第8.1章 路地裏のひかり
買い物袋を手に、ギンとキラは星空町のメイン通りを歩いていた。
行き交う人々の声、焼きたてのパンの香り、遠くで響く列車の音――
どれも日常のはずなのに、今日はなぜか胸に引っかかった。
プリシラから頼まれたのは、ただの「茶葉と野菜」。
それなのに、どこかに“呼ばれている”ような気配があった。
「……変だな」
ギンがぽつりと漏らす。
「また“胸のコンパス”か?」
キラが笑いながら肩をすくめた。
「慣れたけどさ」
その時――
遠くの線路から本物の鐘が響いた。
ゴォン…… ゴォン……
ギンの足が止まる。
胸の奥が、ひとつだけ方向を指した。
「……あっちだ」
◆ 細道の先
人混みから離れ、小さな横道へ足を踏み入れる。
ビルの隙間を、冬の光が細く照らしていた。
通りの奥に、場違いなほど古い赤い鳥居が立っていた。
朱色はほとんど剥げ、木目がむき出し。それでも、どこか温かい。
額木には、筆文字でこう書かれていた。
「光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:5)
キラが思わず眉をひそめる。
「鳥居に……聖書? ここ、どういう場所だよ」
ギンは答えず、鳥居をくぐった。
体が勝手に進む――そんな感覚だった。
◆ 『Light of the World Chapel』
奥に、小さな木造の建物があった。
看板には、筆文字でこう記されている。
「世の光チャペル」
引き戸が少しだけ開き、隙間から柔らかな光が漏れていた。
「……入る?」
キラが小声で言う。
「ちょっとだけ」
ギンは深呼吸して、そっと戸を開けた。
◆ 静寂の中の声
中は静かだった。
ひんやりした空気。
古い木の椅子が並び、前方には飾り気のない十字架。
数人の町人が座っていた。
祈っている者、目を閉じている者、ただ静かに座っている者。
前には、年配の男が聖書を膝に置き、穏やかな声で読み上げていた。
「疲れた者、重荷を負う者は、わたしのところに来なさい。」(マタイ11:28)
ギンの心臓が跳ねた。
理由は分からない。
でも――その言葉は、自分のために読まれた気がした。
老人は続ける。
「わたしは、あなたがたを休ませてあげる。」
胸の奥に刺さるでもなく、
ただ静かに“沁みて”いくような声だった。
講壇の横には、もう一つの言葉が書かれていた。
「自分の悟りに頼るな。」(箴言3:5)
キラが囁く。
「……ギン、お前、聖書詳しいのか?」
ギンは首を振る。
「分かんない。でも……“前にも聞いた気がする”んだ」
胸が、懐かしさで満ちていく。
理由のない懐かしさ――方向だけは、はっきりしている。
◆ 外に出ると
鳥居の下に戻ると、光はさっきより柔らかかった。
風も、音も、通りの空気すら――落ち着いていた。
「……安心するね」
ギンが呟く。
キラは肩をすくめる。
「まあ……悪くない場所だな」
その時、すぐ横のベンチで本を読んでいる影があった。
ミドリだった。
「見つけちゃった?」
ミドリは文庫本を閉じ、にこりと微笑んだ。
「ミドリ、ここ知ってたの?」
キラが訊く。
「うん。ときどき来るの。落ち着くから。……電波も悪いし」
ミドリは小さく笑った。
ギンは、さっき読まれた聖句を思い出しながら尋ねた。
「……ミドリは、信じてるの?」
ミドリは鳥居とチャペルを一度見て、
静かに答えた。
「“誰かが聞いてる気がする”ってことは……あるよ。
星空町は、ずっと“見守られてきた”気配がするし。」
それは無理に語られた信仰ではなく、
噓のつけない心が自然に持つ感覚のようだった。
「全部を今日わかる必要はないよ、ギン」
ミドリは優しく言った。
「歩いていれば、いつか“わかる日”が来るから」
◆ 帰り道
「さて、茶葉買わないと」
キラが伸びをした。
「プリシラに殺される」
ミドリがくすりと笑う。
「それは困るから、急ごう」
三人で鳥居を離れようとした時だった。
ギンはもう一度だけ振り返った。
鳥居。
十字架。
「光」の文字。
静かに見守る小さな建物。
すべてが、胸のどこか深い場所に刻まれていく。
それは“答え”ではなかったが――
確かに、“道しるべ”だった。
――第8.1章 了
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