第七話「初めて見せた独占欲」
バルコニーの冷たい空気が、火照った頬を冷ましてくれる。
リアム様はまだ俺の腕を掴んだままだった。その力が強すぎて、少し痛いくらいだ。
「……離してください」
俺が言うと、彼ははっとしたようにぱっと手を離した。彼の手が離れた腕に、じわりと熱が残る。
「……すまない」
彼が、謝った。あの傲岸不遜なリアム様が。俺は驚いて彼の顔を見上げた。彼はバツが悪そうに、俺から視線を逸らしている。
「あんな男に、簡単に気を許すな。貴族社会は、お前が思っているよりもずっと腹黒い人間ばかりだ」
「……マーカスさんは、優しい人に見えました」
「見せかけだ。奴らは欲しいもののためなら、どんな手でも使う」
彼の言葉は棘を含んでいた。それはマーカスさんに対してだけではなく、貴族社会そのものに向けられているように聞こえた。彼自身も、その一員であるはずなのに。
「……あなたも、ですか?」
俺は思わずそう問いかけていた。
あなたも欲しいものを手に入れるためなら、どんな手でも使う人間なんですか、と。俺を無理やりここに連れてきたように。
リアム様は俺の言葉に、ぐっと息を詰まらせた。そして自嘲するようにふっと笑った。
「……ああ、そうだな。俺も同類だ」
彼の横顔が月の光に照らされて、ひどく寂しそうに見えた。この人もただ冷徹なだけじゃない。何か複雑なものを抱えて生きているのかもしれない。
「だが、俺は決してお前を傷つけたりはしない。……それだけは信じてくれ」
真摯な声だった。その言葉が、すとんと胸に落ちてくる。
俺は何も言えなかった。ただ彼の青い瞳を見つめ返す。そこにはさっきまでの激しい怒りの炎ではなく、静かで深い湖のような色が広がっていた。
その時、バルコニーの入り口が騒がしくなった。リアム様を捜していたのだろう、副長がこちらへやってくる。
「総長、こちらにおられましたか。皇帝陛下がお呼びです」
「……分かった」
リアム様は一度だけ俺の方を見ると、踵を返して広間へと戻っていった。
一人残されたバルコニーで、俺はしばらく夜空を見上げていた。心臓がまだどきどきと音を立てている。
彼の、初めて見せた独占欲。
それは俺を支配するためのものなのか。それとも……。
『分からない……』
彼のことが分からなかった。冷たいと思っていたら不器用に優しさを見せる。無関心だと思っていたら激しい嫉妬を露わにする。俺は、彼の手のひらの上で転がされているだけなのかもしれない。
屋敷に帰る馬車の中、俺たちは一言も口をきかなかった。
けれど夜会の時とは違う、奇妙な沈黙だった。気まずいけれど、どこかお互いを意識しているような、そんな空気。
彼の隣に座っているだけで、さっき腕を掴まれた場所がまた熱くなるような気がした。
屋敷に着き自室に戻ると、どっと疲れが押し寄せてきた。慣れない服を脱ぎ捨て、いつもの麻のシャツに着替えると心底ほっとする。
ベッドに倒れ込むと、すぐに眠気が襲ってきた。
でも目を閉じると、リアム様のあの青い瞳がちらついてなかなか寝付けなかった。
『あんなふうに、他の奴にお前が触られるのは我慢ならん』
あの時の低く掠れた声が、耳の奥で何度も繰り返される。
そのたびに胸の奥が、きゅっと締め付けられるように痛んだ。
これは一体、何なのだろう。
彼に支配されることへの恐怖? それとも……。
俺は自分の気持ちに気づかないふりをして、無理やり目を閉じた。
翌日、俺はリアム様と顔を合わせるのが少し気まずかった。
朝食の準備をしながらも、昨夜のことが頭から離れない。
ダイニングルームへ行くと、彼はもう席についていた。俺が料理を並べても、報告書から顔を上げようとしない。昨夜のことはもう忘れてしまったのだろうか。
少しだけがっかりしている自分がいることに気づいて、俺は内心慌てた。
何を期待しているんだ、俺は。
食事が終わり、俺が食器を片付けようとした時だった。
「カイリ」
不意に、彼に名前を呼ばれた。
「……はい」
「昨夜、君が話していたマーカス・ランバートだが」
「……え?」
「今日の午後、辺境の領地へ長期視察に出発したそうだ」
彼の口調は、事務的な報告をするように淡々としていた。
だが俺は、その言葉の意味を理解して背筋が凍るのを感じた。
「……あなたが、何かしたんですか?」
「さあな。ただ皇帝陛下に、彼の領地の治安について少し懸念があると進言しただけだ」
彼は、悪びれもせずにそう言った。
恐ろしい人だ。彼は自分の意にそぐわない人間を、こうやって簡単に排除できる力を持っている。マーカスさんに、申し訳ないことをしてしまった。
「……ひどい」
俺は思わずそう呟いていた。
「俺のためだなんて言わないでください。これはただの、あなたの自己満足だ」
俺が睨みつけると、彼は初めて報告書から顔を上げた。その青い瞳が、まっすぐに俺を射抜く。
「そうだ。自己満足だ」
彼は、あっさりとそれを認めた。
「お前が他のαと親しげに話しているのを見るのも、お前に触れようとする奴がいるのも、虫唾が走る。……お前は、俺のものだ。誰にも渡さない」
彼の瞳は夜会の時と同じ、激しい独占欲の炎に燃えていた。
その炎に焼かれてしまいそうで、俺は一歩後ずさる。
でも、怖いはずなのに。
心のどこかで、歓喜している自分がいた。
この人に、こんなにも強く求められている。その事実がたまらなく、俺の心を揺さぶるのだ。
俺は、この氷の騎士に囚われてしまっているのかもしれない。
抜け出すことのできない、甘く冷たい檻の中に。
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