第九話「忍び寄る黒い影」
屋敷に戻ってから、俺とリアム様の関係は少しだけ変わった。
彼は以前のように俺を過度に監視したり、行動を制限したりしなくなった。俺が誰と話をしようと黙って見守っている。それは俺を信頼しようとしてくれている、彼なりの努力なのだと分かった。
俺もまた、彼の前で少しだけ素直になれたような気がする。
あの日、雨の中で見せた彼の弱さが、俺の中の頑なな心を少し溶かしてくれたのかもしれない。
だが、穏やかな日々は長くは続かない。
俺たちが気づかないうちに帝都の闇の中で、悪意に満ちた陰謀が静かに動き出していた。
きっかけはリアム様の政敵である、マルコム侯爵が主催した茶会だった。
マルコム侯爵は騎士団の予算を巡って、かねてからリアム様と対立している人物だ。野心家で狡猾な男だと聞いている。
その茶会に、リアム様は俺を伴って出席した。以前の夜会とは違い貴族の奥方や令嬢たちが集まる、比較的和やかな会だった。
「これは、アークライト公爵様。ようこそおいでくださいました」
狐のような細い目をしたマルコム侯爵が、にこやかに俺たちを迎えた。
「隣にいらっしゃるのが噂の薬師殿ですかな? カイリ殿、お噂はかねがね」
彼は俺に向かって、値踏みするような視線を向けた。そのねっとりとした視線に、俺は思わず身を固くする。
リアム様が俺を庇うように一歩前に出た。
「侯爵。私の客人に、何か用かな」
「いやいや、滅相もございません。ただこれほど若い方が、あのリアム総長のお眼鏡にかなうとは、一体どれほどの腕前なのかと興味を持ったまでです」
マルコム侯爵は嫌味な笑みを浮かべている。
この男は何かを嗅ぎつけている。俺がただのβではないということを。本能がそう告げていた。
茶会の間、俺はマルコム侯爵の視線をずっと背中に感じていた。
不安で落ち着かなかった。
数日後、屋敷に一人の使いがやってきた。マルコム侯爵からの、俺個人への招待状だった。
「私の妻が体調を崩しておりまして。ぜひ、高名なカイリ殿に診ていただきたい」
そう書かれていた。
「罠だ。行ってはならん」
リアム様は招待状を一瞥するなり、そう言い捨てた。
「しかし、奥様がご病気なのでは……」
「侯爵夫人は持病一つない健康なご婦人だ。これはお前を屋敷から誘い出すための、見え透いた口実に過ぎん」
やはり、そうか。
俺はほっとすると同時に、リアム様の言葉に少し驚いた。彼は敵対する貴族の家族構成まで、完璧に把握しているらしい。
「俺が断りの返事を出しておく。お前は決して屋敷から出てはならん。いいな?」
「……はい」
彼の強い口調に、俺は素直に頷いた。
今回は彼の言う通りにするのが賢明だろう。
しかしマルコム侯爵は諦めなかった。
その翌日、今度は俺の故郷フィデリアの村の村長が、屋敷を訪ねてきたのだ。
「カイリ君! 久しぶりじゃな!」
応接室で再会した村長は俺の姿を見て、嬉しそうに顔を綻ばせた。俺も懐かしい顔に、思わず笑みがこぼれる。
「村長さん! どうして帝都に?」
「いやあ、実はな。マルコム侯爵様が村の特産品をたいそう気に入ってくださってな。取引のために帝都まで招いてくださったんじゃよ」
村長の話を聞いて、俺の背筋を冷たい汗が流れた。
マルコム侯爵。またあの男の名前だ。
「それでな、カイリ君。侯爵様から君への伝言を預かっておる。『もし村の者たちに会いたければ、明日の昼、中央広場の噴水まで一人で来られたし』とな」
これは、脅迫だ。
俺が来なければ村長や、村に何か危害が及ぶかもしれない。あの男ならやりかねない。
俺は顔が青ざめていくのを感じた。
リアム様に相談すべきだろうか。いや、だめだ。彼に言えばきっと「行くな」と言われるだけだ。そうなれば村長たちがどうなるか分からない。
俺が行くしかない。
その夜、俺は眠れなかった。
どうすればいいのか答えが出ないまま、時間だけが過ぎていく。
もし俺がマルコム侯爵の元へ行けば、俺の秘密が暴かれ利用されることになるだろう。
でも行かなければ、罪のない村の人たちが危険に晒される。
『俺が、我慢すればいいんだ……』
結局、俺が出した答えはそれだった。
俺一人が犠牲になれば全て丸く収まる。リアム様にも迷惑をかけずに済む。
翌日の昼前、俺は屋敷の者に「少し街へ買い物に」と嘘をつき、こっそりと屋敷を抜け出した。
リアム様は騎士団の会議で、夕方まで戻らないはずだ。
中央広場へ向かう足取りは鉛のように重かった。
これから自分の身に何が起こるのか、想像もつかない。怖い。逃げ出してしまいたい。
でも、俺は足を止めなかった。
これは俺が自分で決めたことだ。
広場に着くと、噴水のそばに見慣れた馬車が停まっていた。マルコム侯爵の紋章が描かれている。
俺が近づくと、御者が扉を開けた。
「カイリ殿ですね。侯爵様がお待ちです。さあ、中へ」
俺は覚悟を決めて、馬車に乗り込んだ。
扉が閉められ、がちゃんと鍵が掛かる音がした。馬車がゆっくりと動き出す。
窓の外の景色がどんどん流れていく。
もうあの氷の城へは、戻れないかもしれない。
リアム様の、あの凍てつくような青い瞳を思い出す。
怒るだろうか。それとも呆れて、俺のことなど忘れてしまうだろうか。
どちらにしても、もうどうでもよかった。
俺は静かに目を閉じた。これから始まる、暗闇の運命を受け入れるために。
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