第3話 屋台通りの実験
日曜の午後、白ノ原駅前の屋台通りは、風の針で刺されているみたいに人影が薄かった。のぼり旗の布は音を立てて身をよじり、缶の鈴は鳴らないまま震える。歩く人は肩をすぼめ、会話は口の中で縮こまって、吐いた息が言葉になる前に白くほどけた。
ミアは組合に取り付けた許可証をテントの柱に結びつけ、骨組みにEmoHeatの小型ユニットを四基、等間隔に設置した。脚立の上で配線をまとめる指は冷え、軍手越しでも関節がきしむ。けれど、遅延素子のコネクタを差し込むときだけ、指先に自分の熱が確かに戻ってくる。熱は仕事を覚えている。覚えている熱は、迷わない。
「これ、電気代は?」
背後から、組合の親方グレスが低く聞く。厚手のマフラーに霜がついて、灰色に光っていた。
「スポンサー、ついた」
アルヴィンが差し出したのは、研究所の臨時研究費の決裁書だった。白い紙に押された赤い印鑑は、ちょっとだけ暖かい色をしている。彼は真面目な顔のまま言う。
「君が街を温める検証のため」
グレスは鼻を鳴らして、目の端だけで笑った。
「若い王子様は金回りがいいな」
王子様という呼び名は、通りの人の耳にすべっていった。誰も本気で呼んでいないのに、言葉だけが先に浸透する。ミアは紙コップにココアの粉を入れ、ポータブルの給湯から湯気を落とした。湯気は白く、ねじれ、EmoHeatのフィンに触れて生温くなる。テントの中の空気が、ほんの少しだけ丸くなる。その丸さは、目を閉じると分かりやすい。目を開けていると、風の針が邪魔をする。
「無料の湯気、やってます。中だけ、あったかいよ」
手書きのボードを置くと、通りを押し戻しながら風が流れてきた。最初に足を踏み入れたのは、ベビーカーを押す若い夫婦だった。父親の頬は赤く、母親の目の下には薄い影。ベビーカーの幌は白い霜の粉でざらついている。
「お邪魔していいですか」
「どうぞ。三分で温度が落ち着きます」
EmoHeatのセンサーは、母親の肩越しに揺れる呼気を読み、0.3℃。数秒置いて0.2℃。赤子の指が動き、さらに0.2℃。合計0.7℃。数字は小さいのに、体感温度はそれ以上に上がる。母親が頬をさすり、目を見開いて笑うでもないのに目の下の影が薄くなる。
「ふわっとする」
ふわっと、という言葉がテントの天井の布にじわりと染みて、ゆっくりと空気に溶けた。そのあと、受験生のグループが息を白く重ねて入ってきて、夜勤明けの看護師たちが肩の荷を少し下ろし、宅配の人たちが軍手を外して指先を揉んだ。誰もが最初は遠慮して、すぐに肩を開いた。SNSでは「#白ノ原の暖かいテント」が小さく拡散し、通りの端から寄る人波が途切れなくなった。湯気は湯気の高さで人を誘導し、EmoHeatの四基は、互いの呼吸を感じ合うように、室内の熱をゆるく回した。
ミアは配線を一本ずつ確かめながら、装置のログに浮かぶ“安堵パルス”を眺めるのが好きになりかけていた。数字は無口で、親切だ。心拍や皮膚電位よりも、ゆっくりと立ち上がる波形が、確かに存在する。誰かが息を吐き切って、体の重さを椅子にあずける瞬間にだけ現れる、丸い山の線。安堵は検出可能な波形になり、風の刃を鈍らせる。鈍らせる、と言ったって、無力化じゃない。刃先が紙に触れる強さが、ほんの少しだけ弱まる。その少しで、人の指は紙を破らずに済む。
テントの外で、風鈴が突然鳴った。さっきまで鳴らずに震えていた鈴が、ひとつだけ、針で突かれたみたいに澄んだ音を出す。その音に振り向くと、通りの奥から黒いダッフルのコートが歩いてくる。神崎蓮だった。口元だけ笑って、目は笑わない。笑わない目の中に、薄い硝子板がはめ込まれているみたいだった。冷たさが内側から光る。
「派手だね。倫理審査は?」
アルヴィンがわずかに身構える。ミアは配線テスターをポケットに押し込み、前に出た。
「公開空間で生体情報は個人を特定しない形で集計、同意は入場時のQRで取っています。拒否の人のデータははじく設定。問題があれば組合経由で指摘を」
神崎は唇を片方だけ上げた。
「“君のため”に言ってる。素人ウケする雰囲気作りは、科学じゃない」
言い終わるより早く、通りの端で人垣がざわめいた。視線が波のようにそちらを向き、波の中心で、ひとりの老人が膝から崩れた。紙袋の中の白ネギが転がり、道路に白い線を描く。ミアは走った。背中の空気が針の束みたいに刺さる。アルヴィンは風向きを変えるように身をひるがえし、EmoHeatの出力配分を咄嗟に切り替えた。余熱を切り離し、テント内の暖かさを細い流れにして、老人の体のすぐ上に送る。
「救急、呼びました!」
誰かが叫ぶ。グレスが、人垣の外側で風をさえぎるように腕を広げた。ミアは老人の手に触れ、指先の色を確かめる。色は薄いが、紙の白ではない。呼気は浅いが、切れてはいない。EmoHeatの遅延は、焦って短くならないように設計してある。今、この三十秒が長い。長い三十秒の間に、テントの空気は一定の暖かさを保ち続け、老人の指先の色がほんの少しだけ戻る。誰かが「暖房あげた?」と聞き、別の誰かが「いや、風だ」と答える。風の中に、細い、別の風がある。温度は同じで、方向だけが違う風。アルヴィンが作った風だ。
救急車のサイレンが遠くから近づき、白い光が通りの灰色を引き裂いた。担架が来て、慎重な手つきで老人は運ばれていく。ミアの指に、老人の体温が少しだけ残る。残った温度は、手袋の布に移り、布はすぐ冷たくなる。それでも、移る前には確かにあった。あった、という事実だけが、寒さの中で心を支える。
救急車が去ったあと、テントの中で拍手が起こった。手袋越しの音は鈍いのに、拍手の意志だけが鮮明だ。グレス親方が神崎の方を見やり、肩をいからせる。
「科学がどうとかは知らんが、“効く”んだよ、こういうのは」
神崎は鼻で笑って、テントに背を向けた。去り際、彼の肩に積もった雪だけが、ずっと落ちなかった。歩くたび、雪は落ちるチャンスを逃す。まるで“冷え”が、彼に固着している。アルヴィンが小声で言う。
「彼、自分の中の温度を捨てる癖がある。捨てるたびに、どこかから補うタイプ。誰かの熱を吸って、均す」
言葉は静かだが、背中に薄いぞくりが走った。盗用の話だけじゃない。神崎の冷え方は、街の冷え方に似ている。灰色の斑点が、余白の顔をして近づいてくるときの感じ。ふと気づくと、他人の笑い声に芯がないときの感じ。殻だけの笑いが風に舞い、皮膚に触って消える、その小さな冷たさ。
「戻る前に、もう一度出力を落として、ログだけ回収する」
ミアは装置の端末に触れ、ユニットごとの流量と遅延時間を保存した。安堵パルスは薄くなっている。老人が倒れたあと、人々の呼吸は少し速く、浅い。早い呼吸は、熱を薄くする。薄くなる熱は、風に弱い。弱い熱を守るように、アルヴィンはテントの裾に作った簡易の風よけの角度を変えた。透明ではないビニールは、風の手に気づかれにくい。見えない手は、透明を好む。見える壁は、手を迷わせる。迷った手は、殻を落とす。
日が沈むころ、ハンドスピーカーの宣伝声が遠くで途切れ、屋台の煙が濃くなった。煙は熱を運ぶ。熱は匂いを連れてくる。焼いたソースの匂いがテントの中にも入ってきて、EmoHeatのフィンで薄まり、胃のあたりにたまる。空腹は、熱の容器だ。空腹の容器に熱が入ると、人は優しくなる。優しさは、安堵パルスを少しだけ押し上げる。数字は相関を示すだけだが、示すだけでも十分だ。
片付けを始めると、アルヴィンの手袋の縫い目がほどけているのに気がついた。人の指先は、装置より先に疲れる。ミアは裁縫セットを取り出し、ベンチの端に座って縫い始めた。光は弱いが、針先はよく見える。糸は毛糸ではなく、細いナイロン。ナイロンは冷たく、強い。強さは、冬に向いている。
「ありがとう」
アルヴィンが指を丸めて渡す。手袋をひっくり返すと、内側に朝の氷の匂いが残っている。氷は匂いを持たないはずなのに、とミアは昔、理科の先生に教わった。だが、これは匂いに近い「手触り」だ。氷に触れた手の皮膚が覚えている、滑らかで、少しだけ引っ掛かる触感。アルヴィンの生活は、こういう手触りでできているのだろう。彼は冷やす。彼が冷やす先に、誰かが温まる。それは美談ではない。ただの流れだ。流れの中で、自分は遅延を担当する。遅らせて、渡す。
遠くでサイレンが重なった。ひとつ、ふたつ、間を置かず、もうひとつ。音は低く、重い。アルヴィンが顔を上げる。その横顔は、音を読む顔だ。ミアのスマホが震え、ニュースアプリの速報が画面を覆った。
白ノ原市中心部の貯水施設“白霧プラント”にて警報発報。設備の一部で凍結の兆候。市は住民に対し、不要不急の外出を控えるよう呼びかけ——
テントの骨組みが風で鳴る。鳴る音は、さっきまでと違う。鉄の鳴き声の中に、薄いガラスを爪でなぞったような高音が混じる。混ざる音は、舌に苦い。苦い音は、冷たい。EmoHeatの端末が、外気の情動温度の落ち込みを示した。灰色の斑点が地図の中心から染み出し、細い脈のように通りへ伸びてくる。伸びてくる速度は、人の歩く速度に似ている。誰かが歩いてくる。誰かだけではない。誰かたちだ。感情の凍結が、固有名詞を持たない足音で近づいてくる。
「プラントが、凍り始めた」
アルヴィンの声は低く、冷静で、かすかに掠れていた。ミアは装置の電源を落とそうとして、指を止めた。落とす前に、ログ。どの方向から、どの速度で、灰が伸びるか。遅延の余白が、都市の熱の間取りと噛み合うか。数字が必要だ。だが、数字を取りに行く間に、誰かが凍るかもしれない。
通りの向こうから、走ってくる人がいる。コートの裾をつかんだまま、息が白い帯になって後ろへ千切れる。彼は叫んだ。声は届かなかった。声は届かず、風だけが来た。風はテントの裾を持ち上げ、EmoHeatのフィンを指で撫でるように通り過ぎ、ミアの頬を刺した。刺す冷たさに、ぞくりと背骨が鳴る。怖い。怖いのに、足は動く。動く足の裏で、地面の薄い氷の膜が細かく割れ、その割れ目に灰色が染み込む。染み込んだ灰は、すぐに形を消す。消した形は、別の場所に現れる。目を離した隙に、背後に。背後に、言葉の形で。
ミアは顔を上げた。屋台の煙に紛れて、看板の白い余白に、黒い湿りのような文字が浮いていた。誰かが指で書いたわけではない。湯気が壁に当たって、冷えて、偶然に並んだ粒子だ。偶然に並ぶには、言葉が整いすぎている。
笑ってなくても、奪える。
テントの入口で、グレスが唾を吐いた。唾はすぐに霜になり、地面の上で静止する。アルヴィンは看板を一瞥して、ミアを見る。言葉に反応しないほうがいい。反応すると、殻になる。殻は冷たい。わかっている。わかっているのに、首の後ろに薄い針が差し込まれる。針は抜けない。抜かないほうがいい針だ。怖さの形を保つ針。針がないと、怖さは泡になって消える。消えた怖さは、戻るときに刃になる。
「プラントへ行こう」
ミアは言った。声が震えないように、言う前にひとつ息を噛んだ。噛んだ息は、喉の奥で温度を持ち、言葉に移る。移った温度は、命令ではなく、お願いの形をしていた。お願いの形は、人を動かす。アルヴィンは頷く。
「途中で、灰の根を読む。どこで強くなるか」
「EmoHeat、二基持っていく。遅延は、長めに」
「長い遅延は、折れるぞ」
「折れない長さで」
ふたりは慌ただしく片付けを加速し、グレスにテントを託した。親方は「あとでカギ閉めとく」と言い、ぶ厚い手袋を鳴らした。鳴らした音の中に、さっきの高音は混じらない。人の手が鳴らす音は、冷たくても、苦くない。
通りを出ると、駅前のスクリーンに緊急テロップが走った。白字が少し滲み、最初の数フレームだけ別の言葉に見える。「氷霧」ではなく「笑霧」。目の錯覚。そう言い聞かせても、胸の奥は勝手に拍を変えた。アルヴィンは歩幅を広げ、ミアも追う。歩くたび、風の針は減らず、角度を変える。針は正面からではなく、耳の後ろから刺す。刺すたび、背筋に電気が走る。ぞくり、と、何度も。ぞくりは嫌いじゃない。嫌いじゃないけれど、長くは持たない。長く持たないものを、長くするのが遅延の腕だ。ミアは胸の中のメトロノームを、ほんの少し遅らせた。
プラントの方角へ向かう道の途中、橋がある。凍った川をまたぐ短い橋。欄干には夜の霜が積もり、溝に小さな氷柱がぶら下がっていた。その一本が、ふいに、内側から折れた。折れた氷は静かに落ち、地面で砕ける前に粉になって風に混じる。混じった粉は、雪ではない。冷たさの粉だ。粉は人の顔に触れ、目の際でだけ消える。目は、熱の出口だ。出口に粉を当てられると、視界がわずかに曇る。
「視界、どう?」
「少し、白い」
「白いときは、耳を使う」
アルヴィンは振り向かずに言い、風の音を読み取るように、首をわずかに傾けた。風は、街の版図をなぞっている。道の角、ビルの切れ目、地下の温水配管の走り。そこに灰色の脈が絡みつき、冷たい血管のように脈打つ。脈は、プラントから外へ。外からさらに外へ。呼吸の逆流だ。都市の肺が、出すべき冷たさを出しきれず、逆流して自分を凍らせている。
プラントまでの直線で、通行止めの黄色いテープが風に踊っていた。警備員が厚手の制服の襟を立て、立ち入り禁止の札を掲げる。札の角に霜が張り、活字の黒に薄い白が噴いている。白の綿毛が、文字を別の意味に変えかける。変わる前に、ミアは目を逸らした。変わって見えるのは、疲れているサインだ。疲れは、遅延を短くする。短くなった遅延は、奪う側の速度に近づく。
「研究所から、現場対応の承認をもらう。少し、時間がいる」
アルヴィンが電話に指を滑らせる。氷のように冷たい声が、向こうから流れてくる。冷たい声は、焦りと相性が悪い。焦りは熱だ。熱は、冷たい声の上で不安定に跳ねる。ミアはEmoHeatのポケット版を取り出し、低出力で周囲の情動温度を読む。灰の脈はここで太くなる。太くなる場所は、橋のような働きをしている。人が通らなくても、感情が通る橋。橋を渡ってくるものが、笑いの殻を連れてくる。殻は軽い。軽いのに、指先に刺さる。
通りの向こう、白霧プラントの高いタンクの表面に、冬の光がにぶく反射していた。その表面に、細い亀裂の走る音が、まるで耳の真横で鳴ったみたいに届く。実際には遠い。遠いのに近い。近いと感じるのは、恐怖の特技だ。恐怖は距離を捻じ曲げ、時間を薄くする。薄くした時間に、足音が重なる。自分の足音ではない。街の、別の足。
背後で、誰かの笑い声がした。笑い声ではなかった。笑いの殻が割れる音だ。乾いた、軽い破裂音。ミアは振り返らない。振り返ると、殻は顔に当たる。当たると、冷たい。冷たさは、恐怖の輪郭をくっきりさせる。くっきりした恐怖は、美しくすらある。美しいものは、危ない。危ないものに、人は惹かれる。惹かれながら、遠ざかる。遠ざかるふりをして、近づく。
アルヴィンが通話を切って、頷いた。
「承認、取れた。現場の気流の測定、可能」
「行こう」
黄色いテープの端を回り、警備員と短く言葉を交わす。研究所の臨時許可証を見せると、警備員は肩をすくめ、息を白く吐いた。息はすぐに粉になり、風に混じる。粉は、灰に似ていた。似ているけれど、違う。人の息の粉は、毒じゃない。毒じゃないものを、毒に変えるのは、速度だ。奪う速度が、遅延を追い越すとき。
門をくぐったところで、ミアのスマホが震えた。画面には、一行だけ。
君の実験はここまでだ。
送り主は表示されない。表示されないのに、声が聞こえる。神崎の声に、よく似ていて、似ていない。整っていて、冷たい声。アルヴィンは画面を見て、笑わなかった。笑わないのに、目が細くなる。細くなった目は、氷の表面に走る微細な筋を拾う。拾った筋は、地図になる。地図は、怖さを連れていく。連れていくとき、怖さは少しだけ軽くなる。
「ミア。遅延は、いちばん長い設定で」
「うん。長いけど、折れないやつ」
ふたりは走り出した。背後で屋台通りの暖かいテントは、グレスの太い腕と、残った人たちの笑いの中に溶ける。笑いは、殻じゃない。殻じゃない笑いは、風に強い。強い笑いは、橋になる。橋になって、こちらに届く。届いた笑いが、ミアの背中を少しだけ押す。押された背中に、薄い熱が灯る。その熱は、針の束をくぐるための、ほんの少しの灯りだった。
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