第11話 雨の日の返却と、“ここに置いておく”という選択
翌日、本当に降った。
朝からしとしと。予報どおり、音を立てないタイプの雨だ。昇降口から見える校庭は、細かい水たまりでまだら模様になっている。
「……来たね、“返却期限”。」
茜が窓の外を見ながらつぶやいた。頭上には100.0。でも、周りに灯っていた“今日のわたし”のキラは、少しだけ小さく揺れている。
「放課後、行こ。図書室」
「うん。三人で、だろ」
ホームルームが終わるころ、教室のドアが静かに開いた。
「春川くん。茜さん。——放課後、図書室、開けておくね」
雪村さんだった。薄いグレーのカーディガン、胸の前で抱えた貸出ノート。
頭上にはいつもの∞。その周りに雫アイコンが二つ、もう灯っている。
「返却カウンター、準備しておくから」
「……了解」
クラス中がなんとなく空気を察して、あからさまな冷やかしはしてこなかった。代わりに水無瀬が小さくホワイトボードに書き足す。
【本日】
返却期限:雨まで → 雨の日
状態:“延長からの本返却”テスト
午後の授業は、黒板の字がいつもよりぼやけて見えた。チョークの白い粉を見ていると、貸出札の朱色のハンコの跡が頭に浮かぶ。「返却」の字。
……今日、押すのか、本当に。
放課後。
図書室の扉を開けると、いつもの紙とインクの匂いに、雨の冷たさが混じっていた。窓ガラスに、細かい粒が一定のリズムで当たっている。
「いらっしゃい」
カウンターの向こうで、雪村さんが待っていた。
制服の上に、雨の日だけの紺色のカーディガン。髪はいつもより高い位置で結んでいる。
頭上には∞。そのまわりに雫×3・小さな傘のアイコンが1つ。
「貸出札、持ってきた?」
「ああ」
ポケットから取り出した“かしだしがさ”の札は、ラミネート越しに少し曇っていた。角のところが、前にぎゅっと握ったときの跡で、わずかに白くなっている。
「はい、返却に来ました」
俺は両手で札を置いた。
茜も、その横に自分の黄色いリボンを結んだ付箋をそっと添える。
「“幼なじみとして同席”も、記録お願いします」
「します」
雪村さんは、貸出ノートを開き、万年筆を走らせる。細い字で、今日の日付と時間。それから——
返却理由:晴れた日が来たので/思い出したので/いっしょに来てくれたので
と書き込んだ。
「——じゃあ」
赤いスタンプ台が置かれる。
朱肉の匂いが、雨の匂いと混じる。
「返却、受理します」
ぽん、と“返却”の文字が押される。
音が、思ったより小さくて、思ったより胸に響いた。
その瞬間、∞の周りの雫アイコンが、ふっと光って、小さな虹のアイコンに変わった。∞(雫×0・虹×1)。
「……今ので、下がったりしないのか?」
「しないよ」
雪村さんは、スタンプを戻しながら静かに笑った。
「返すのは、傘と札だけ。気持ちは返却対象じゃありません」
ズルい。いや、知ってた。でも、本人の口から出されると破壊力が違う。
「じゃあ——」
カウンターの内側から、彼女は新しい白い札を取り出した。さっきのより、少しだけ大きい。
はるかわとおる
きょうどうがさ
かしだしきげん:きがかわるまで
子どもの字じゃなく、整った文字で書いてある。隅っこには、小さく∞の記号と100の数字が並んだ落書き。
「“延長”じゃなくて、**“共同資料登録”**に変える。
この傘はもう、わたしだけのじゃなくて、三人のだから」
「三人……?」
「うん。雨の日、誰かが折れたら、これを真ん中にして座る。
——**“好きが100でも、∞でも、いったん雨宿りは同じところで”**って決めたい」
茜が小さく息を呑んだ。100.0(キラ+1)。
「それ、いい。……ねえ透」
「ん」
「私、“返す”んじゃなくて、“置いていく”にしたい」
茜は傘の柄を指先でつついて、続ける。
「ここにさ、“私もここにいる”って証拠、残しときたい」
そう言って、黄色のリボンを丁寧に結び直した。
札の下には、雪村さんが小さく付け加える。
利用者メモ:
・おのおのの“好き”は個別管理
・ここは**“いっしょに雨宿りする権利”**の棚
図書室のどこかで、蛍光灯が小さくチカ、と瞬いた。
∞の周りの虹アイコンが、少しだけ大きくなった気がする。
「……じゃあ質問」
手を挙げたのは、いつのまにか図書室に侵入していた水無瀬だった。カートの影から顔だけ出している。頭上は68。
「ここに来れば、誰でも“共同傘イベント”に入れるの?」
「入れません」
即答。
「条件は、**“春川くんのことをちゃんと好きでいる人”と、“お互いの数字を見て逃げない人”**だけ。
——この二人は、もう条件クリアしてる」
∞の横で、太陽と雫と虹が全部並んだ。∞(太陽×1・雫×1・虹×1・ハート×…数えきれない)。
俺はそれを見て、なんかもう、数字にツッコミを入れる気力もなくなった。
「なあ」
「うん?」
「俺、さ」
言葉が喉につかえる。でも、このタイミングで言わなかったら、たぶん一生言い訳ばっかりする。
だから、ちゃんと向き合って言った。
「∞と100を、比べたくない。
——どっちも、俺がちゃんと返すべきものだから」
茜が目を瞬かせる。100.0(キラ+1)。
雪村さんが、少しだけ首をかしげる。∞(ハート+1)。
「比べない代わりに、“今日のわたし”をちゃんと見るから。
数字じゃなくて、キラとか、付箋とか、アイコンとか。
“貸出期限”じゃなくて、“いっしょにいた時間”で覚えたい。」
自分で言って、ちょっと恥ずかしくなる。
でも二人は、笑わなかった。
「……それ、けっこうズルいよ」
茜が言う。声は穏やか。
「“選ばない宣言”みたいで。——でも、今はそれでいいかなって思う自分もいる」
数字は動かない。100.0のまま。
キラだけが、静かに増えた。
「わたしも、ズルいこと言っていい?」
雪村さんが続ける。
「∞は、たぶんしばらく消えない。
でも、それを理由にあなたを縛りたくない。
——だから、“ここに置いておく”ね。
わたしの∞は、この図書室と、この傘のあたりに」
∞の記号のまわりで、虹アイコンが一つ、ゆっくり回転した。
——“ここに置いた”、って合図みたいに。
「置いておいたら、私、勝手に取りに来ちゃうけど」
茜が笑う。「それでもいい?」
「いいよ。図書室は“取りに来る場所”だから」
雪村さんも笑った。
三人分の笑い声が、紙と木と雨の音に混じる。
そのとき、窓の外の雨脚が少し弱くなった。
ガラスに打ちつける音が細くなって、雲の切れ間から、ほんの少しだけ明るさが差し込む。
「……あ」
茜が窓際に駆け寄る。俺もつられて見る。
校庭の向こう、体育館の屋根の端に、小さな薄い虹がかかっていた。
まだ輪郭は曖昧で、すぐに消えそうなやつ。
「貸出期限、“あめまで”。」
雪村さんが、カウンターからそれを見ながらつぶやく。
「——雨も虹も、何回でも来るから。
そのたびに、“また貸し出してください”って、言いに来ていい?」
「何回でも」
「じゃあ、また」
図書室の時計が、ちょうど五時を指した。
放送部の流す下校のメロディーが静かに流れる。
俺たちは、共同傘を一本だけ持って、濡れた廊下に出た。
「透」
「ん」
「今日は、相合傘ポイントじゃなくて、“三人で帰るポイント”なんだよね」
「そうだな」
「数字で出る?」
「出ないかもな」
「そっか」
茜が笑う。100.0(キラ+1)。
雪村さんも笑う。∞(虹+1・ハート+1)。
——この瞬間だけは、
好感度も、上限も、天井も、何も見えなくていいって思った。
雨は、まだ少しだけ降っていた。
けれど、俺たちの頭上には、透明な屋根がひとつ。
その真ん中に、小さな札が揺れている。
きょうどうがさ
かしだしきげん:きがかわるまで
返さなきゃいけないものはたくさんある。
でも、“ここに置いておく”って決めた気持ちは、少なくとも今日一日は、返却カウンターに並ばない。
そんなことを考えながら、三人で同じ歩幅で、校門まで歩いていった。
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