痣の噂と、克服

最近、桜典の顔を見ると、どこかに必ず痣があった。


 頬の端、口の横、顎の下。

 本人は「階段で転んだ」「ドアにぶつけた」と笑うけど、


 そんな言い訳を信じる生徒は最初からいない。


 廊下を歩くだけで、ひそひそとした視線が集まる。


あいつ、やばい奴と関わってるらしい。

最近よくあの怖い人と二人でいるよね。


 そんな噂が、いつの間にか学校全体に広がっていた。


 渉はそれを聞いても、何も言わなかった。

 むしろ、桜典の袖を掴む手が少しだけ強くなった。


「お前が悪いんだ。人前でヘラヘラしてるから、少しは否定しろ。」


 放課後の空き教室。


 桜典が「痛いよう」と言うよりも先に、拳が肩口に当たる。


 そのあと、腹の横あたりを軽く小突かれた。


 顔じゃない。


 痣が目立たないように

 渉は狙いを変えていた。


 それが優しさなのか、ただの自己保身なのか、

 桜典には分からなかった。


「んっ……渉っ、ほんとに、僕のこと…うっ、好き、なのお?」


 声が震えた。

 渉は短く息を吐いて、視線を逸らす。


「……そうじゃなきゃ、こんなことしない。」


 静かな声。

 その言葉に、桜典は何も言えなかった。


 痛みよりも、渉の目の奥にある寂しさの方が苦しかった。


 それでも。

 放課後、二人で帰る道の途中で、桜典はいつも通り笑う。


 殴られた肩と腹まだ痛む。

 愛おしい痛み。


 渉は桜典を殴ったその手で

 桜典の頭をそっと撫でる。


 渉は、そういうやつだった。


 帰り道。


 並んで歩く二人の間には、妙な静けさがある。

 けど、コンビニに寄ればいつも通り、渉は桜典 の好きなお菓子をいくつも無言で手に取る。


「俺が払う」

「え、いいよっ」

「いいって言ってんだろ?」


 レジの音が鳴る間、桜典はただ小さく笑う。

 その横顔が、どうしようもなく優しい。


 夜。

 メッセージの通知が鳴る。

 送信者:渉。


 『風呂入って寝ろ、腹冷やすな』


 たったそれだけの文に、胸がじんわりと温かくなる。


 渉の指が、自分に触れた感覚がまだ残っている気がして桜典はスマホを胸に抱いたまま、静かに息を吐いた。






 次の日も校舎裏でまた先輩に絡まれた桜典の腕を、渉が無言で引く。


「行くぞ」


 そのまま強引に歩かされながら、桜典は気づく。


 渉は、怒る時も、優しくする時も、

 ぜんぶ俺のためだった。


 それが、怖いくらいに嬉しかった。


「ねぇ渉」

「なんだ」

「俺さ、渉のこと、もっと好きになってるかも」


 渉は一瞬だけ振り向いて、鼻で笑った。


「知ってる、俺も。」


 それだけ言って、また前を向いた。

 夕陽の光が、二人の影を長く伸ばしている。




 


 最近の渉は、少し変わった。

 桜典が冗談を言えば笑うようになったし、

 昼休みには前は教室にすら来なかったのに自分から「一緒に食うか」なんて誘ってくる。


 だけど。

 その優しさの裏に、どこか爆発寸前の火種を抱えているのを、

 桜典はちゃんと知っていた。


 殴る時以外の渉は、ほんとうに優しい。

 手のひらが温かくて、声が低くて、笑うときに涙袋で目が隠れる。

 そのふつうの優しさが、たまらなく愛おしかった。でも少し物足りなさも感じていた。


 コンビニの前のベンチで、買ったおにぎりを二人で食べる。

 渉がふいに、桜典の髪に指を入れる。


「お前、前髪切った?」

「うん、ちょっとだけ」

「下手だな。今度俺がやる」


 そう言って、桜典の額に触れる。

 その手つきがやけに丁寧で、くすぐったい。





頬の痣が、そんなの、もう数えるのもやめた。

 鏡を見るたび、色の変化だけが日々を教えてくれる。紫だった昨日が、今日は黄色い。

 けど次の日にはその上からまた痣が上書きされる。


 桜典はその変化を嬉しそうに見つめる。


 慣れた。むしろもっと欲しい。

 そう思う自分がいちばん怖かった。


 放課後。人気のないグラウンドの裏。

 渉は無言で桜典の肩を掴むと、短く息を吐いてから拳を落とした。


 乾いた音が響き、桜典は少し体をよろめかせる。それでも逃げない。


 むしろ、目を伏せて小さく笑った。まるで暴力なんて受けていないような顔だった、幸せそうで、ただ恋人との時間を純粋に楽しんでいる顔。


「……もっと、強くしてもいいよ」


 渉の動きが止まる。

 その目の奥が、一瞬だけ何かに怯えたように揺れた。


「お前、なんでそんなこと言うんだよ…」


「渉が殴ると落ち着くんでしょ、だったら、殴ればいいよ…俺もそっちほうが色々楽なんだ。」



「違う……落ち着くなんかじゃない。…けど、やめたくないだけなんだ。」


 声が震えていた。

 桜典は黙って、そっとその拳に触れた。

 渉の手の甲には、かすかな赤みと古い傷跡があった。


「人を殴るしかできない手はやだ?」


 渉は目を伏せた。

 その沈黙の中で、少しずつ吐き出すように言葉が落ちていく。


「……俺さ、ほんとに美容師になりたい。

 誰かの顔、綺麗にできる手になりたい

 でも、お前を殴るたびに思うんだ。俺の手、もう汚れてんじゃないかって、でも殴ると楽になるんだ。」


 桜典は何も言わなかった。

 ただ、殴られた頬が痛むたびに、渉の言葉が深く突き刺さるように残った。


「俺、自分の手を信じたい、けど…怖い」


 その日、桜典の体に新しい痣は増えなかった。

 けれど、胸の奥では何かが確かに疼いていた。

 痛みでも恐怖でもなく、

 

自分のせいで更に酷くなっていく渉を救いたいという、無謀な想い。


 自分の欲とは反するが、それは欲なんかよりも深い愛情と懺悔の気持ちが上回っていた。



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