物足りない
その日、殴られなかった。
放課後、いつものように裏庭に呼び出された桜典は、期待しながら構えたままの渉を見つめた。
けれど、渉の拳は宙に浮いたまま、下ろされなかった。
「……もう、やめる」
短い言葉だった。
桜典は意味がわからず、まばたきを繰り返す。
「やめるって……何を?」
「殴るの。お前の顔、もう見てらんない、折角綺麗なのに、ボコボコでいつも痛そうで…」
渉は小さく息を吐き、迷うように手を伸ばした。
その指先が桜典の頬に触れる。
軽く、震えるほど優しい力加減で。
「…こうやって触る方が、ずっと怖いんだよ」
桜典は息を飲む。
痛みがない代わりに、胸の奥が妙にざわついた。
頬に残る熱が、殴られたときのものと違っていて、落ち着かない。
「……渉」
「ん?」
「なんか…変だよ。殴られないと、落ち着かない」
渉の手が止まり、目がわずかに見開かれる。
「お前、何言ってんだよ」
「だって、ずっとそうだったから…。
渉が殴ると、怒ってるんだってわかって。安心してたのに…痛いのも別に嫌いじゃない、顔なんてどうでもいいよ、傷も気にしないでいいからさ…」
渉は唇を噛み、ゆっくりと桜典の頬から手を離した。
その手を見つめながら、かすれた声で言う。
「俺は、もうお前を傷つけたくない。これが愛じゃダメか?けどな、優しくするのも怖い。
この手がどっちに動くかわかんねえんだ…」
桜典は俯きながら、その影に触れるように小さく呟いた。
「殴られないのに、不安って……おかしい。」
渉は何も答えなかった。
ただ、そのまま桜典の手を取って、指先を重ねた。
殴る代わりに、握るそんな不器用な“練習”のように。
冷たい風だけが、二人の間を抜けていった
それから、渉は少しずつ「殴らずに触れる」練習を始めた。
最初はぎこちなく、肩に手を置くだけでも息を詰めるような様子で。
それでも桜典は何も言わず、されるがままにしていた。
痛みの代わりに残る、温度だけの手のひら、
それが、どこかむず痒かった。
「……練習、って変だよね。触れるのに」
そう言って笑う桜典に、渉は視線を落としたまま答える。
「俺さ、この手でお前を殴ってきたのに、今さら優しくしようなんて、虫がいい話だよな。」
「でも、渉の手、そんな怖くないよ」
桜典はそう言って、渉の指先に自分の手を重ねた。
その瞬間、渉の呼吸が止まる。
ほんの一瞬でも、かつての衝動が蘇る。
殴りたいという感情
「……やっぱり怖い」
小さく呟いて、渉は手を引いた。
けれどその表情には、怒りよりも迷いが浮かんでいた。
「この手で、誰かを綺麗にできたらいいって思ってる。……お前の髪とか、切ってみてぇな。
上手くなれば、俺の手も信用できるかもしれねぇな。」
桜典は静かに笑った。
だけど、その笑みの奥には少しの戸惑いが混ざっている。
渉が優しくなるほど、自分が置いていかれる気がした。
「ねぇ、渉。もしさ…殴りたくなったら、我慢しなくていいよ」
「は?」
「なんかね、優しいだけだと不安になる。
殴られたら、『あ、まだ僕のこと見てるんだ』って思えたから」
渉の目が、わずかに揺れる。
次の瞬間、拳が動いた
けれど桜典の頬に当たる前で、ぎりぎりのところで止まる。
その拳を見つめながら、渉はかすかに笑った。
苦しそうに、でも確かに微笑んでいた。
「……もう無理だ。もう殴る気は無い。」
拳を下ろし、指先で桜典の髪を軽く撫でる。
風が吹き抜けて、桜典の目が少し潤む。
痛みは消えたのに、胸の奥が痛くてたまらなかった。
それでも、渉の手は初めて“痛みじゃなくて優しさ”を残していった。
ある日の放課後の教室。
窓際の席に座る桜典の背後で、渉はハサミを構えていた。
2人のお金で買った練習用の道具。
その手つきは、かつて殴るために握った拳よりもずっと静かで、慎重だった。
「動くな。…切るぞ」
「うんっ」
桜典の返事は小さくて、まるで信頼の証みたいだった。
髪がハサミに挟まれて、わずかに“しゃり”と音を立てる。
その音に、渉の胸の奥がじんわり熱くなる。
この手で、守れるんだ。
殴るんじゃなく、整えるために。
「なあ、桜典」
「なに?」
「俺、もう殴らない。…多分、本気で殴ったらもう、お前壊れちまう気がする。」
その言葉に、桜典はゆっくり振り返った。
切りかけの髪が頬にかかって、笑顔が少し歪む。
「壊れてもいいのに」
「は?」
「だって、殴られなくなったら、渉は僕に興味がなくなって遠くに行くみたいで。痛いのより、そっちのほうが怖い」
渉は一瞬だけ無表情になった。
それから小さく舌打ちして、桜典の額を指で軽く弾く。
「バカか。俺はもう、お前を壊す側じゃねぇよ。
…守るって決めた。殴るのが目的じゃなくて本当に好きなんだよ、お前が。」
桜典の髪を掬い上げて、光の中で透かす。
陽の色を受けてきらきらと揺れるその髪が、どこか儚く見えた。
「髪ってさ、切ったらまた伸びるだろ?だから、これからもし傷ついても、歪んでも何度でも整えてやる。お前の“戻れる場所”くらい、俺が作る」
桜典の瞳が、音もなく潤んだ。
その目に映る渉はもう、あの荒んだ暴力の象徴じゃない。
ただ真っ直ぐで、優しい“恋人”だった。
「……ありがと。渉の手、好きだよ」
その一言に、渉は少しだけ目を逸らした。
けれど、頬のあたりにかすかな笑みが浮かんでいた。
「……うるせぇ。もう動くな、髪、まだ途中だ」
夕陽が差し込んで、二人の影が机の上で重なった。
人を殴るための手が、恋人を守るための手に変わっていく。
そのことに、渉自身がいちばん救われていた。
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