第4話 白霧プラントの警報
白霧プラントは、白ノ原の心臓だった。地下水を汲み上げ、熱交換しながら市内の配管へ送り出す。湯気と冷気の結節点。十年前の大断水のあと、施設は増築され、柵は高く、監視カメラは多くなった。防犯灯は夜の霜を反射し、門扉は音を立てずに閉まる訓練を受けたみたいに重い。なのに今夜は、入り口の空気そのものが落ち着かない。鉄と塩素の匂いに、薄く紙を焦がしたような苦いにおいが混ざっている。
研究所の緊急連絡網は容赦がない。ミアのスマホは着信音の前に震えて、画面の白字が強制的に現実へ引き戻した。白霧プラント、複数センサー同時異常。現地集合。感応場気象部門、現場観測許可済。ミアとアルヴィンは、防寒具の上から簡易ヘルメットを被り、靴底のグリップを確かめてから雪の薄い路面を踏みしめた。靴の中で指が縮む。縮む指に、心拍の音が触れる。早い。けれど、恐怖に飲まれた速さではない。焦点の合った速さだ。
門内に入った瞬間、耳が詰まった。空気圧がわずかに違う。敷地の中だけ、風が一段低い音で鳴る。受付棟で腕章と入館カードを受け取り、ヘルメットの顎紐を締め直す。受付の時計は二十一時三十八分。施設長は腕時計をちらりと見てから、ミアたちに視線を戻した。額の皺は深く、目だけが若い。
「来てくれて助かる。主配管の一部で“非物理的な”霜の進行を確認した」
「非物理?」
「温度勾配だけでは説明できない。サーモカメラが“影”を映す。そこへ人が近づくと、霜が濃くなる。離れると薄くなる。温度は大きく変わらないのに、だ」
施設長はタブレットを操作し、地下フロアのライブ映像を見せた。鋼鉄の回廊に沿って並ぶ管群の外皮に、薄い白い縁が生まれ、伸び、消える。その縁取りは、まるで誰かが息でガラスを曇らせて、指先で線を引いたみたいに生々しい。画面の端には警備員の心拍と呼吸のグラフ。人の出入りに合わせて霜の縁が増えたり減ったりする。アルヴィンが小さく息を吐いた。
「やはり、感情に反応している。情動の揺れが霜の核になって、流路を変えている」
「相関の話じゃなくて?」
「因果は、こっち側に触れに来ている」
地下一層へ降りるエレベーターは、いつもより沈むように遅い。扉が開くと、吐く息が白く尾を引き、蛍光灯の明かりがほんの少しだけ青い。配管は太鼓腹の蛇の群れみたいに連なり、バルブのハンドルはどれも花のような形をしている。花は凍るのがうまい。凍るときの音が静かで、美しい。美しい音は、耳に残る。耳に残ると、怖さが形になる。
ミアは工具箱を開き、工業用に組み替えたEmoHeatのモジュールを床に並べた。白いフィンの代わりに黒いフィン。温度だけではなく、流れそのものを撹拌するためのファンユニット。センサーは高感度に、遅延は長めに。焦るほど短くなりがちな遅延を、むりやり伸ばして、揺れの波にバッファをかける。流れるものにクッションを挟む。人の会話に相槌を入れるのと、少し似ている。似ているけれど、ここで相槌を間違えると、配管が割れる。
「緩衝層を作る。感情の波形が直接、霜の核を育てないように」
アルヴィンは逆に、手のひらを目に見えない壁面に当てるみたいな仕草で、局所的に“冷やす”。矛盾みたいだが、暴走した冷えは、冷やして輪郭を与えないと散らばる。散らばったものは、どこにでも刺さる針になる。集めて、囲う。囲いの中に入れれば、触れる。
「輪郭を与えれば、扱える」
彼はそう言って、回廊の気流を無音で組み直した。誰も触っていないのに、風の向きが少しだけ変わる。霜の縁がぐっと退き、露出した配管の外皮に、細い割れ目。割れ目の周囲に、手のひらのような白い痕跡。大人の掌より少し小さい。指の長さがまばらで、親指が強く押しつけられている。
「触れられた形跡だ」
ミアは膝をつき、痕跡の縁を指の腹でなぞりたい衝動にかられて手を引いた。触れた熱は、奪われる。奪われた熱は、どこへ行くのだろう。行き先がある。いつも。行き先のない熱は、ここには溜まらない。ここは、送る場所だ。送られる場所に溜められたものは、必ずどこかに流される。流された先で、誰かが凍る。
監視カメラのログは無表情だった。夜の中を一人、作業着の人物が歩く。顔はマスクに覆われ、目には透明な保護具。IDは読み取れるのに、読み取り装置のログに痕跡がない。上書きされている。上書きのやり方はおそらく内部のものだ。施設長が眉間を揉む。
「深夜に単独入場は、現場判断で許可することがある。だが今日は、その予定はない。彼は非番だ」
ミアは拡大した映像の歩幅を見つめた。足が床につく瞬間の沈み、次の足が出る前の溜め。溜めの長さに見覚えがある。ドアの前で立ち止まるやり方も、似ている気がした。アルヴィンが腕を組む。
「断定はしない。ただ、誰かが“冷やす権限”を持っている。許可の権限じゃない。文字どおり、冷やす権限だ。冷気に指示が通るタイプの人間」
「そんなもの、あるの?」
「ある。ここ数日の街の霜の動きは、風だけでは説明がつかない」
施設長はタブレットを閉じ、事務室の白板に貼られた古い紙を指で押さえた。十年前の「白ノ原大断水」時の報告書の写し。折れ線グラフの横に、急いで書かれた手書きの覚え書き。配管破断前に、市内で一時的な「無反応相」が観測された──笑い声が消え、拍手が消え、ため息も薄くなった。誰かの喪失に、街が一斉に黙った。その黙りの体積が増え、霜の層が重みで落ちた。
読んだだけで、喉が乾く。ミアは拳を握った。十年前の誰かの「あの日」が、今夜に塗り直されようとしている。繰り返しは止める。止めるには、輪郭を見続けるしかない。輪郭は、怖い。見続けると、目の奥が凍える。けれど、見ないと、霜は勝手に育つ。
応急処置は、遅延を伸ばし、冷却の輪郭で囲うことだった。EmoHeatの工業モジュール三基を回廊中央に配し、空間を「待たせる」。人の心拍が速くなっても、すぐには霜を増やさない。アルヴィンはその周囲で、局所冷却を線にして描く。線は、見えないが、通れる。線をまたぐと、息の温度が変わる。施設の技師が目を見開き、汗を拭いた。
「今、誰かが隣で窓を閉めたみたいだった」
「近い」
アルヴィンの答えは短い。近い、というのは、現象がこちら側に身を乗り出しているということだ。こちらが見つめる前に、向こうから覗き込んでいる。覗き込まれて、ぞくりとする。ぞくりは嫌いじゃない。嫌いじゃないが、長く浴びるものではない。
割れ目に仮の補修材を当て、圧力を抜く。バルブのハンドルを回す手が、冷たい。冷たさは、手に持っているレンチの柄へ移り、柄から肘へ、肘から肩へ、肩から胸へ来る。胸の奥に冷気が入ると、時間の流れが遅くなる。遅くなる時間に、音が置いていかれる。置いていかれた音は、少しずつ低くなる。低くなった音の中で、人の声は割れやすい。割れる声は、霜の核になる。ミアは歯をかみしめ、呼吸の拍を一定に戻した。遅延を数字に落とすには、まず体で拍を保つ。拍は、熱のメトロノームだ。
地上に戻ると、雪は小降りで、しかし一粒ずつが重かった。街路灯の下に立つ人影はまばらで、歩く人の影が低い。施設の門前に、黒いコートの男がひとり。神崎蓮。灯りの色が変わっても変わらない顔をしている。変わらない顔は、怖い。怖いのに、見慣れてしまう。見慣れると、もっと怖い。
「勝手なことをして、責任は取れるのか?」
彼の声は、塵のない空気の音がする。音は軽いのに、落ちない。落とすべき場所を持たない音。ミアが言葉を探すより先に、アルヴィンが一歩出た。白いコートの裾に、雪が触れて落ちる。落ちる雪は、彼の足元で水になる。神崎の肩の雪は、落ちない。
「あなたが責任を語るなら、まず盗んだデータを返してからにしてほしい」
神崎は笑みを消した。笑みを消すのが上手かった。消し方がきれいで、痕跡が残らない。消した後に、冷たい正しさだけが残る。正しさは、氷に似ている。形を持つと美しい。触ると痛い。
「お前らのは科学じゃない。情動に寄りかかる危険な扇動だ。僕は白霧プラントの“実用化可能な温度管理方式”を発表する。市も、研究費も、そっちに向くだろう」
言葉と同時に、彼の吐息は温度を持たない。白くならないのではない。白いのに、温度がない。白い飾りみたいな息。飾りは、空気を飾るためだけに出る。人を温めるために出ない。飾りは、壁の上でよく見える。街を塞ぐのは、いつも正しい壁だ。間違った壁は壊せる。正しい壁は、従える。
「正しいだけじゃ、温かくならない」
ミアは震えないように言った。声が自分の喉を通るとき、細い針が刺さる。刺さった針は抜けない。抜けないままで、言葉は外に出る。外に出た言葉は、冷たい空気にぶつかって、少しだけ丸くなる。丸くなった言葉は、落ちない。落ちない言葉は、残る。残る言葉は、誰かの耳に届く。届いた耳が、少しだけ赤くなるときがある。
神崎は肩をすくめ、踵を返した。闇に紛れる動きは、練習したみたいに滑らかだ。背中に積もった雪は、やはり落ちない。落ちない雪は、氷に近い。氷は「そこにいる」を証明する。証明は、名札と似ている。名札がない人は、氷で名札を作る。
施設の奥から、低い警報音が続けて鳴った。鳴るたびに、地面が少しだけ震える。震えは足の裏から膝へ、膝から腰へ、腰から背骨へ上がる。背骨の一本一本が、金属のパイプのように冷えていき、そこに何かの指が触れて、凍らせている。凍らせて、名前を書いている。名前は見えない。見えないけれど、呼ばれている気がする。呼ばれると、応えたくなる。応えると、指に触れる。触れると、凍る。だから、ミアは首を振った。応えない。ここでは、応えない。
「地下一の緩衝層、安定。主配管の応急補修も持っている。けど、深部のメイン熱交換室はこれから」
施設長が駆け寄り、報告する技師の声を耳で追いながら言った。彼の頬は赤く、目は速い。速い目は、凍らない。
「監視カメラの“影”は?」
「時刻で言えば二十時台が濃い。二十一時を過ぎて薄くなった。代わりに“触れられた痕跡”が露出した」
「やっぱり、誰かがここで感情を凍らせている」
ミアの声は、いつもより低かった。低い声は、霜に強い。高い声は、霜に割られる。十年前の報告書の余白のメモが、頭の片隅でちらつく。あの時も、誰かの喪失が街に広がった。喪失の体積は、霜になる。霜は落ちる。落ちた霜は、管を破る。
「監察官カイルのことは?」
ミアは自分で驚くほど、唐突に口にしていた。施設長が眉を寄せる。
「カイルは真面目だ。今日は非番のはずだが……非番でここに来る理由はない」
アルヴィンが視線だけでミアに問う。ミアは頷き返した。確信はない。確信はないが、歩き方の遅延が似ていた。カイルはいつも、ドアの手前で半拍だけ待つ。待つ間に、誰の呼吸に合わせるか決めるみたいに。それは優しさだ。優しさは、時々、鍵になる。鍵は、どちらにも回る。
現場は続く。配管の周囲に補助ヒーターを仮設し、圧力センサーの校正をやり直す。EmoHeatのログは、安堵パルスが控えめに増えるのを示した。現場にいる人の呼吸が揃っていくと、霜の縁は細る。細った縁に、アルヴィンの冷却が線を描き、線は輪郭へと育つ。輪郭は、扱える。扱えるものは、怖くない。怖くないものは、重要ではないと誤解されやすい。重要で、怖くない。それがいちばんいい。
作業の合間、ミアは壁の古い手書き図面を眺めた。インクの黒は褪せ、紙の端は茶色い。図面の片隅に、知らない筆跡で短い文があった。十年前の日付。そこには、こう書かれていた。
笑わなくても、渡せる。
誰が書いたのか分からない。分からないのに、指先が温かくなる。温かさは、すぐに冷える。冷えた温かさは、記憶になる。記憶は、遅延の親戚だ。遅延と記憶は、熱を運ぶ。
地上に出ると、雪はさらに細かく、舞っていた。施設の外、フェンスの向こうで、数人の市職員が携帯無線でやりとりしている。遠くでサイレンが重なり、街の中心へ伸びる道の上に赤い光が短く走る。白霧プラントは、いま、街の喉の奥で咳をしている。咳は体力を奪い、体温を奪う。
風が変わった。冷たいだけではない。味がある。金属の味。配管の中の水が、配管でない場所へ触れた味。アルヴィンが目を細める。眼差しが、空気の層を数える。数えた層を、指でずらす。ずらされた層は、戻ろうとして、戻り切らない。そのわずかなズレに、ミアの遅延が入り込む。入り込んだ遅延が、橋になる。橋があると、誰かの重さを持てる。
「メイン熱交換室、入るしかないね」
「行こう」
門を出ると、神崎の姿はもうなかった。足跡は残らない。雪は彼の下で、凍ったまま。凍ったままの雪は、踏まれても形を変えない。形を変えない雪は、記録にならない。記録にならないものは、罪にならない。罪にならないまま、街に残る。
ミアは呼吸を整え、ヘルメットの顎紐を指で叩いた。硬い音が、耳のすぐ後ろで跳ね返る。跳ね返る音は、心の中の壁に当たって、少しだけ高くなる。高い音は、勇気のふりをする。ふりでもいい。ふりをしている間に、本物が追いつくことがある。
施設長が合図し、重い扉が開く。奥から来る空気は、薄い。薄いのに、重い。重さは温度ではなく、意味の重さだ。意味は、熱の形を借りてやって来る。アルヴィンがミアの肩に視線を投げる。視線は言葉より遅い。遅いものは、優しい。優しさは、霜を割らない。割らないで、ほどく。
「行くよ」
「うん」
二人は、暗く長い回廊へ踏み出した。背中で、地上の気配が遠ざかる。遠ざかる世界に、誰かの笑いの殻が薄く弾ける音が混じった。殻は軽い。軽い殻は、すぐ落ちる。落ちる殻は、床で砕けて、粉になる。粉は風に乗り、配管の表面に貼りついて、また霜になる。終わらない循環の中で、人は歩く。歩きながら、熱を運ぶ。運ぶとき、奪わない。奪わないで、渡す。渡せるだけ渡して、足を前に出す。出した足の下で、薄い氷が細かく割れ、割れ目から、わずかな湯気が上がった。
湯気は温かい。温かいのに、頼りない。頼りないものを、頼りにする。その頼りなさが、今夜の唯一の灯りみたいに思えた。ミアはその灯りを胸の中で両手で囲い、アルヴィンと並んで歩いた。白霧プラントの奥へ。十年前の報告書の余白に書かれた一文を背に、今夜の街の喉をひらくために。正しい壁を、そのままにしないために。
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