第3部『光の底で』
気づいたら、校舎の廊下にいた。
放課後のはずなのに、窓の外は薄い朝焼けのような光に満ちている。
時間がゆっくりと巻き戻っているような、そんな気がした。
誰もいない廊下。
足音だけが響き、天井から白い埃がゆっくりと落ちる。
――まるで、夢の中を歩いているみたいだ。
ふと、前方に人影が見えた。
紬だった。
制服の裾が風に揺れて、髪が淡く光を吸い込んでいる。
その姿は、少しだけ透けて見えた。
「……紬?」
呼ぶと、彼女はゆっくりと振り返った。
まるで、遠い海の底から浮かび上がるように。
「やっと、来たね」
笑っている。
でも、その声は少し遅れて聞こえた。
音と口の動きが、ほんの少しずれている。
「どうしてここに……どこにいるの?」
問いかけると、紬は首を傾げて言った。
「ここは、あなたの記憶の中だよ」
⸻
空気が静止する。
まるで時間さえも止まったみたいに、すべてが凍りついた。
「私の……記憶?」
「うん。もう、あんまり残ってないけどね」
そう言って、紬は廊下の窓に手を触れた。
ガラス越しに見える風景は、どこかおかしい。
校庭の桜が逆さまに咲き、空が水のように揺れている。
「消えるの、怖かった?」
紬の声が、優しく響いた。
私は頷けなかった。
「怖かったよ。でも、それより――」
言葉が途中で詰まる。
胸の奥から何かが溶け出していくような感覚。
私は震える唇で、やっとの思いで言葉をこぼした。
「紬がいなくなる方が、怖い」
⸻
彼女は一瞬だけ、驚いたように目を見開いた。
けれどすぐに、柔らかく笑った。
「……ありがとう。ちゃんと、言ってくれたね」
廊下の光が滲む。
紬の輪郭が、ゆっくりと白に溶けていく。
「待って、まだ話したいことが――」
「もう、十分だよ」
風が吹いた。
音も、色も、記憶も、すべてがその風に溶けて流れていく。
紬の唇が、最後に何かを動かした。
でもその言葉は、音にならなかった。
ただ、光だけが私の頬を撫でていった。
⸻
気づくと、私は教室の机に突っ伏していた。
放課後の光が斜めに差し込んでいる。
窓の外で、風鈴がひとつ、短く鳴った。
机の上に、一枚のしおりが落ちている。
見覚えのある桜の模様。
――あの日、紬が貸してくれた本に挟んでいたもの。
指で触れると、淡い光が少しだけ揺れた。
そして、小さく文字が浮かび上がる。
「風が鳴る間は、私たち、消えないよね」
思わず、笑ってしまった。
涙がこぼれる。
けれど、その涙は温かかった。
⸻
放課後の廊下を歩く。
光が長く伸びて、影が私の隣にひとつ増えたような気がした。
その影が、ほんの少しだけ振り向いて笑った気がした。
私は、そっと口を開く。
「ねえ、紬。
――私の本音は、まだ、ここにあるよ」
風が、優しく頬を撫でた。
風鈴がまた鳴った。
そして、世界は静かに沈み、やがて光の底に消えていった。
私の本音はいつ消えたの… 雨森 透 @tetoy_iuc
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