第10話 99にして笑う練習と、図書室の“合図”
放課後の図書室。展示台に青いクロスをかけて、手書きポップを並べ終えたところで、茜が袖をつまんだ。100.0のまま、目だけまじめだ。
「——じゃ、“99にする10分”、始めよっか」
「やるの本当に」
「やる。落ちても笑えるの、練習しときたい」
雪村さんがカウンターから小さな砂時計を持ってきた。薄いピンクの砂が、細い首を通って落ちていく。
「これ、使う? ——図書室の“合図”。砂が落ちきるまでは“実験中”。終わったら“ふつうに戻る”。」
「いい。借ります」
砂時計を机に置く。茜は息を吸って、ルールを読み上げた。
「ルール:
1)嘘はつかない。
2)“家族・過去の傷”は使わない。
3)今日だけの、軽いやつで下げる。
4)言葉で名前をつける。——いくよ?」
「お手柔らかに」
「じゃ、−1、もらいます」
茜は、自分のスマホを取り出すと、俺の目の前で通知をオフにした。
そしてにっこり笑って——俺の言葉の途中を、そっと遮った。
「後で話そ。今は展示、優先して」
胸の中で、ちいさく“置いていかれた”が鳴る。
——100.0 → 99.0。
「落ちた」
「うん。『いま、“取り残し”を作りました』」
名前がついた瞬間、胸の重みが少し軽くなる。砂は静かに落ち続けている。
雪村さんは、カウンターの影で付箋アイコンを一つ増やしていた。∞(付箋+1)。
「次、−はここまで。戻す側、どうぞ」
「戻す側、了解」
俺は茜のスマホの側に、貸出タグをそっと置いた。
ラミネートに指が当たるひんやり。字は“返却期限:あめまで”。
「“ここにいるから、また話そう”。——合図は、これ」
茜の目が一瞬だけ緩む。99.0 → 99.5(キラ+1)。
「合図、受け取った」
さらに、俺は茜の髪留めを指さした。さっき体育で崩れたままだった。
「“日常の修繕”。——許可、いる?」
「いる。やって」
ゴムを取り替えて、結び直す。指先が梳くたび、99.5 → 99.7。
雪村さんが「修繕+2」とカードにメモして、展示台の端に差した。やることが図書室だ。
「最後、言葉で」
俺は、砂時計のくびれを見て、はっきり言った。
「“置いてかない。置いてく”」
静かに笑って、茜がうなずく。
99.7 → 100.0(キラ+1)。
「戻った」
「“戻す”じゃなくて“また”って感じした」
「うん。ありがと」
砂が、ちょうど落ちきった。図書室の空気が、実験前の“ふつう”に戻る。
——“合図”があると、戻り方まで覚えられる。そんな感覚。
「もう一回、私からいい?」
「どうぞ」
茜は砂時計を逆さにした。砂がまたさらさらと落ち始める。
「今度は、“嫉妬に名前をつける”からやる」
彼女は俺と雪村さんを交互に見て、小さく息を吐いた。
「『いま、“展示を一緒にやってる二人に嫉妬してます”』。−0。
——で、“私もここにいる合図”、つける」
彼女は共同の長傘を引き出して、柄に小さな黄色いリボンを結んだ。
「“見たら思い出す合図”。私の色、きいろ。勝手に」
「いいね、それ」
100.0(キラ+1)。∞のまわりにも小さなリボンが一つ灯った。∞(リボン+1)。
「じゃあ、わたしからも一個だけ。——−0.5の練習」
雪村さんが、少しだけ視線を落として言った。
「“春川くんのこと、今日は図書委員として先に返します”。——“彼氏ではなく、利用者として”」
言葉はやわらかいのに、胸のどこかがきゅっとなる。
数字は100.0 → 99.8。−0.2じゃなくて−0.2……じゃない、−0.2? 妙に細かい。図書室での−は、小数点が付くらしい。
「『きょう、“役割の優先”で少し寂しくなりました”』」
茜が横で即座に名前をつける。99.8(キラ+1)→ 100.0。
——小数は、名前で戻る速度が速い。
そのやりとりを見ながら、水無瀬がそっとドアの隙間から覗いて親指を立てた。「計測成功〜〜」と口パク。うるさい。
「……あのさ」
砂が半分ほど落ちたころ、俺は二人を見た。
「“99になる”って、思ってたより怖くなかった」
「合図があったからね」
「“また”って言える場所があるからだよ」
茜と雪村さんが、ほぼ同時に言った。
100.0(キラ+1)/∞(ハート+1・付箋+1)。
“今日のわたし”の印が、机の上の砂と同じリズムで増えていく。
砂時計が止まる。
茜が小さく手を叩いた。
「練習、合格。——じゃ、締めで“上げ”一個やらせて」
「どれ」
「“いってらっしゃい”。——展示、今日の残り、二人で終わらせてきて。
私は“ここ”で待ってる」
数字は動かない。100.0と∞のまま。
でも、二人とも、胸の中のどこかに**“しおり”が挟まった**感覚が残った。
——戻るページが、決まった。
展示を片付ける。閉館の音楽が小さく流れる。
外に出ると、空はまだ青いのに、スマホの天気アプリの雲アイコンの端に小さな雨粒がついた。
「……明日、雨っぽい」
「返却期限:あめまで」
雪村さんが、すこしだけいたずらっぽく笑う。∞の横に雫のアイコンが一つ灯った。
「——“返す日”、来るね」
「三人で返しに行く日、だね」
茜が言う。
透明の共同傘は、図書室の柱にそっと立てかけたまま。
俺たちは、同じ方向に並んで歩き出した。
数字の天井は抜けない。けど、天井の下に貼る合図は、増やせる。
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