第八話「癒えない傷痕」
リアム様の強すぎる独占欲に、俺は息苦しさを感じ始めていた。
彼は、俺が他の男性使用人と話しているだけで不機嫌なオーラをまき散らすようになった。屋敷の中庭で薬草の手入れをしていると、いつの間にか背後に立っていてじっと俺の作業を監視していることもある。
それは庇護とは違う。まるで鳥籠の鳥を、逃がさないように見張っているかのようだ。
俺は、彼の期待する『番』にはなれない。なりたくない。
俺には俺の人生がある。村で薬師として静かに暮らすという、ささやかな夢が。
その想いが、ある日ついに爆発してしまった。
きっかけは些細なことだった。
俺が故郷の村のトムに、手紙を書こうとしていた。元気でやっていること、心配しないでほしいことを伝えたかった。
その手紙を、リアム様に見られてしまったのだ。
「誰に宛てた手紙だ」
「……村の、友人です」
「そうか」
彼はそれだけを言うと俺の手から手紙をひったくり、暖炉の火の中へ無造作に放り込んだ。
「なっ……! 何をするんですか!」
手紙はあっという間に炎に包まれ、灰になっていく。
俺は、信じられない思いで彼を見上げた。
「故郷への未練は捨てろ。お前の居場所はここだ」
彼の冷たい言葉が、俺の心の最後の砦を粉々に打ち砕いた。
プツリと、何かが切れる音がした。
「……もう、たくさんだ」
俺は、震える声で言った。
「あなたの言いなりになるのは、もうごめんだ!」
俺は彼を突き飛ばすようにして部屋を飛び出した。後ろから彼が俺を呼ぶ声が聞こえたが、振り返らなかった。
行くあてなんてどこにもない。
でも、あの屋敷に、あの人のそばに、もう一瞬だっていたくなかった。
俺は夢中で帝都の街を走った。
雑踏に紛れ込み、裏路地を駆け抜け、ただひたすらにあの氷の城から遠ざかろうとした。
どれくらい走っただろう。
息が切れ、路地裏の壁に手をついてぜえぜえと肩で息をする。
冷静になると、自分がとんでもないことをしてしまったことに気づいた。無一文で知り合いもいないこの帝都で、俺はこれからどうやって生きていけばいいんだろう。
雨が、ぽつりぽつりと降り始めた。
冷たい雨が俺の体を濡らしていく。体温がどんどん奪われていく。
情けなくて、惨めで、涙がこぼれた。
『どうして、こうなっちゃったんだろう……』
村で一人で静かに暮らしていたかっただけなのに。
俺がΩじゃなかったら。
『白銀』なんて、特別な力を持っていなければ。
雨に打たれながら、俺は過去の記憶を思い出していた。
俺がΩであることを隠すようになった、あの日のことを。
俺がまだ、十歳にも満たない頃だった。
俺の故郷は今のフィデリアの村ではない。もっと帝都に近い、少し大きな街だった。俺の家はそこで薬屋を営んでいた。
ある日、街を治める領主が息子の嫁を探しているという噂が流れた。相手は希少なΩに限る、と。
その時、俺の両親の顔からさっと血の気が引いたのを覚えている。
そして悪い予感は当たった。
どこからか俺がΩであるという情報が、領主に伝わってしまったのだ。それもただのΩではない、『白銀』の資質を持つ特別なΩだと。
領主は大勢の兵士を連れて、俺の家にやってきた。
「この子を、息子の番(つがい)として差し出せ」と。
相手は、粗暴で有名なαの男だった。
両親は必死に抵抗した。
「この子はまだ子供だ」「どうか、お慈悲を」と地面に頭を擦り付けて懇願した。
だが領主は聞く耳を持たなかった。
抵抗する父は殴り倒され、泣き叫ぶ母は引き離された。
俺は兵士たちに腕を掴まれ、無理やり連れて行かれそうになった。
その時だ。
父が最後の力を振り絞って、隠し持っていた薬瓶を領主たちに投げつけた。中身は強い眠り薬だった。
兵士たちが混乱している隙に、父は俺の手を掴み叫んだ。
「カイリ、逃げろ! 母さんと一緒に、遠くへ!」
それが俺が父の顔を見た、最後だった。
母と二人で、俺たちは夜通し逃げ続けた。そして誰も俺たちのことを知らない、辺境のフィデリアの村にたどり着いたのだ。
父はどうなったか分からない。きっと、無事では済まなかっただろう。
母は村に着いてから心労がたたって、すぐに体を壊してしまった。そして俺に「あなたはβとして生きなさい。二度と誰にも本当のことを話してはいけないよ」と言い残して、父の元へ旅立っていった。
俺は俺のせいで、両親を失ったんだ。
俺がこんな力を持って生まれてきたせいで。
もう二度と誰にも支配されたくない。
誰かのための道具になんて、なりたくない。
「……ここに、いたか」
不意に頭上から声がした。
顔を上げると、傘を差したリアム様が俺を見下ろしていた。いつからそこにいたのだろう。雨に濡れた俺とは対照的に、彼は一滴も濡れていない。
俺はもう彼に抵抗する気力もなかった。
どうせまた力ずくで連れ戻されるのだろう。
「……好きにすればいい」
俺は諦めたように呟いた。
すると彼は黙って、俺の隣にしゃがみこんだ。そして持っていた傘を、俺の方へ傾ける。
「……すまなかった」
彼の口から再び、謝罪の言葉が紡がれた。
「君の気持ちを考えもしなかった。手紙を燃やしたことも、君を縛り付けようとしたことも……全て、俺が間違っていた」
彼の声は、ひどく後悔に満ちていた。
「俺は……ただ、お前を失うのが怖かったんだ」
雨音に混じって、彼の本音がぽつりとこぼれる。
「初めて、手に入れたいと思った。守りたいと思った。……どうすればいいのか、分からなかったんだ」
ずっと孤独に生きてきたのだろう。
愛し方を知らない。愛され方も知らない。だからただ自分の腕の中に閉じ込めることしか、できなかったのかもしれない。
俺の心の傷を、彼が知る由もない。
でも彼の不器用な愛情は、冷たい雨に凍えた俺の心を少しだけ温めてくれるような気がした。
俺は彼の差し伸べた手を、今度は拒まなかった。
屋敷へ帰る馬車の中、彼は俺の過去について何も聞かなかった。ただ濡れた俺の肩に、そっと自分のマントをかけてくれた。
その温かさが、今は少しだけ心地よかった。
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