第6話 雨の貸出カードと、相合傘ボーナス

 昼休み、空が一段暗くなった。窓に最初の雨粒が当たる。


「キタ——“雨バフ”の日だ!」


 水無瀬が机を叩いて立ち上がる。黒板脇のホワイトボードには、すでに書き込みが増えていた。


【雨の日ポイント案】

・相合傘:+5〜+8(距離と角度で変動)

・ハンカチ貸与:+3(柔軟剤の匂いで+1加点の可能性)

・前髪なおしてあげる:+2(手の震えで±)

・横断歩道で手を取る:+4(車に気をつけてね)


「なんでこのクラス、自然現象までスコア化してるんだ」


「せっかく数字見えるんだから楽しまなきゃ損でしょ? ——茜、今日は“相合傘直行”で+7狙えるよ」


「了解。透、今日一緒に帰るから」


 茜の頭上は90。昨日の調理実習でだいぶ伸びた。本人も分かってるのか、目がギラギラしている。


「相合傘は“傘の持ち手を軽く掴む”で+1、“肩寄せ”で+1、最後の“ありがと”で+1、計+9まで理論上いけまーす」


「大学のゼミかここは」


 放課後。

 昇降口を出ると、雨は本降りになっていた。校門にかけて白い筋が走る。傘の花が開くたび、数字の花もふわふわ動くのが見える。


「よーし行くぞ。——透、入って」


 茜が差し出したのは、白い小さな折り畳み傘。ふたりで入るには少し心もとないサイズだ。俺が半歩分ずれると、茜がさっと肩を合わせてきた。


 90→92。


「入点確認、よしっ」


「実況すな」


「持ち手、触るね。はい——」


 92→93。

 たしかに上がる。雨は偉大だ。


 校門に向かって歩き出したところで、風紀委員が声を張り上げた。


「傘は前をよく見て歩くように!肩を寄せすぎると視界が——」


「視界が悪いってー!」


 茜が小声でぼやく。93→92。減点つらい。


「ほら、こう。もう少し高く持て」


「はい……。ね、透、雨の匂いするね」


「するな」


「小学生のときの匂い。——あの、ランドセル重かった日」


 さらっと過去を混ぜてくる。数字は92→93。思い出話はプラスらしい。

 そのまま校門を出ようとしたとき、前方で透明な長傘を差す影が立ち止まって手を振った。


「——春川くん」


 雪村さんだった。白いブラウスに薄いカーディガン、その上に透明のビニール傘。雨粒がドームを叩く音が近い。


 彼女の頭上は、いつも通り∞。

 でも、近づくほど、その記号のまわりに淡い水滴のアイコンが浮かんで、すぐ消える。——そんなふうに見えた。


「相合傘、上手だね」


「……練習の成果が出てる」


「がんばってます!」


 茜が胸を張ると、93→94。まっすぐなやつは伸び率がいい。


「えっと、これ」


 雪村さんは傘の柄にぶら下げていた札を取り外して、俺に差し出した。透明のラミネートに紙が挟んである、小さな貸出タグみたいなもの。


 そこには、太いクレヨンみたいな字で——


はるかわとおる

かしだしがさ

へんきゃくきげん:はれるまで


 と書いてあった。隅っこには、子どもの描いた∞みたいな、ぐるぐるの落書き。


「……これ」


「覚えてる?」


 濡れた空気が、急に図書室の紙の匂いを連れてくる。

 脳の奥で、何かが、ぽつん、と灯る。


 ——雨の降る、放課後。

 ——校庭の端でランドセルが泥で重くなって、歩けなくなった日。

 ——みんな先に帰って、傘がなくて、体育倉庫の軒先で座り込んだ。

 ——そこに、透明の傘が差し出された。


『返さなくていいから、今日はこれで帰って。返すのは——晴れた日でいいから』


 小さな手。

 その手が持つ貸出カードに、子どもっぽい字で「はれるまで」って書いてあった。

 濡れた世界の端っこで、俺はうなずいて——


 ——返さなかった。

 晴れた日が来ても、ずっと返さなかった。

 返しに行こうと思ったときには、学年が変わって、彼女が図書室にいなくて、“貸した子の名前も顔も”、ふわっと薄くなっていった。


 そうだ。忘れたのは俺だ。

 ずっと、返さなかったのは俺だ。


「ごめん」


 口から先に出たのは、それだった。


「俺、返しに行かなかった。……返しに、行けなかった。忘れたわけじゃないのに、薄くなって、気づいたら——」


「うん。知ってる」


 雪村さんは小さく笑った。


「だから、あのとき決めたんだよ。“晴れたらでいいよ”って。——忘れても、戻ってきたらでいいって」


 ∞の記号の横に、またあの小さな光るハートが一つだけ浮かんで、雨の粒みたいに弾けた。


 茜が、俺と札と雪村さんの顔を見比べて、息をのむ。


「……それが、“あの子だけ∞”のやつ」


「たぶん」


 雨の匂いが、もう少し近くなる。

 校門の上にかかる銀色の雲が、低く低くたれこめている。

 俺は貸出タグをそっと受け取った。ラミネートの端が指に冷たい。


「返却期限、今も“晴れたら”でいい?」


 雪村さんの声は、雨よりやさしい。


「うん。じゃあ——晴れた日に、返す」


「うん。待ってる」


 そのやりとりを、茜は黙って見ていた。

 やっと、ふう、と息を吐いて、傘の角度を直す。数字は94→95。

 たぶん“人の大事な話に割り込まない”っていう、見えない+1が入ったんだと思う。


「……透」


「ん?」


「帰ろ。雨、強いし。——今日は相合傘で“ありがとポイント”までちゃんと取り切る」


「仕事熱心だな」


「当たり前でしょ。∞がいるなら、私は“今日の最高100”を極めるから」


 言い切って、茜は傘を押し上げた。

 透明の傘越しの雪村さんが、ふっと目を細めて、手を振る。∞はやっぱり動かない。


 昇降口を離れ、校門へ。

 水たまりをよけるたび、傘の縁から細い雨筋が落ちる。

 肩と肩が、わずかに触れる。95→96。


「透」


「なに」


「晴れたら、いっしょに返しに行こ。——図書室」


「……ああ」


 たぶん、それが“返す”じゃなくて“帰る”って意味になる日が来る。

 そんな気がして、空はまだ暗いのに、胸のなかだけ少し明るかった。

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