タイトルは短く、断定的。「EmoHeatが逆凍結を招いた」。スレ主は現場の写真を貼り、「箱の下で人が倒れていた」「装置がむしろ寒さを強めた」と書く。本文は焦っていない。焦っていない言葉は、信じられやすい。追随する書き込みは、最初は問いかけの形をしていた。「詳細は?」「本当に?」やがて、断言が増え、皮肉が混じり、奇妙な統計が添えられ、スレは伸びていく。丁寧に疑って丁寧に批判する人と、丁寧さを纏った悪意が、同じフォントで並ぶ。


 同時に、神崎のアカウントから冷静なスレッドが立った。「“感情技術”の危険性について」。見出しは抑制的で、言葉は端正。論旨は正確で、痛い。彼はこう書く。「感情は不確実で、局所に偏在する。それをトリガに用いる技術は、必然的にバイアスと飽和の問題を抱える。特に“善意の集中”は、制御の観点から最もリスキーだ」。彼は誰も名指ししない。名指ししないで、正確に刺す。刺された箇所は、血が出ないのに痛い。


 ミアは画面を閉じ、額を窓辺に寄せた。ガラスは冷たく、外の雪の匂いが薄くする。匂いは気配だ。気配は、予感の練習だ。練習は、恐怖の遅延。遅延は、橋。橋は、すぐには落ちない。落ちない間に、誰かが渡る。


 背後から、湯気の匂いが来た。アルヴィンがマグを二つ持ってきて、彼女の手にひとつ渡す。指先は冷たいが、カップは温かい。温かさはひとのものではない。器の形を借りてやって来る。借りている間だけ、裏切らない。


「失敗したぶん、装置は賢くなる」


 アルヴィンはマグを唇に運び、うすく笑った。


「君も」


「賢くなりたくないときもある」


「それでもなる。ならないままだと、凍るから」


 ミアは湯気の向こうで彼を見た。白いコートの襟に付いた、小さな糸のほつれ。ほつれは、今日直したはずなのに、別の場所に生まれている。直すことは、いつも最短距離ではない。遠回りのほうが、ほつれの原因に近いときがある。


「ねえ」


「うん」


「私、怖いときがある。あなたが凍ってしまうのが。今日みたいに、正しさが刃になってやって来るとき。あなた、真っ先に輪郭を作るでしょう。輪郭は、守る形でもあるけど、閉じる形でもある」


 アルヴィンは少しだけ目を伏せた。伏せた目の奥に、薄い影が差す。影の形は、昔のものに似ている。彼がまだ、自分の能力を「便利な冷却」としか呼ばなかったころの影。


「僕には君の“遅延”がある」


 彼は言った。言葉は短く、温度は低く、拍は合っている。拍が合っていると、温度の低さは怖くない。


「すぐ冷やさないで、少しだけ待つ時間。君がくれた。僕はそこで、刃を針に戻せる。針なら、縫える」


「ほつれ、縫っていこう」


「うん」


 ふたりはしばらく黙り、外の雪の音のない音を聞いた。音がないのに、降っているのが分かる。降るものは、積もる。積もるものは、重さで形を変える。形を変える場所で、人は歩幅を変える。歩幅を変えるとき、転びかける。その瞬間を、箱は受け止めるためにある。受け止めるための箱が、人を倒すことがある。倒した原因を、箱は覚える。覚えたなら、直せる。


 夜、ラボに残ったのはミアとアルヴィンと、白い光だけだった。ミアは今日のログを巻き戻し、商店街の裏路地の波形を何度もなぞった。安堵の山が盛り上がり、遅延の谷が飽和し、灰色が反跳して気温がわずかに落ちる。山に道を刻むように、ミアは「避難角」のプロトタイプをユニットのファームに書き込む。角度は四十五度、距離は三メートル、出力は平均の六割。視線の束が一点に刺さらないよう、箱は「見られない空気」を生む。見られない空気は、評価されない。評価されないものは、依存先にならない。


 アルヴィンは気流シミュレータを開き、避難角の効果を俯瞰する。路地の上空に薄いレンズがかかり、角に向けて緩い坂が作られる。坂は見えないが、足裏がわずかに気づく程度の斜度だ。わずかな斜度に人の重心が乗ると、視線の向きがほどける。ほどけた視線の束は、温度をもたなくなる。温度をもたない視線は、刃を失う。


「よし」


 ミアは小さくつぶやき、端末の送信ボタンに触れた。触れた瞬間、ポップアップがひとつ出た。「夜間の自動更新は安全に配慮して段階的に行われます」。安全。安全は、よく嘘をつく。嘘をつかない安全は、退屈だ。退屈なものは、人を守る。


 送信を終えて窓の外を見ると、向かいのビルの壁に、白霧プラントの方向から薄い光の帯が滑るのが見えた。帯は短く、すぐ消える。消えるのに、見たという事実だけが残る。残った事実は、恐怖の輪郭を描く。輪郭があると、刃の向きが読める。


 端末が震えた。サラからのメッセージが一行。「さっきの配達君、うちに来た。ココア飲んでた。避難角、助かったかも」。ミアはありがとうと返し、指の腹で画面の端を撫でた。撫でたところに、体温が移る。移った体温はすぐ消える。消えるのに、移した記憶だけが残る。


 深夜、匿名掲示板のスレッドは伸び続けていた。神崎の論は、反論を呼び、反論は冷静で、しかしどこかで現場の恐怖を踏み越える。踏み越えられた恐怖は、凍る。凍った恐怖は、翌日の朝に割れる。割れる音は、生活音に似ている。似ているから、気づかない。気づかないまま、人は歩く。歩きながら、箱の下をくぐる。くぐるとき、ユニットは“避難角”をひそかに作動させ、視線の束から一人分の影を切り離す。切り離された影は、角に吸い込まれ、角で温度を失う。温度を失った影は、ただの影に戻り、足もとの氷に薄いヒビを入れる。ヒビは、春の地図だ。


「ミア」


 アルヴィンが呼ぶ。夜の底で聞く声は、昼間より少し低い。低い声は、凍りに強い。


「うん」


「君は今日、怖がってよかった」


「よかったの?」


「怖がらない人は、直さない。直すのは、怖い人。僕は、怖がる君の“遅延”になる」


「遅延の遅延は?」


「深呼吸」


 二人は同時に笑った。笑いは小さい。小さい笑いは、雪に強い。


 床の上で、ミニユニットの試作機が静かに眠っている。眠っている箱の中で、新しい避難角の計算式が丸まっている。丸まっているものは、起きるときに優しい。優しいものは、凶器になりにくい。ならないとは言えない。言えないから、待つ。待ちながら、輪郭を描き、橋を延ばす。


 明け方、ラボの窓がうっすらと白むころ、ミアはノートに短いメモを書いた。


 ——正面の善意は、斜めに返す。寄り添いは、遠回りで届く。


 書いたあと、彼女はペン先を軽く叩いた。金属の小さな音が、静かな部屋で二度跳ねて消える。消えたあとの静けさは、よく見れば温度を持っている。温度は薄い。薄い温度が、朝の凍りをゆっくり押し返す。押し返す速度は、誰にも褒められない。褒められない速度で、街は少しずつ春の方向へ傾く。


 窓の外、白霧プラントの煙突は眠っているように見えた。眠っているものほど、突然目を覚ます。目を覚ます音は、金属の涙の音に似ている。涙の音を思い出しながら、ミアは端末のアラームを明日の朝に設定した。設定の音は小さく、ひとりだけが聞いた。聞いたものは、責任になる。責任は、温度を持たない。持たないから、道具で温める。道具は、使い方で刃にも針にもなる。針なら、縫える。縫うには、遅延が要る。遅延は、今日増えた。


 最初の“逆凍結”。名札をつけられた失敗は、すぐに伝説になり、すぐに武器になる。武器にされる前に、言葉にする。言葉にした傷は、治り方を学ぶ。学んだ治り方は、次の誰かの足もとで、黒氷に小さなヒビを入れる。ヒビは走る。走りながら、春を呼ぶ。春はまだ来ない。けれど、呼ばれている。呼ばれている間は、凍り切らない。凍り切らないうちに、もう一度だけ、遅延のつまみを右へ——。ミアはそうして、夜の端をやり過ごした。

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