キズ

休日の午後、サロンのドアが鳴った。

営業は休みの日だった。だが、渉は機械音のようにいつもの癖で「どうぞ」と声をかけてしまう。


入ってきたのは、思いがけない顔だった。

渉の両親。

「近くまで来たから、少し寄ってみたのよ」

母親が笑いながら言い、父親は無言で店内を見渡す。


桜典は慌てて掃除用のクロスを置き、柔らかく頭を下げた。

「お久しぶりですね!」

「桜典くん、久しぶりねえ。相変わらず綺麗な顔して〜」

母親の声は明るかった。

けれど、その後の数分で、空気は少しずつ変わっていった。


会話の途中で、桜典がシャンプー台に手を伸ばしたときだった。

袖口が少しずり上がり、手首の内側が露わになる。

淡く消えかけた赤い線。

それは、光の角度で一瞬だけ、妙に生々しく見えた。


母親の笑みが止まる。

父親もわずかに視線を落とした。


「……桜典くん、それ……」

桜典は一瞬固まり、すぐに笑って袖を下ろした。

「……あ、これですか。アイロン、うっかり落としちゃって」

「そうなの?」

母親の声がやわらかく沈む。

その後ろで渉がわずかに目を伏せた。


「仕事柄、火傷とか多いんですよっ」

桜典は無理に明るく言いながらも、指先が震えていた。


渉の父が、その様子を静かに見つめている。

沈黙が長く続いた。


やがて母が小さく息を吐き、渉の方に振り向き

「……渉、桜典くんのこと、大事にしてるんでしょうね?」と、少し探るように言った。


渉は短く頷いた。

「もちろん」


その声には迷いがなかった。

ただ、母の目はわずかに曇る。

「……そう。ならいいけど」

そう言って微笑んだものの、その笑顔はどこか不安げだった。


両親が帰ったあと、店内には重い静寂が落ちた。


桜典はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと呟いた。

「……ごめん。隠しきれなかったかも」

渉は何も答えず、代わりにロックを閉めた。

カチリという音が、妙に響いた。


「……あいつらは、何も知らない」

低い声が落ちる。

「お前が望んでることも、俺がどこまで踏み込んでるかも」


桜典は小さく頷いた。

「知ったら……きっと、僕らのこと全部止めようとするね」


渉はその言葉にかすかに笑った。

「だから見せなきゃいいってこと」


そう言って、渉はゆっくり桜典の手を取る。

袖を直すように見せかけて、その指で跡をなぞった。

触れた瞬間、桜典は息を詰める。


「……隠していれば、誰にも壊せない」

渉の声は、優しさと支配のあいだにある危うい静けさを帯びていた。



┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


休日の午後、渉の両親が「今度はちゃんと話したい」と言って再び訪ねてきた。


前回とは違い、今回はサロンではなく、2階の自宅へ通した。

桜典は緊張を隠せないまま、丁寧にお茶を出す。


渉は両親からの頼みで近くのスーパーまで買い物に出かける。


桜典と両親の3人で穏やかな雑談が続くなかで、ふとした拍子に

桜典の足元の裾がずれ、かすかな痣のような跡が見えてしまう。

空気が、一瞬で変わる。


母が目を細め、父が言葉を探すように息を吸う。

「……桜典くん、その足……前にも手に……」

桜典は笑って「転んだだけです」と答えるが、嘘が苦手な桜典は声が震えていた。


母はお茶の湯気の向こうで、静かに首を振る。

「渉には悪いけどね……渉、怖くない?」


桜典はきっぱりと首を振る。

「渉は、そんな人じゃないです」

「でもっ」と母が口を開いた瞬間、

父が低い声で続ける。


「もし、彼が何かに追い詰められているなら、いったん距離を置くべきだ。渉を家に戻して落ち着かせたい」


桜典の顔が固まる。

「……それはやめてください」

その声はかすれていた。


「渉がいなくなったら、僕が壊れます」


父と母は一瞬言葉を失う。

けれど、そこには確かな真実があった。


両親は視線を交わし、やがて重い息をつく。


何か言いたげな沈黙が続く。

やがて母が桜典をまっすぐ見つめた。


「……桜典くん。ずっとあなたが彼を庇っているように見えるの」


 桜典は驚いたように目を瞬かせ、思わず笑ってごまかそうとしたが、声が裏返る。

「庇う?そんなっ違います」


 父が低い声で続ける。


「桜典くん、私たちは彼の親だ。小さい頃から、手を上げるような子じゃなかった。でも、昔少し荒れてた時期もあった、幼なじみでもある君なら覚えているだろ?……今は君と、恭弥くんのおかげで落ち着いたが、その頃の影が、まだ残ってる気がしてならない。」


 桜典は必死に首を振る。

「そんなことありませんっ渉は、もうあの頃の渉じゃないです」


 けれど、両親の表情は固く、信じていない目をしていた。

 母が泣きそうな声で続ける。


「もしあなたが怖い、辛いと思っていても、優しいあなたは言えないのかもしれない。だからね、何か起こる前に渉を一度連れて帰るわ。今の渉が安全か安全じゃないかは親である私達が決める」


「やめてくださいっ」

 桜典の声が震える。

 それでも母は立ち上がり、玄関の方を見た。


 そこへ、買い物袋を下げた渉が戻ってきた。

 息を弾ませながら、三人の視線を感じて、眉をひそめる。


「桜典に何を話した。」


 父が立ち上がる。

「渉。しばらく家に帰ってこい。桜典くんのことが心配なんだ」


 渉は言葉を失い、すぐに桜典の方へ視線を向けた。


 桜典は泣き出しそうに首を振っている。


「桜典が心配?どういうことだ、今までこんなことなかっただろうが。」


 渉の声は低く静かだった。

 だが、母はその言葉を図星と誤解した。


「お願い、渉。あなたが悪いって言ってるんじゃないの。ただ…今のままは危ういの」

「お母さんは何を言ってるんだ、何が心配なんだよ…」


 言葉の圧に耐えきれず、桜典が立ち上がる。

「違う!僕は渉と一緒にいたいんです!」


 母が肩を震わせ、父がため息をつく。

「わかってる。でも、少しだけだ、確認をさせてくれ。」


 そして。


 玄関での数分が永遠のように感じられた。

 渉は何度も桜典に手を伸ばしかけて、拳を握りしめる。


「必ず戻る」

 それだけを殘し、父の車に乗り込んだ。


 桜典はただ立ち盡くしたまま


 その背後で、家の中の時計が、静かに秒を刻んでいた。

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