第5話 “冷却者(クーラーズ)”の噂

 翌朝の白ノ原は、雲の底に街ごと置き忘れられたみたいに低かった。屋台通りのテントは畳まれ、風が骨組みをひとつずつ指で探るように鳴らす。ミアは研究所に出る前に、道の端でサラの屋台をのぞいた。サラは手袋の指先を噛み、赤子を背にして、プラスチックの容器を重ねている。湯気がまだらに浮かび、すぐ消える。冷たさが湯気の通路を学習して、回り道を覚えてしまった朝。


「ミアちゃん、聞いた? “氷面会”っての。ひめんかい。泣きたい人が集まって、泣かない練習をする会」


 サラは声を潜めた。潜めた声は、息の奥で割れずに残る。残った声は、耳の中で冷える。


「泣かなければ、寒さに勝てるんだって。泣くの、ぜったい我慢するの。泣いた途端、部屋が凍るから。そう言う人が増えてる」


 ミアは紙コップを両手で包みながら、ココアの粉の粒が解ける速さを目で追った。さっきまで痛かった指先の芯が、底の方から少しずつ戻ってくる。


「その会、どこでやってるの?」


「夜。公民館とか、空きテナントとか。呼吸瞑想会って名前、パンフで見た」


 研究所に着くと、アルヴィンはすでにディスプレイ前で風の図を読んでいた。指を動かすだけで、壁面の粒子が反応する。ミアがサラの話を伝えると、彼は眉の端に小さく折り目を作った。


「感情を押し殺す集団的な儀式……“冷却者(クーラーズ)”の初期形態かもしれない。自発的な凍結の練習。街の感応場に、冷たい核を増やすやり方だ」


「練習で、できるの?」


「できる。呼吸の拍を揃えて、記憶のふたを閉め続ける。体温はすぐには下がらないけど、流れの方が先に固まる。固まった流れは、熱を受け取りにくい。受け取りにくい場所が増えると、都市は“寒さの通り道”に合わせて形を変える」


 ミアは街の掲示板とイベント告知の検索を洗い、夜に公民館で開かれる「呼吸瞑想会」を見つけた。講師名は「白い息の会・指導員」。匿名の笑顔アイコン。参加費五百円。毛布貸与。暖房は時間帯によって使用しないことがあります──そう添えてある。ミアは表示を指で拡大し、QRコードの隅に滲んだノイズを見た。偶然の粗さか、意図的な荒れか、判断できない。けれど、気配がある。


「潜る?」


「うん。入場時サインがいるタイプだと面倒だけど、見ておきたい」


「僕も行く」


「だめ。あなたは顔が目立つ。白いコートは、目印になりすぎる」


 アルヴィンは苦笑した。笑わないで笑うときの顔。表情の熱を折りたたむ癖を、彼は器用に持っている。


「じゃあ、外の空気を読む。出入りの風だけでも、十分な手がかりが取れるはずだ」


     ◇


 夜の公民館は、外灯よりも暗かった。玄関ホールの掲示板に貼られた町内会のチラシの端がめくれ、ホチキス針が霜で白くなっている。受付の机には小さな透明の箱。手書きで「会費」とだけ。無造作に置かれた毛布が山になって、その山の麓に黙って座る参加者たち。ミアは端の椅子に腰掛け、配られた毛布を膝にかけた。暖房は切られていた。切られた空気は、足首から先に、ゆっくりと上がってくる。低いところを先に凍らせる冷たさは、臆病だ。臆病なものほど、手早く広がる。


「始めます」


 講師が入室した。年齢不詳。ニット帽の下に目の線の薄い顔。声は柔らかいが、伸ばす母音に芯がない。芯のない声は、耳の上で滑り、壁に吸い込まれる。


「今日は“思い出さない”の練習をします。反応しない。冷たさは味方。泣くと、負ける。泣かないで、勝つ」


 照明が一段暗くなり、ドアが閉まる。薄い毛布の端が床を擦る音が、一列分ゆっくり続いた。講師は呼吸をカウントする。


「四つ吸って、四つ止めて、八つ吐く。胸じゃなくて、背中で息をする。背中は思い出にふれない」


 参加者は目を閉じた。ミアも従って目を閉じる。皮膚の表面に散っていた細かな電気の粒が、呼吸の拍に合わせて移動するのが分かる。遅延を長くとったEmoHeatの小型センサーをカーディガンの内側に貼り付け、周囲の波形を読む。胸より先に、指先の血の速度が落ちた。ほんの少し遅れて、空間の温度の行き場がなくなる。熱は生まれるたび行き場を探す。行き場がないと、すぐ粉になる。粉になった熱は、床に落ちる前に冷え、目に見えない灰に変わる。灰は、室温の指標には表れない。けれど、人の声の高音だけがほんの少し下がる。


「……」


 誰もしゃべらない。話し声がないのに、音はある。毛布の繊維が擦れる音、喉の奥で消えた泣き声の手前の呼気、膝に置いた手の爪が布に触れる小さな音。EmoHeatが検出した“逆熱パルス”は、予習したグラフに近かった。装置の表示で室温は0.3、さらに0.3、合計0.6℃落ちる。空調を切っただけでは出ない落ち方。講師の声が、ほんの少し嬉しそうに丸くなる。


「できてきたね。反応しない。泣かない。冷たさは、守ってくれる」


 会費袋が静かに回る。紙の擦れる音が、意外に大きい。紙は熱を吸う。吸った熱は、すぐに手の甲の上で冷える。冷えた紙は、硬くなる。硬くなったものは、誰かが“正しい”と呼びたがる。


 休憩に入り、薄い灯りが一段上がる。毛布を整えていると、隣の女性が小さな声で言った。


「泣くと、凍るの。うち、窓が内側から凍る。わたしが泣くと。だから、泣かない方がいいって」


 彼女の指先はひび割れて、目は乾いている。乾いた目は、光を跳ね返さない。光が入らない目は、痛くない代わりに、他人の温度に鈍い。彼女は続ける。


「この会に通い始めてから、少し楽。寒くても、凍らない。……そう思いたいだけかも」


 ミアは胸ポケットから、EmoHeatの小型版ステッカーを一枚抜いた。うすい銀色。皮膚電位と呼気の湿度を拾って、近くの空気へほんのわずか、熱の行き先を作る。


「これ、貼ってみて。泣かないのも、泣くのも、選べたらいいから」


 女性はステッカーを受け取り、ひと呼吸ためらってから、手首の内側に貼った。貼る指が震えず、貼った皮膚の色が少しだけ戻る。戻った色を見て、彼女は目の端を指で押さえた。押さえる手つきが上手い人は、よく泣いてきた人だ。


 視線を感じて顔を上げると、講師がこちらを見ていた。目が細くなる。細くなった目は、冷たいものの解像度が上がる。彼は静かに近づき、ミアの膝前で立ち止まった。


「君、外の人だね」


 場の空気が一度、凍った。凍る音はしないのに、喉の奥の筋肉が同時に固くなる。毛布の繊維が、ひと斉に光沢を失う。ミアが口を開く前に、扉が小さく開いて、室内の温度が一度だけ上がった。監察官の腕章が、灯りに反射する。


「ここは公民館の利用規約に反していませんか?」


 カイルが立っていた。制服の襟は固く、瞳は寒い。寒いのに、奥に迷いがある。迷いは熱だ。迷っている人の周りには、熱の行き場所が複数ある。講師は笑顔を作って、声を丸くした。


「合法です。利用登録しています」


 彼は会費箱を指差した。箱の角で光が折れ、その折れ目が笑顔の皺に見える。カイルは視線を箱から人へ移し、ほんの一秒だけミアと目を合わせて、それから引いた。引き方は練習していない。自然に一歩分、遅れた。扉が閉まる。閉まるとき、廊下の冷気が短く室内に落ちた。落ちた冷気は、毛布の間で迷い、すぐ天井へ昇る。その一瞬、室内の音が半音下がった。ミアは自分の鼓動と周囲の呼吸を重ね、装置の遅延を最長に伸ばした。


 講師が場を取り戻すために、声を低くした。


「思い出さない。反応しない。冷たさは味方」


 ミアは目を閉じた。閉じた目の裏に、白霧プラントの配管の割れ目が浮かんだ。掌の跡。あの押し付けられた白。押し付ける手が、ここにもある。誰かが誰かに「泣くな」と教えるとき、その手はいつも優しい顔で近づく。優しい顔は、冷たさの仮面と相性がいい。優しいものと冷たいものは、混ざると強い。


     ◇


 研究所に戻ると、アルヴィンは風のストリームをもう一段細かい解像度で見ていた。公民館から流れ出た冷えの筋が、街角のコンビニの駐車場でいったん立ち止まり、そこから三方向に分かれて散っていく。散った筋はそれぞれ、夜間診療所の待合、駅の北口の喫煙所、空き地のフェンスに寄りかかる十代の肩。薄い線は、追いかけると逃げる。けれど、逃げ道の先で必ずまた集まる。集まる場所は、いつも同じ色の光に照らされている。


「“冷却者”は、意図的に情動を封じて、冷えの塊を作っている。理由は色々。痛みから逃げるため、商売の材料にするため、誰かの操作のため。塊が大きくなると、街の感応場はそこへひっぱられて、灰色の凹みができる」


 ミアは公民館のログを装置からダウンロードし、波形を重ねた。参加者が目を閉じる瞬間の落ち込み、呼吸の拍が揃う瞬間の平らな谷。谷の底では、少しだけ音が良くなる。良くなるというのは、痛みが減るという意味ではない。痛みの方向が見えなくなる、という意味だ。痛みの方向が見えないとき、人は立ち止まる。立ち止まった人の周りに、灰色の凹みが生まれる。


「痛いのは、悪いことじゃないのにね」


 ミアの口から出た声は、自分でも驚くほど柔らかかった。柔らかさは熱に似る。似ているが、同じではない。柔らかいだけの熱は、流れていくだけだ。止めるには、輪郭がいる。


 アルヴィンは自分の掌を見つめていた。掌は細く、厚みがない。薄い皮膚の下で血管が走る。彼は低く言った。


「僕も、似たことをしてきた。冷やせば楽になる。楽は続かないのに。楽を続けようとして、もっと冷やす。すると、誰かの周りの熱が、僕のところへ流れてきた」


「あなたが悪いんじゃない」


「悪くないと、言い切れない」


 ミアは返す言葉を少し探し、それから目の前の回路図に指を伸ばした。紙の上の線は、迷わない。迷っているのは手前の人間の方だ。線は、いつだって手の動きより正確だ。


「なら、温め方を学べばいい。あなたが冷やして均して、私が熱のきっかけを作る。遅延で橋を架ける。二人でやれば、どっちかが壊れずに済む」


 アルヴィンは目を上げて、短く笑った。笑いは小さいのに、空気が変わる。笑いの殻ではなく、笑いの中身があるとき、空気は少しだけ丸くなる。


「共同研究者だ」


 その言葉は、合言葉というより、行動の名前だった。


 ミアはEmoHeatのパラメータをさらに調整した。泣かない練習でできる谷に、細い橋を渡す設定。橋はすぐ壊れる。壊れるけれど、渡す側が二人なら、向こう岸に手が届く確率は上がる。橋がかかれば、泣くことも泣かないことも、選べる。選べるなら、どちらも凶器にならない。


 データの片隅で、夜のコンビニの駐車場に一度滞留し、拡散した冷えの筋が、再び集まり直すポイントがあった。白霧プラントの南側、廃止された集会場。イベント予定はない。けれど、SNSの匿名掲示板で「白い息の会・特別例会」の告知が流れていた。場所は書かれていない。かわりに絵文字と略号。そして夜明け前の時間指定。


「カイルの目は、どうだった?」


 アルヴィンが聞く。ミアは公民館での一瞬を思い出す。彼の瞳は寒い。寒いけれど、奥で揺れる。揺れは迷いだ。迷いは、熱だ。熱がある人間は、こちら側に戻れる可能性がある。


「敵か味方か、まだ分からない。わざと見逃したのか、本当に規約しか見ていないのか。歩き方は、優しい人のそれだった」


「優しさは、鍵だ。鍵は、どちらにも回る」


 深夜を回り、研究所の窓の外で雪が途切れた。途切れた空に、薄い星が出る。星の光は寒い。寒いのに、痛くない。痛くない光は、熱を持っていないようで、実は別の形で温度を運ぶ。目に届いた光の、心の中の遅延に触れて、時間の速度を少し変える。変わった速度の中で、人は少しだけ正確に動ける。


 ミアは机の上に公民館の毛布の糸くずを見つけた。持ち帰った覚えはないのに、袖に付いてきた。糸くずは、毛玉になる途中だ。毛玉は熱を溜めるのが下手で、すぐ冷える。冷える前に、どこかに戻してやりたい。ミアは指の腹で糸くずを丸め、白い紙の上に置いた。白の上の灰色は、どこかで見た色だった。灰色の斑点。街の地図の上に増えている、沈んだ色。


「“氷面会”。名前、きれいだね」


「きれいな名前は、寒さと仲がいい」


「名前のきれいさで、凍る速度が上がること、ある?」


「ある。言葉は熱を運ぶ。運んで、奪うこともできる」


 アルヴィンは掌を上に向け、指をそっと丸めた。そこに見えない湯気が立つ。湯気は、彼の冷たさにすぐ取られて、すぐ戻る。戻り続ける湯気は、消えないで形を変えた。ミアはその形を見て、思った。都市伝説は、形の変え方が上手い。上手すぎる。だから怖い。怖いから、惹かれる。惹かれた足跡が、また次の儀式の場所を埋める。


「明け方の“特別例会”、行こう」


「今度は、僕も中に入る」


「あなたは外で風の壁を作って。内側の温度が落ちすぎないように」


「了解。君は、橋を」


「うん。遅延を、一番やさしいほうに寄せる」


 夜の終わりは、いつも薄い。薄いところへ、早足の影が続く。ミアはジャケットのポケットに、小さなステッカー型EmoHeatを十枚入れた。貼るためだけじゃない。貼るふりをするためにも。ふりは、時々、真実の前で時間を稼ぐ。時間があれば、どちらかが折れずに済む。


 窓際で、雪が音もなく舞い直した。音のない雪の下で、街はあちこちに小さな息を潜ませている。潜ませた息は、出番を待つ。泣きたい人の息も、泣かないと決めた人の息も。どちらも、同じ白さで出る。白さの向こうに、色を足せるかどうか。そのために、線を引く。線は、紙の上だけじゃない。空気にも、骨にも、心の奥にも。


 アルヴィンがボードに一行書いた。人の間合い=熱の間合い、と、また書く。二重線でなぞる。文字は同じでも、さっきより濃い。濃い文字は、少しだけ温かい。温かいものは、遅れて効く。遅れて効くものは、壊れにくい。壊れにくいものを選びながら、ミアは机の端に座って、指先をこすり合わせた。皮膚の乾いた音が、小さく火花みたいに鳴る。火花は見えない。見えない火花で、どうにか今日を照らし、明け方の集会所の扉を叩く準備をする。


 冷やせば楽になる。でも、楽は続かない。アルヴィンの言葉が、遅れて胸に沁みた。沁みた熱は、夜の底で小さく生き延びる。小さな熱は、灰色の斑点の縁で、ゆっくり周囲を丸くする。丸くなった縁は、風に崩れやすい。崩れるその瞬間を、橋で受け止められるかどうか。今夜、試されるのはたぶん、それだ。ミアは顔を上げ、ガラスに映る自分と目を合わせた。目は赤くない。泣いていないからじゃない。泣くのを選んでいないからだ。選べるように、選べるだけの温度を、明け方までに集める。そう決めて、ミアは工具箱の蓋を静かに閉めた。

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