第2話

 やっぱり頼みなんて聞かないほうがよかった。そう心春こはるは後悔した。


「あー、めんどくさ」


 と独り言をこぼしながら文学部棟裏の自転車置き場へ向かっていた。

 もう日は落ちて七時半を過ぎたので構内で学生と行き違うことはほとんどない。


 できればもう誰ともいたくない。内心で願いつつ自転車置き場へ差し掛かると、ちょうど帰ろうとしていた男子学生二人と鉢合わせしてしまった。

 背の高い方の男子と目が合う。向こうがこちらに気づき、「あ、」と声をあげた。しかし思わず出た声にバツが悪かったのか彼はすぐ顔を背けてしまう。


 心春は何か言われる前に「違います」と返したい気持ちを飲み込み、そのまま二人の横を足早あしばやに通り過ぎた。


「いまの春日井桜子かすがいさくらこ?」

「まじ? もうちょっとちゃんと見とけばよかった」


 後ろから話し声が聞こえた。先程から何度目かの「春日井桜子?」の声に心春はまたうんざりし、今の状況にため息をついた。

 自転車置き場を抜ける。出口をすぐ右に曲がるとそのまま図書館の裏手へまわった。そのまま記念講堂と背中合わせにはさまれている細い通路に入ると、誰も来ないことを確認し息をつく。


「そんなに似てる?」


 今の服装を改めて見まわして自問する。

 普段心春が身につけることのないピンク系のノーカラーコートとブランドバッグの取り合わせが、中身の服装とまったく合っていないのは確かだった。しかしこんな格好だけで桜子と見間違えられるものだろうか? そこだけは心春にとって疑問しかなかった。

 途端に他人の目のいい加減さに頭を抱えたくなる。

 注目を集める春日井桜子が気の毒に見えたとはいえ、ある頼みを簡単に引き受けた自分の人の良さが少しだけ嫌になった。


 結果から言えば今日のサークルのテレビ取材は成功だった。

 スパイスの分量を間違えたことだけはハプニングだったものの、試食コメント担当の男子が勢いで乗り切ったことで逆に盛り上がっていた。


 問題はその後だった。取材スタッフの中に桜子のコメントを取りたがる男がいて、しつこく彼女にめ寄っていた。もちろんサークルとは別の件でだ。情報番組のスタッフではなく、報道関係の人間がまぎれて着いてきたのかもしれなかった。

 幸いなことにサークルメンバーが間に割って入ってさり気なく壁を作ると、友人が付きって彼女を自然に逃がしていた。うちのサークルのメンツは少なくとも関係ない学生たちよりは良心的なのだ。もちろんその男もしつこく追うような真似はしなかった。


 その後、片付けを終えた心春がサークル棟で桜子に声をかけると、彼女からある頼みを持ちかけられた。


 それは目立たずに大学構内から出る手伝いをしてほしいということだった。「打ち上げ前にどうしても行かなきゃいけないところがあるの。お願い!」とわざわざ頭を下げられると、心春も嫌とは言い出しづらかった。

 それにさっきのやり取りを見ていると、桜子から何らかのコメントを引き出そうとする別の人間がいて、隙を見てコンタクトしてくるかもしれないという心配は浮かんだ。


 それでなくても父親についてのニュースのせいか、桜子はここ一週間ほど嫌に他人の目が気になると言っていた。心春も不躾ぶしつけな行動に困らせられている桜子が気の毒に見えたし、そのときは二つ返事で協力することにしてしまった。


 髪型は多少違うものの、心春と桜子は背丈や後ろ姿が似ていた。

 とりあえずは目立たなければいいという発想でアウターの交換という話になり、桜子のピンクのコートと目立つブランドのバッグを心春が身につけた。

 桜子のほうは心春のブラウンのジャケットと別の友人から借りた伊達メガネや帽子で変装し、別々に大学構内から出ることにしていた。


 しかし上着の取り替え程度で……と心春は疑問だった。スタイルについては自分のほうが良いという自負じふが心春にはあったが、服装を入れ替えてもどうも桜子のほうがはなやかに見えるあたり、持って生まれたものの違いを感じざるを得なかった。


 心春が背伸びした大学生が服に着られているような出来に対して、桜子は有り合わせにしては様になっている芸能人の変装のように見える。

 ただ、一人で歩いてみて感じたのは、他人は思いの外というかあまりに安易に服装の印象で春日井桜子を覚えているということだった。


 途中で桜子の友人らしい女子学生に後ろから声をかけられたが、人違いとわかると平謝りされた。特に顔を隠しているわけでもないのに、たまたますれ違う学生も心春のことを春日井桜子と認めると、興味ありげな視線を向けてくるのがわかった。

 反応はさっき会った男子学生と似たようなもので、少し歩き回っただけでも日常的に桜子がどんな目線を向けられているか理解させられて、それだけで心春は疲れてしまっていた。


 初めはいつも通り正門から出ようとした。でも結局は人と出会わないルートで敷地しきちから出たい気分になって、わざわざ学内を正門と真逆の方向に迂回うかいした。

 思った通り、職員駐車場の方へ向かうにつれ、他の学生と出会うことはなくなった。


 職員駐車場のすぐ近くの車両出入り口から敷地を出ると、古い街灯ばかりの暗い道が続いている。このあたりは夜になると学生は通りたがらない。少し距離はあるが古い商店倉庫の並ぶ通りと旧道の二本をまたげば大之木おおのき通りという幹線道路かんせんどうろに出る。


 スマホを見るともう少しで八時だった。いつも打ち上げをする神電かみでん通りのカラオケまでは歩けば二十分ほどだ。桜子と連れ立っていった友人の光由みゆから「まだ〜?」と気の抜けたトークが来ていたので返事を送ると、心春は暗がりの道へ歩き出した。


 やがて左手に「ハイツ坂岩さかいわ」と書かれた古い造りのアパートが見えてきた。玄関脇のスタンド灰皿でタバコを吸っていた住人が心春に視線を向ける。

 自意識過剰な気分が残っているのか、まだ春日井桜子として見られているような気がした。


 SNSでは今日のサークル取材の話題と、大学で桜子を見かけたという投稿がいくつか目につく。

 数分前にも『春日井桜子いた! 思ってたよりかわいい』というコメントつきで、言うまでもなく桜子の格好をした心春を盗撮した写真が上げられていた。


「思ったよりは余計じゃない?」


 と愚痴ぐちりたくなるが、いちおう顔は写さないだけの配慮はいりょはするのかと変に関心しつつ、桜子の日常に同情した。


「あ、そういえばマスターに送ってなかった」


 すっかり忘れていたことを思い出し、取材前に撮った写真を確認する。出来上がったカレーを一緒に写した自撮りを矢上に送って、しばらく画面を見ていたがすぐに既読も付かない。いつもながら反応は期待できないかと、わかりきっているのがほとんどながら肩透かしを食らったような気持ちになった。


 いつもなら最終コマがない月曜は、すのうどろっぷでシフトを入れている日だった。まかないを食べて、八時か半頃まで働いて──とはいえカウンター席で自由時間を過ごしているほうが多いので、こんな楽なバイトでいいのかとちょっと愉快ゆかいに思ってしまう。

 明日は休みだから明後日以降行ったときにめてもらえるといいなと心春は気を取り直した。


 ひとつめの交差点に差し掛かる。

 交差している通りは古い商店通りで倉庫が立ち並んでいる。明かりも人の気配もあるはずがなく、点在する街灯とはるか先の信号の明かりだけが頼りなく路面を照らしていた。

 信号待ちをしているあいだに車が一台通り過ぎた。真っ暗でもないが薄気味悪い道を横断し、心許ない気持ちを抑えながら早足で次の交差点を目指す。左手にコンビニがあって、交通量の多い旧道が交差している明るい道だ。


 ふと後ろから自分のものとは別の足音がした。さり気なく振り返ると暗がりから男が着いてきている。不審者と断定するのも相手にはいわれのないことだろうが、こちらはどうしても警戒けいかいしてしまう。こんな格好じゃなければとかこんな場所を歩いていなければとか、後悔とともに怖さが頭をもたげてきた。


 これでも中学では陸上、高校ではサッカーで走り通しだったのだ。パンプスでも逃げるだけの根性はあるところを見せる自信があった。それにもう少し行けばコンビニがあるのだから、け込んでやり過ごせばいい。


 心春は背後を気にしながらわずかに歩く速さを上げたが、男も同じように離れず着いてきているような気がした。コンビニの明かりが見えるとともに次の交差点が見えてくると、ちょうど点滅している歩行者信号が目に入る。コンビニに駆け込むか渡りきって振り切るか、心春は迷ったものの意を決して走り出した。


 多少息も切れたが、赤に変わり切る寸前で両側二車線の道を渡り切ると、心春は振り返って男の姿を探した。フード姿の男が電話をしながらコンビニへ入っていくのが見えた。杞憂きゆうだったと安心した心春はうついて息を吐く。


「気にしすぎだし……ダサ」


 気持ちが張り詰めて急に疲れた気がしたが、とりあえずもう数十メートルで大之木おおのき通りだと思うと落ちついた。少し歩いて右側に渡ろうとしたとき、ちょうど左折してくる車が数台あった。路肩に避けてやり過ごしていると電柱の壊れた街灯に気がつく。


 こういう場所が意外と危ないんだよなと何気なく上を向いたとき、通り過ぎるかと思ったバンの最後の一台がすぐ横に急停車した。

 心春が気づくのと同時に後部座席のスライドドアが開くと、車内から腕が伸びる。心春の身体が一瞬で中に引き込まれると、車はすぐに発進した。


 何が起きたのか理解しきれず、混乱した頭で悲鳴を上げる前に猿ぐつわをまされた。手足はおそらく男の大きな手で押さえられている。やや遅れて身じろぎもできないほどの恐怖が身体を駆け巡ってくる中、心春は今日何度目かの見当外れな呼び方を聞いた。


、二十分後に合流」

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