第12話 内通と“光の雪”ふたたび
午後の終わり、研究所の北側の窓が、藍色と灰の間みたいな色を抱えた。明るいのに暗い。暗いのに、まだ日中のにおいが残っている時間帯。充電ラックに並ぶミニユニットのランプが交互に点り、工具台の上ではドライバの金属が静かに冷えを集めていた。ミアは作業台に肘をつき、パネルの角に小さく指を当てた。押したいのではない。ただ、触れておきたかった。
端末が震えた。画面の上に短い名が浮かぶ。カイル。
『顧問室の内部会議が今夜。君たちの“移動工房”を監視対象にする議案が出る。けど、僕は……もう隠したくない』
文は短いのに、読み終えるまでに呼吸が二度必要だった。画面の白の端で、彼の声の震えが波の形に見える。決意と恐怖の間で揺れる波は、速すぎず、遅すぎない。遅すぎない恐怖は、すぐに行動になる。
「アルヴィン」
ミアが呼ぶと、彼は窓辺の気流シミュレータから顔を上げ、椅子を半歩だけ引いた。その動きだけで、部屋の空気がほんのわずかに低いほうへ片寄る。彼の輪郭が、空気の重心を握る。
「顧問室、今夜。監視対象にされる前に、街に記憶を作りたい」
「記憶?」
「“光の雪”を、もういちど。計画停電の時間に合わせて。監視の目が固まる前に、見える思い出を、みんなの足に残す」
言ってから、喉の奥が熱くなる。熱いのは怒りだけではない。無茶の予感も熱い。アルヴィンはまばたきし、迷わなかった。
「できる。気流は僕がやる。渦を作らない。風の刃を丸めて、帯をつなげる。君は光を」
「グレス親方にも声を」
メッセージを送るより早く、ドアが重く鳴って開いた。グレス親方だ。玄関マットで雪を二度だけ払ってから、ぐい、と中へ入る。肩にぶらさげた工具箱が、冬の鈍い音をひとつ落とした。
「聞こえてんだよ、壁が薄いからな」
ぶっきらぼうに言って、箱を二つ、作業台の端に置く。「捕まるなよ」と口では言いながら、蝶番とクランプと銀紙、それから臨時の蓄電ユニットまで詰め込んだ「出張用」の工具箱がそこにあった。言葉の前に、用意が来る人。用意は、恐怖の遅延になる。
「サラは?」
「ここ」
いつのまにかドアに立っていたサラが片手を挙げ、小さな紙袋を振った。中には白い紙の雪片。子どもたちと作ったというそれには、針の先みたいな小さな穴がひとつずつ開けてある。
「合図用。合図がなきゃ、光は迷うでしょ」
穴の数は揃っていない。揃っていないところがいい。揃わないまま揃うもののほうが、街に残りやすい。
準備は、手順を声に出しながら進めた。声にすると、手が勝手に覚える。天井に吊るす小型の投光ユニットには光学拡張のレンズを二枚重ね、角度は各自動の二度だけ寝かす。歩道用のミニユニットは「許可」の点滅を全て同じ周期にしない。同じは冷える。違いは暖かい。許可のアイコンは、押される前に、そこに「いる」と知らせるために点滅する。押されなければ、それはただの明かりだ。明かりは嘘をつかない。嘘をつかないものを先に並べておく。
「停電は二十一時から二十一時十五分。東西大通り沿いが暗くなる。組合の屋台は、各自で灯りを落として、“待つ”の帯に合わせて移動。サラ、子ども達は?」
「歩道の手前で、雪片を上に投げるだけ。投げる方向を、合図にする。北へは丸、南へは三角」
「南北、逆だろ」
グレス親方がぼそりと突っ込み、サラが舌を出す。笑いは短い。短い笑いは冬に強い。
端末が再び震えた。カイルだ。今度は音声。
『今夜二十時、顧問室の内部会議。議題は三つ。平準化提言の最終文言、白霧プラントの緊急制御パラメータ、そして“移動工房”の監視指定。君たちの時間帯と重なる。僕は……』
言いかけて、沈黙。沈黙は短いのに長い。
『僕は、もう隠したくない』
その一語の温度は、どのグラフにも載らない。ミアは短く息を吸ってから、言った。
「じゃあ、同じ夜にやろう。こちらは路上で記憶をつくる。あなたは、会議室で“見せる”。紙じゃないものを」
『見せる……何を?』
「窓の外を」
回線の向こうで、誰かが紙をめくる音がした。薄い紙。滑る音。カイルはすぐに理解しない人ではない。遅れて理解する人は、裏切らない。
『やるなら今夜だな』
「やるなら今夜」
通話を切ると同時に、所内の灯りがひとつ、ふたつと落ちた。計画停電のリハーサルみたいに、館内の配電が段階的に絞られていく。ミアは肩に工具袋をかけ、アルヴィンの白いコートの袖を軽く引いた。
「行こう」
「うん」
外は、音のない雪。雪の音は消えるまでに距離がかかる。距離がかかるものは、計画に向いている。グレス親方のトラックにミニユニットと投光ユニットを積み、サラは自転車で先行する。屋台の仲間たちは、各自の持ち場で灯りを落とし、荷台の下に用意していた反射板を貼り替えた。光を投げ返すのではなく、光を撫で返す板。撫で返す光は、目を刺さない。
市役所を抜ける裏道から、東西大通りにつながる歩道に出た。街路樹の枝は薄い氷の膜をつけ、触れれば乾いた音がしそうだ。許可のアイコンが、まだ消えているミニユニットの奥で眠っている。眠っているもののほうが、起きたときに優しい。
二十一時——市内の電源が一段落ち、街が黒い水に沈んだみたいに静まった。空は低い。雪は細い。人の息が白くなり、車の音が遠くなる。遠くなるものの中で、ミアは指先で起動スイッチを撫でた。物理のスイッチは、指を覚える。覚えた指は裏切らない。
ユニット群の“許可”が、一斉に点滅を始めた。点滅は均一ではない。場所ごとに、歩道の幅や植え込みの位置や、昨日の足跡の深さに合わせて、微妙にずらしてある。ひとつ、ふたつ、いくつかの光が波のように連なり、歩道に薄い帯を描いた。帯は暖かくない。方向だけを持っている。方向は熱の前にやって来る。
紙の雪片が舞った。子ども達の手から放たれた白は、街灯のない夜にゆっくり落ち、投光ユニットの薄い光を受けて、輪郭だけを光らせる。小さな穴が星になる。穴の数は揃っていない。揃っていない星座は、読む人の数だけ意味を持つ。意味は温度になる。温度は足を止める。
誰かが泣いた。大声ではない。押し込める前の、形になる直前の泣き声。泣き声は空気の拍を少しだけ落とし、ミニユニットの“許可”がそれに合わせて拍を遅らせる。向かいの人が“待つ”を押した。押す音はない。ない音が、路上の温度を上げる。押された側のユニットが対流を薄く抱え、押した側のユニットは「見るだけ」の角度に振る。見張りではなく、見守り。見守りの空気は、刃にならない。
歩道の帯が、ふっと明るくなる瞬間があった。老夫婦が手をつなぎ、同時に“戻る”を押したのだ。押されたボタンは認識しない。誰が押したかではなく、「同時」の拍だけを受け取って、風を寄せる。寄せた風は、慰めではない。戻る場所の形だけを、そっと撫でていく。
アルヴィンは通りの端に立ち、四方からの風の刃を丸めていた。ビルの角で渦が生まれないように、空気の厚みを視る。見えない厚みを、指先のほうへ送る。送るとき、彼の肩がわずかに上下する。上下のリズムに、ミアはスイッチの点滅を合わせた。合わせられたリズムは、誰かの心拍に拾われ、拾った心拍はユニットの遅延を少しだけ伸ばす。伸ばした間の中で、泣き声は刃を捨てやすい。
遠くから無線の雑音が割り込んだ。グレス親方が手首のトランシーバを耳に寄せ、眉を上げる。周波数は低い。低い声は、隠しきれない。
『監視対象が散った。位置特定、困難』
カイルの声だった。いつもの正確な語尾のかわりに、息が一音分だけはやい。
『やるなら今だ』
ミアは短く頷いた。彼に向けてではない。自分に向けて。許可の帯をもう一度見回し、投光ユニットの角度をひと目盛り寝かせる。雪片の穴が、いっそう柔らかく光る。光は誰のものでもない。けれど、見た人の中ではその人のものになる。ものになった光は、奪えない。
◇
顧問室の会議室は、高層庁舎の中でもっとも温度が一定な場所だと、カイルは思っていた。じっさい、空調は狂いがない。壁は厚く、窓は大きく、カーペットは音を吸う。吸いすぎた音は、戻ってこない。戻らない音の上で、人は正しく話すふりが上手くなる。
「では、第三の議題。“移動工房”の監視指定について」
司会席に座る室長の声は乾いている。神崎は資料の束を整え、視線を上げる。整えられた視線は温度を持たない。
「感情は個室に、公共は正しく。明文化しよう。路上の“間”は、危うい。街区ごとの温度を乱すリスクがある。EmoHeatの動作条件は善意に依存する。善意は不確実だ。公共の設計に不確実性を混ぜてはいけない」
カイルは椅子の縁を握り、爪の白さを見た。白い爪は、自分に向けた注意の色だ。机上の資料の上の白霧プラントの図は、昼間見たばかりの現場の冷たさを何も言わない。掌痕の列の写真は、ここにない。ないものを、持ってきた。
「発言を」
立ち上がると、椅子の脚がカーペットに沈み、音は出なかった。出ない音は、背中で大きくなる。背中を押すものは、恐怖ではなかった。寒さを嫌って立ち上がる、それだけだ。
「あなた方の言う“正しさ”は、人を凍らせます」
会議室の空気が一瞬だけ躊躇する。躊躇は早すぎず、遅すぎない。神崎は笑わない。笑わない人は、強い。強い人は、折れない。折れない人に、見せなければいけないものがある。
「僕はここで働きながら、ずっと寒かった。命令でログを隠し、議事録の余白を削り、現場の音を丸めた。十年前の夜勤のログ、白霧プラントの掌痕の写真、昨日までの偽装の履歴。ここに、ある」
机に薄いフォルダを置いた。紙の角が擦れて、小さな音がした。音は冷たさを割る。割れ目から、外の空気が入る。入って来るものは、窓の外の光景だ。会議室の窓に、光る雪が流れている。穴の開いた小さな紙が、投げられた方向へ合図を送り、歩道の上で誰かが泣き、誰かが“待つ”を押す。老夫婦が同時に“戻る”。戻る指の重なりは、こちらのガラスから見ても分かった。分かるのに、音は聞こえない。聞こえないものに、温度がある。
室内がざわめく。ざわめきは小さく、熱を持ち、すぐ静まった。神崎は資料の角を揃え、指先の運動だけで呼吸を整えた。
「情緒的な演出に、政策は委ねられない」
言葉は正しい。正しい言葉は、寒い。寒い言葉を、窓の外の小さな動作がやわらげた。やわらいだからといって、決定が変わるわけではない。けれど、空気の拍は変わる。拍が変われば、遅延の長さが変わる。遅延が変われば、刃はすこし鈍くなる。
「監視指定の是非は持ち帰りとする」
室長がそう言った。持ち帰られたものは、家の温度に触れる。触れた温度が、明日の決定に混ざる。混ざるほどの余白を、誰かが開けた。開いた人は、今、手のひらに汗をかいている。
会議が散じるころ、カイルは窓際に立ち、光の雪が途切れるのを見た。途切れる場所に、濃い影が集まり、またほどける。ほどけた影が、歩道の角で丸くなり、すぐに流れに戻る。戻る人の背中は、さっきより少しだけ軽い。軽い背中は、会議室の中からは見えない。見えないものに、彼は賭けた。
◇
工房車が路地に戻るころ、監視の無線は静かになっていた。静かすぎるほどの静けさは、終わりの合図ではない。次の始まりの準備だ。ミアは助手席で首を傾け、毛布を肩にかけた。眠りは浅く、目の裏にはまだ光る雪の残像が流れている。アルヴィンがハンドルを握り、指先だけで方向を整える。彼の運転は、風に似ている。曲がる前に、曲がる余白を作る。余白がある道は、事故が少ない。
「……起きてる?」
「起きてる」
ミアは目を開けずに答え、窓の冷たいガラスに額を軽く当てた。冷たさが額の皮膚を通って、感情を前に出さない。出さないで、呼吸だけを通す。
「僕は、正しさのために自分を冷やし続けてきた」
アルヴィンの声は、夜より少し低い。低い声は、凍りに強い。
「子どものころから。冷やせば、刃は鈍る。鈍れば、周りは安心する。安心すれば、僕はここにいていい。そう信じてた。捨てるばかりだった。輪郭で囲い、中心を空にして、そこへ正しさを入れた。……けど」
彼は交差点でウィンカーを柔らかく倒し、少しだけ笑った。
「君の“遅延”に出会って、待つことを覚えた。すぐ冷やさない。少しだけ待つ。待っている間に、刃じゃない使い道が見える。針にならない日は、まだあるけど」
「じゃあ、これからも遅延しよう」
ミアは目を開けて笑った。笑いは短く、眠気を薄く剥がす。
「遅延は武器だよ。正しさを針に縫い直す時間。その間に、誰かの“戻る”を待てる」
「うん」
車の前方、白霧プラントの煙突が暗い空に針の影を落とす。針は刺さらない。刺さらない影ほど、人を追い詰める。追い詰められないように、街の端で光の雪がまだ細く降っていた。投光ユニットを切っても、しばらくは目が覚えている光。目が覚えている光は、見た人の中に居場所を作る。作られた居場所は、奪えない。
「カイルは?」
「会議で——見せた。窓の外。掌痕の写真と、偽装ログ。監視指定は持ち帰り。……彼、今夜は凍らないと思う」
「よかった」
車が角を曲がるたび、路地の猫が走り、雪の粉がタイヤに複雑な線を描く。線はすぐに消える。消えるのに、通ったという事実だけが残る。残った事実は、次の夜の地図に薄く印をつける。
工房車の屋根に、最初の硬い雪が当たった。音はほとんどない。ない音を、アルヴィンが先に拾う。
「海のほうで、黒い雲が盛り上がってる。気象レーダーが、過去最大級って言ってる」
「来るんだ」
「来る。街は次の夜に備える」
備えると言っても、できることは多くない。窓の内側に古い毛布を貼る。水を少し多めに汲む。靴下を重ねる。工房車の巡回表に、ひとつだけ、新しい場所を加える。白霧プラントのフェンスの外。泣く許可を持たない人にも、待てる角を。
「今夜の光、残るかな」
ミアがぼそりと問うと、アルヴィンは少しだけ肩をすくめた。
「残る。誰かの中に。回収できない」
「詩人」
「気流屋」
やり取りは、毎度の短さだった。短いままに、頼りになる。頼りなくない短さは、冬の味方だ。
研究所に戻ると、廊下の灯りが半分だけ点いていた。停電の余韻が、建物の壁に薄い影を残す。サラがトラックの荷台から工具箱を降ろし、グレス親方は「きょうは冷たい麺だ」と言いながら鍋を探した。「冷たいままでも、味はある」親方の言い分は、意外と正しい。冷たい味を知っていれば、温かい味に飛びつかずに済む。
ラボの机に座ると、端末の隅に新しい通知が光っていた。匿名掲示板のスレッドの末尾に、短い書き込み。「通りで泣けた。誰にも怒られなかった。帰り道の雪が、光ってた」。書いた人の名前はない。ないほうがいい。ないものは、誰かのものになりやすい。
窓の外で、雪はまだ光っていた。投光の光ではない。目の裏に残った光が、夜の気配に反射して見せる幻の光。幻は嘘ではない。嘘をつく暇もなく、ただそこにある。あることが、あすの備えになる。
アルヴィンが椅子を少し引き、背中を伸ばした。骨の鳴る音が小さく響く。骨の音は、生活の音だ。生活の音は、政策よりも先に街を温めることがある。ミアは手帳を開き、太いペンで短く書いた。
——“光の雪”は合図で織る。許可は先にある。待つは遅く。戻るは同時。
ペン先が紙を離れる音が、夜の底でひと跳ねして消える。消えたところから、次の風が入ってくる。入ってくる風は、黒い雲の前の静けさを連れている。静けさは怖い。怖いから、準備する。準備は恐怖の遅延。遅延は、彼らの武器だ。武器は刃にも針にもなる。針なら、縫える。縫いながら、夜を越える。
遠くの海の方角で、雷がひとつだけ鳴った。遅れて、白霧プラントの煙突が短く震える。震える影は、まだ刺さらない。刺さらないうちに、明日の巡回表をもう一度確認して、ミアは端末を伏せた。伏せた画面に、自分の顔と、アルヴィンの横顔が薄く重なった。重なった輪郭に、今夜の光が細く残っている。細い光は折れやすい。折れやすいものを、誰かの手に渡す。その手は、冷たいかもしれない。冷たい手でも、持てば温度が移る。移った温度は、すぐ消える。消えるのに、移した事実だけが残る。
街は次の夜に備える。けれど、今夜の光は確かに、誰かの中に残った。残るものがある限り、凍り切ることはない。凍り切らないうちに、彼らは再び工具箱を閉じ、毛布を肩にかけ、窓の外の黒い雲を見上げた。雲は厚く、低い。低い雲の下で、路上の“間”は細く続いている。細いから、切れない。切れないから、明日も待てる。待てるだけの遅延を胸に、二人は黙って頷き合った。
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