大人になって

数年後。


 大学を共に卒業した渉と桜典は、共に夢だった美容室を立ち上げた。小さなサロン。


 その店は瞬く間に評判を呼び、街に欠かせない存在になっていった。


 渉はいつも穏やかな笑顔を絶やさず、柔らかな声で客を迎える。

 その笑みの下に、かつての荒々しさを知る者はいない。

 桜典は金髪に無機質な瞳という印象的な外見で、客からかなりの人気を誇っていた。


 けれど、ふたりの関係には、他人には見せない「影」がある。


 桜典が常連客に軽く肩へ手を置いただけで、渉の笑顔の奥の空気が変わる。

 閉店後、店内の灯りを落とした裏口で、渉は低い声で桜典に問う。


「……ああいうの、やめろ」

「え、何のこと?」

「“客に触る”こと」


 笑顔のまま、声だけが冷たく落ちた。

 桜典は困ったように笑って、「接客だよ」と答えるが、渉は片手で髪を乱暴にかきあげ、目を細める。


 暴力の時代は終わった。はずだった。


 歳を重ねる度に渉の「独占欲」は静かに深く、桜典の心を絡め取っていく。

 彼の指先が髪を整えるたび、桜典は息を詰める、そのまま髪をいじる指先は次第に桜典の首に落ちていき、力が加わる、けれどすぐに止める。



 あの頃、殴ることしか知らなかった渉が、

 いまは優しさで縛るようになった。


 それでも、桜典は笑う。

 渉の笑顔の奥に、あの不器用な愛がまだ生きていると知っているから。


桜典はそっと視線を落とした。

 渉の指が、首筋をなぞる。その指先の震えが、彼の心の奥をすべて物語っていた。


「……そんなに、怖い?」

 囁くように桜典が問う。


 渉は答えない。ただ、桜典の首に指を絡めたまま動かない。

 静かな店内に、時計の音だけが響く。


「ねえ、渉」

 桜典は、彼の手を自分の頬に導いた。

 震える指が肌に触れる。

「守るって、ずっと縛り付けることじゃないよ」


 渉は目を伏せた。

 何かを飲み込むように喉が動き、長い沈黙のあとでやっと言葉が落ちる。


「……お前を失うのが、怖くなってきたんだよ」


 桜典は微笑んだ。

 そのまま、彼の髪を指で整え、額にそっと触れた。

 髪越しに伝わる温度は、あの頃とは違う。


 暴力でも、怒りでもない。

 ただ、確かめるような不器用な愛情。


 渉の息が、桜典の耳の近くで止まる。

 ふたりの影が重なり、やがて静かに離れた。




 桜典は目を閉じ、肩に頭を預けた。

 その瞬間だけ、過去も痛みも、やわらかく溶けていった。


「……もう、触れるのは俺だけにして」

渉の声は低く、真剣さが滲んでいた。


桜典はあははっ、と笑いながら首を振る。

「無理だって!もう!美容師舐めないでよ、渉」


彼の真面目な顔を見ながら、自然と笑みが零れた。


渉も少し眉を緩めて微笑む。

「……舐めてるわけじゃない。でも、俺以外には……」


「わかってるって、安心してよ」

桜典の声に、渉はふっと力が抜ける。二人で小さく笑い合った。



しかし、桜典はふと顔を上げ、さっきの笑顔は無かったかのように無表情で渉の方を見つめる。


「でもさ、今日渉も女の人の肩直接マッサージしてたじゃん。あれ、次やったら許さないからね」


渉は驚いたように頭をかいて、

「一瞬だけだろ」


桜典は真剣な顔で渉を見つめる。金髪の男の目にはハイライトはなく、表情のおかげか、いつものミステリアス雰囲気がより一層強くなって、その真剣な視線に、渉は思わず嬉しそうに笑った。

「わかったよ。もう二度と客に直接触れないから、安心して?」


渉がそう言った瞬間、桜典は思わず吹き出した。


「あはははっ!いや、やっぱり無理だよね!美容師でそれは厳しいってば!」


笑いながら手で顔を覆う桜典に、渉も少しだけ顔を赤らめながら笑った。


「だね、でもほどほどにしよう」

渉の声は低く、でも柔らかい。二人の笑い声が、店内にふんわりと響く。


「うんっほどほどにね」

桜典が小さく頷き、二人は自然に肩を並べながら閉店作業を始めた。


道具を揃え、椅子を整え、鏡を拭きながら、時折笑い合う。


2人は楽しそうに店内を動き回る。


「明日も忙しくなるね」

「うん、でも一緒にやれば楽しい」


閉店作業が終わり、二人は笑顔のまま店を出た。

小さなサロンの一日が終わるとき、渉と桜典の距離は、これまで以上に自然で、温かいものになっていた。

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