第3話
矢上は豆を挽いているときが一番穏やかな心持ちになれた。
コーヒーミルの刃が回る低い音と豆が砕ける
今日の客足もまばらだった。とはいえ決まった時間にやってくる常連客以外で訪れる人間はいなかった。
午前は十時の開店すぐに飲み屋街のバーの店主が散歩帰りに立ち寄り、昼前に近所の老夫婦が連れ立って昼食を食べにやってきた。午後は不登校の中学生が父親のコーヒーを買うために久しぶりに顔を出したので、おまけとしてサンドイッチを持たせてやった。
それから、いつも猫を散歩させるついでに立ち寄っていく主婦二人が
夕方以降は会社帰りのサラリーマンがひとり、ふたりと立ち寄って決まり切ったメニューを食べていく。あとは出勤途中の夜職の女性が軽食を食べていくので、サービスで
目の前の通りは
まったく静かな店内を見て、改めて考えれば心春が商売っ気を見せろと言うのも無理な
粉末になるまで細かく
最後の戦場を後にした矢上は一年弱をかけてコーカサスから中央アジアを横断し、かつて面識を得たモンゴル人の輸入品業者を頼って日本へ帰ってきた。十七歳で出国してから帰ることがなかった日本は、矢上のまったく知らない雰囲気の国になっていた。
しかし想像していたよりも帰りついたという
帰国前に身なりは
働かなくても金はあった。ただ日常に自分自身の使い道がないことに
やがて普通の生活の感覚が戻ってきた頃、街を歩いていてコーヒーの匂いに誘われた。
それがコーヒーの師との出会いだった。矢上はその店で飲んだ、たった一杯のコーヒーに感激し──それは話せば長くなるが──そのままの勢いで弟子入りを
頭を下げる矢上にさすがの店主も驚きと
あの日のコーヒーの味を矢上は
それまでコーヒーは冷え込む夜に身体を温めるために飲むものだった。香辛料を入れるのもその頃の癖で、
コーヒーの淹れ方どころか接客もままならない矢上は一から何もかも教えられながらそこで三年修行して、以来何年も豆を挽きコーヒーを淹れる日々を続けているが、いまだに自分が感動したあの味へ近づいた気がしない。
お前は何をするにも
豆の扱い方や
戦場を離れて以来、ある記憶が頭を離れたことはない。
独立して店を開きたいと明かしたときも静かな場所で静かな店を開くことを勧められた。言われたことはふたつ。逃げたいなら落ち着ける場所を探すこと、そして気が済むまでコーヒーを淹れ続けろ。最後に「淹れる人間の心持ちで味が変わるというのはオカルトだがな」と師は笑っていた。
コーヒーをカップへ注ぐと、なお一層香辛料の混じった香りが矢上の嗅覚を刺激した。
香りが引き出した記憶によってコーカサスの山地を思い出すと、ここにいる自分は偽物で、いまもあの場所に本物が取り残されているような感覚に
炎の向こう側で笑う男がハンガリーの古い英雄譚を語り、同じポットから注いだコーヒーを
コーヒーを一口含むと、熱さが舌を焼いた。鼻に抜ける香気とともに喉を通る熱が落ちていく。苦みは十分だったが、豆や水のせいなのか、戦場の夜の味とは似ても似つかなかった。この淹れ方をするたび、その味が再現できないことに矢上はむしろ
深く息を吸うとスマホで心春とのトーク画面を開く。
心春からは今日のサークルの取材が成功した連絡が来ていた。添えられた写真には盛り付けられたカレーを前に友人と一緒に写る心春がピースサインをしている。
気の利いた返事のひとつでもしてやればいいのだろうが、いざ考えると良い言葉が浮かばなかった。改めて娘のような年齢差の心春のことを考えて、矢上は自分が戦場で費やしてきた時間について思いを巡らせた。
自分は
過去と距離を保つために静けさを求めた。日常に徹して努めて自分を抑え込もうとするほど、逆に切り離せない本性が浮き彫りになる。新しい生活のために始めたコーヒーの匂いが、時に強く記憶を呼び起こした。
ここは日本だ。いつもの日、いつもの夜だ。横たわる静けさに耳を傾ける。
遠くで銃声は聞こえない。
再びコーヒーに手を伸ばしたとき、カウンターの上でもう一台のスマホがバイブレーションした。着信する見慣れない番号に視線を注いだ矢上は、迷わず通話を繋いだ。いつも番号が違っても、掛けてくる相手はわかっていた。
「この時間じゃもう客も来ないだろう。
聞き慣れた声が、電話の向こうで挑発的に言った。
「六時半以降は一人の客も来てないじゃないか。バイトの子がいてもいなくても、多忙ってこともないだろう?」
たまにはあんたのコーヒーを飲んでみたいものだがねと続け、電話口の向こうの男は笑う。まるで店の様子を直接見ているかのような言い草だった。矢上は相手の話を聞きながら店の表に目を
「霞が関までデリバリーというわけにはいきませんから、店までおいでいただければ歓迎はしますよ、
と矢上は
仁木というのは現在の矢上の身元保証人で依頼主、悪く言えば首元を押さえられている政府の監視者だった。
十七歳の頃から十年以上海外の戦場を渡り歩いた。傭兵として多少は名が通るほど、身の上に危難は降りかかった。戦場を離れて日本へ帰る間も悪縁が矢上の背中を追い続けていた。
いまはただの中年の喫茶店主でしかないが、国内にも矢上の特異な経歴を危険視する人間がいないはずがなかった。
直接の面識は最初の一度だけだったが、よく頭の回りそうな官僚然とした人間とは多少違うように見えた。
当時喫茶店を開くための物件を探していた矢上は、いくつかの仲介業者を通して神居市内の店舗を見繕っていた。しばらくして見つけたカフェの居抜き物件は表通りから少し奥まっていたものの、矢上が考える店の大きさとしては十分だった。
そしてある営業担当者の紹介で不動産業者との面談の場を用意してもらったところ、出向いた場に現れたのが仁木だった。彼は出し抜けに「
資料には矢上が顔を覚えるより前にこの世から去った両親、育った孤児院での生活記録、中退した高校までの成績といった出国以前の情報から、追える限りの海外での戦歴と受け取った
帰国以来の動向も──もちろん三年の修行の期間も含めて──神居市に流れ着くまでの間に矢上がどう行動していたか、ともすれば自分が覚えていないことまで
そして直近一週間は写真付きの監視記録が添えられ、矢上の買おうとしていたカフェの土地と建物に対して仲介業者がいかに相場以上の高値をふっかけているかのコメントがメモされていた。
仁木と名乗った男は非公式に特殊な問題を解決できる人材を探していると告げた。
彼の言葉に矢上はすぐ意図するところを悟り、用意された状況から自分に選択の余地がないことを理解した。およそ政府職員のリクルートには聞こえなかったし、実際そうではなかった。
──対価はなんです?
──国内での身辺一切に対する保障だ。
それだけのやり取りで矢上と仁木の関係は成立した。
ではこちらが一方的に関係を
矢上はそれ以上言葉を継がなかった。
ほどなく仲介業者に謎の立ち入り調査が入ったことでいささか待ちはしたものの、矢上の望む物件は幸運なことに相場以下の安値で手に入った。
この数年の間にいくつも依頼を受け問題に対処した。そしてそれが大きなニュースとして
仁木にどれだけの力があるのかは知らない。ただ、矢上が非公式な問題解決に協力的でいる限りは矢上の生活は
「何か動きが?」
仁木から直接連絡をつけてくることは少ない。しばらく前から長期の依頼をされている、とある案件に出番がまわってきたと矢上は察した。
「春日井桜子を誘拐したという連絡が入った」
端的にそれだけ言い、仁木はため息をついたようだった。
神居は
二年前に春日井の
桜子の身の安全の度合いではどちらが良いか評価し難いが、まったく偶然にも神居には矢上がいた。これを幸いに仁木は春日井桜子関連の事態には優先的な対処を要請してきていた。
「身内に直接?」
「三十分ほど前だ。官房長官と直接交渉することを要求してきたが、事実確認も必要でね」
相手は”ブラック・フラッグ”だと仁木は続けた。以前に共有された資料に新興のテロ組織として名称が乗っていた。一昨年の東欧の日本大使館爆破事件にも関わっているという、強硬な手段を多用する集団らしい。
「実態が掴めていない組織だ。構成員に日本人もいるらしいが、こうも
「政権へのダメージが目的ですか」
「海外に逃れている過激派が援助して革命の夢をもう一度、と考えているらしい話もある。もし営利誘拐なら相当にふざけた連中か、よほど挑発的かだ」
誘拐された桜子の救出がおそらく今回の任務になるのだろう。すぐに片がつく問題には思えなかったが、そもそも神居から行先を追跡するとなると数日でも済まない可能性があった。個人で
「ただ本当に誘拐が事実なら、と留保がつく」
想定し得る事態に取るべき手段を考え始めていた矢上の思考に仁木の声が割り込んでくる。
誘拐が事実ならとは? 相変わらず持って回った言い方をする男だ。
「当の春日井桜子は同級生の男のマンションにいることをさっき確認したよ。では奴らの元にいる”春日井桜子”は誰なのか、だ」
「向こうの主張自体が
「そんなに簡単にバレやすい話で政府や閣僚を
直感的に矢上の
「コート」
「何?」
矢上は別のスマホでSNSの投稿をチェックした。大学内での春日井桜子の目撃情報、無断で上げられた写真。盗撮と言っていい春日井桜子の写真は日々のコーディネートから人物の判別情報として機能していた。
とある写真が目に留まる。
今日は明るいピンクのコートに派手なブランドバッグがひときわ目を引いていた。足下を拡大すると見覚えのあるライトグレーのパンプス、ほとんど同時刻と思われる他の投稿では、顔は見えないものの髪はひとつに結んで色はピンクブラウン、耳元に見える同系色の植物モチーフのイヤリングは──
「
「そうだ。さすがの勘か? 春日井桜子からその名前が出てきたときは、あんたにどう話すか考えたよ。悪いとは思ってるが今回の面倒な事態は」
「猶予は?」
矢上は仁木の言葉を
「ああ、協議中で押し通せて一時間程度が限界というところだろう。もしも向こうが“品物の取り違え”に気づいたら、もう少し動きは早いかもしれないが」
都合よくテロリストの温情に期待するべきものは何もない。いまは移動しているのか神居に留まっているのか不明だが、手元にいるのが官房長官の娘ではない単なる女子大生だと気づいたら心春の身柄はただの不要な荷物になるだろう。
仁木の考えていることも同様だというのは問わなくてもわかる。
「通常の誘拐事件として警察に任せることもできる。ただ、その場合はおそらく十分な時間も
今回はただその対象として矢上の知り合いが巻き込まれているだけにすぎない。
空いた手で無意識に前髪に隠れた
「政府はテロリストとは交渉しない、ですね?」
「……そういうことだ」
ただ待っていれば心春の無事を諦めるということになる。あの快活な心春の表情や喋り方がこの店から失われることを想像すると、矢上にとっても喪失感は必要以上に大きな気がした。掛け時計に目を遣ると夜九時を五分過ぎていた。
「これはどういう貸し借りになるんです?」
仁木に心情を悟られないように矢上は落ち着き払った口調で聞く。あくまでこれはいつもの依頼と同じものとして頭に入れておきたい気持ちがあった。取るべき手段は何か考えながら、通話をスピーカーにし、別の相手にチャットを送る。
「何もない。今夜何が起きても明日はいつもと変わらない一日だ。警察官僚が多少は頭を悩ませるくらいのものでね。相手はテロリストだ、情報は欲しいが向こうも簡単に捕まりはしないだろう。どういう事態になっても仕方ない」
最後の言葉には含みがあった。矢上の人間的な反応を慮ってのことだろう。暗に生死を問わずということを言いたいようだった。
矢上の中で「仕事を果たしたければためらいを殺せ」と、昔言われた言葉が甦った。慈悲とは自らに隙を与えるまやかしだとも。
しかし矢上は落ち着いて返事をした。ルールは崩さない。いまの自分は戦場にいた頃と違う。
「最初に条件をつけたでしょう。俺は殺しはやらない」
「あんたとの協力関係が壊れないことを願ってるよ」
通話を切ると矢上は静かに長く息を吐いた。通話中に送ったチャットを見返すと、 『春日井桜子から北山心春宛荷物の集荷に誤りあり。品目は衣類、ピンクのコート。神居大学方面から積荷の行先不明。集荷の確認と宛先の照会。最終配送受付まで二十分』
というこちらの指定に、すでに『十分以内』という
これまでの依頼をこなす中で矢上にも非公式な手段で情報を得るツテがいくつか出来ていた。その中には仁木とも対立しかねない立場の人間と推測できる相手もいたが、手段を選ばずという点では
わざわざこういう芝居じみたやりとりをする必要はないのだが、向こうの好みでいつも付き合わざるを得なかった。あくまでやり取りするのは必要な情報だけであり、相手がどういう手段を使っているかはリスク管理のために深く知ることはない。
しかし腕は確かであり、仕事が早いのは助かる。指定の十分を待たずに返答があった。
『集荷地点、
動画ファイルが二つと画像が三つ添付されていた。
動画のひとつは大学の駐車場と思われる場所のカメラ映像で、通り抜けていくピンクコートの女性が映っていた。これは心春と推測できた。
もうひとつは返事の中にあった住所近辺のコンビニの監視カメラ映像らしかった。映像の片隅を引き伸ばしたものらしく、先ほどと同じ服装の女性が画面の端を画面奥の暗がりへ向かって歩いていき、ほどなく車両が左方向からコンビニの前を通って同じく奥へ曲がっていった。
その灰色の商用車が通りの先で急停車し、人が中に乗せられたように思える動きが見えた。
おそらくこれが心春の
残りの画像は
神居港までは飛ばせば十五分程度か、と算段していると不意に店の入口のベルが鳴った。少し驚いた矢上の視線を受けたのは常連の女性だった。
「あれ? 心春ちゃん今日は休み?」
客のいない店内を見回して矢上の方を見る。
「ああ、野上さん申し訳ありません、いま閉めるところだったんです」
「え~? 出張から帰ったからせっかくマスターのトルコ料理食べようと思ったのになあ」
表情を崩して柔らかい口調で答えると、矢上は入口の前へ行って申し訳なさそうな顔で相手の入店を押し
「どうしても今日中に大事な荷物を受け取りに行かないといけなくて」
普段通りの
「CLOSED」の掲示を出して鍵を閉める。表に面した窓のカーテンをすべて引き終えるとカウンターに戻って再びスマホを手にした。
『神居港内施設にて四日前より改装工事。同ナンバー車の出入り確認。港湾事務所への申請は伊沢興業。作業人数は八ないし九人。各種書類は偽造、企業実態なし』
定型の感謝と規定の報酬の置き場所を返答すると、矢上はエプロンを外した。壁掛けの鏡に写った自分と目が合う。眼鏡の奥の瞳はいつになく鋭い目をしていた。
耳元で、矢上をかつての名で呼ぶ懐かしい外国語の響きが聞こえた気がした。
お前は”狼”だ、狩りを始めるか?
コーヒーはもう、冷えていた。
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