第4話

 男たちが言い争っている。

 冷たい床に座らされた心春こはるは何も考えられず、ずっと耳から入ってくる不快な声をただ聞き流していた。


 誘拐された。

 顔に布を被せられ、手足もしばられたうえ声も出せずに、ただ車に揺られ続けた。体感ではよくわからないが、おそらく二、三十分程度走ったあと車から降ろされ、今度は箱のようなものに押し込まれて台車で運ばれた。

 そのあとエレベーターに乗ったのがわかったので、ビルのような高い建物の中に連れてこられたようだった。車を降りたときにか感じたしおの匂いで、ここは海の近くなのだとわかった。


「どうすんだよ、あぁ!?」


 目の前で言い合っていた二人のうち、撫でつけ髪の男の方がもう一人を怒鳴りつけていた。

 箱から出されたあと、柱のようなところにくくり付けられた。目隠しの布が外されると、そこは工事中のフロアのような場所だった。 手首に食い込むロープが痛い。


 天井から無造作に電気コードに繋がれた電灯がぶら下がっている。全体を照らすほどではなく部屋全体は薄暗いが、少し見回すとダイバースーツやツナギのような服装をした、上から下まで黒で揃えられた姿の男たちが居並んでいた。

 いま目の前にいる撫でつけ髪の男は、体つきは細いが身長が矢上と同じくらい、目つきが鋭く、一人だけジャケット姿だ。


 よく観察すると正確には男二人は言い争っているわけではなかった。撫でつけ髪の男がもう一人を一方的に叱責しっせきしているように見えた。男の手には心春の身につけていたパスケースから抜き取った学生証がある。もう一人の男は短髪にふち無しの眼鏡姿、しゃべり方から車の中で聞いた声の主に思えた。

 心春を捕まえて春日井桜子と言った。

 それは間違いだと叫んでやりたかったが口は猿ぐつわを噛まされている。


「春日井桜子つったよな、なんで関係ねえ女を連れてくんだよ、え?」


 連れ去られてからどれくらい時間が経ったのかわからない。一度騒さわごうとしたがほほを平手で打たれ、心春は痛みと混乱で少しのあいだ意識を逃避させていた。

 そうして周囲の様子を目に入れていなかったが、改めて置かれている状況を理解しようと頭を働かせはじめていた。


「だからこれが春日井の娘かって聞いてんだよ。あ?」


 平謝りする眼鏡の男は、しっかり写真や服装を確認して連れてきたと弁解していた。大学内でも監視し、ターゲットの見た目もチェックした。そのうえで一人になるまで追跡して実行したのになぜ別人なのかわからない。

 そんなことを繰り返し言って、自分に非が無いかのように説明をしようと試みているようだったが、眼鏡の男本人も混乱しているようだった。


 ああ、と心春はさっする。

 やはりこの男も、服装しか見ていなかった。

 SNSに上げられた画像で判別した"春日井桜子"を狙っただけなのだ。確認している暇がなかったか、目立つ服装があまりに春日井桜子の印象を強めていたか。

 たまたま心春が入れ替わったことで桜子は難を逃れただけ。

 それが今日、起きてしまった。


 なんで今日。

 いまの状況に置かれても、心春は本当のターゲットの桜子がどうこうなればいいとは思わなかった。ただ急に、取り違えられたことで起きるだろう結末を想像してしまった。

 政治家の娘を誘拐するつもりが関係ない女子大学生を連れ去ってしまった。

 目的はわからない、ただそれでも間違いは間違いだ。


 身代金? 父も母もきっと払うだろう。それで無事に帰れるのか?

 目的が違ったら?

 桜子でなければ意味がなかったとしたら?

 人違いの心春はどんな扱いを受ける?


 目の前の男たちがただの誘拐犯ではないように思えてきた。もしかしたら無事に帰れないかもしれない。心春の頭の中でよくない考えと、関係のない想像が湧き始める。

 そういえば借りた本をまだ図書館に返していない。お母さんの誕生日プレゼントをなんで買っておかなかったんだろう。高校のときに浮気されて別れた彼氏の顔がちらつく、なんであのとき殴っておかなかったのか。こんなことなら月南堂の新作シュークリームを昨日食べに行っておけばよかった。


 人間はいざというときになると、よくわからないことを想像し始めるのかとある意味で冷静に心春は自分の心境しんきょうを理解した。

 そうしているうちに泣きたいわけでもないのに涙があふれてきた。誰かを責めたいでも悲しいでもない。

 そして最後に、マスターにテレビの感想聞けないなと思った。

 心春の様子に気付いたのか、撫で付け髪の男が目の前にしゃがみ込んで後ろの男にまくし立てる。


「おい、泣いてんじゃねえか。めんどくせえな。困ってんじゃねえかよ、おじょうちゃんもよ。ほんとに寄せ集めで使えねえのばっか集めやがってよ」


 わざとらしいため息をついて、男は心春に向き直った。


「俺、向井」


 と名乗って学生証をパスケースに戻し、そのまま心春のコートのポケットにねじ込んだ。


「こっちの事情に付き合わせて悪いなお嬢ちゃん。人違いだったんだよな。だってこんな似てる格好してなきゃなあ」


 親身しんみな口調で話かけてくるが、絶対に本心ではないことがわかった。目つきに優しさが見える気がしない。


「お互い面倒だもんな。不幸な出会いってやつだ。できれば穏便に解決、したいよな?」


 口元は笑っているが、視線は心春の目を見て外さない。

 目をらしたら何をされるかわからない気がした。笑っていないというより、射抜いぬかれるような怖さを覚えると例えたほうがいい人間の目を初めて見た。


「何か言いたいことあるか? ああ、これじゃしゃべれねえか」


 向井と名乗った男が心春の猿ぐつわを外す。しばらくぶりに深呼吸ができて、心春は少し息を整えるとぽつりぽつり言葉に出した。


「何……、する……ほしいの、帰れば……」


 それでも舌がもつれた。少しは落ち着けたかと思ったのに、まだ混乱していて頭の中で思ったことがうまく口に出てこない。

 家に帰してほしい。聞き入れられるかは別として、それだけは言いたかった。

 向井は目の前に胡座で座り直すと、心春の意図が伝わったかのように大げさに腕組みをしてうなづいてみせた。


「わかるわ。俺も昔ゲリラに捕まってるされたときは何も出てこなかったもんな。隣でフランス野郎がクソみてえな情報をベラベラしゃべった挙げ句に、崖の方に連れていかれて戻ってこなかったしな。まあでも帰りてえのはそうだろな。」


 今度は少し愉快そうにひとりで勝手な内容をしゃべっては心春の服の乱れた襟元えりもとを直したり、肩口のほこりを払うように触れてくる。心春の顔をのぞきこんだり、身体つきを見るような視線をして少し考えこんでいるようだった。


「まあこっちも予定と違うことになったから早く引き払いたいんだ。いろいろ片付けることもあるしな。面倒は処分したいし、お嬢ちゃんもさっさと自由になりたいだろ? で、ひとつだけ聞いとくわ」


 向井の上がっていた口角が下がり、無表情になる。視線は相変わらず心春を冷たく見据みすえてくる。

 背筋を汗が流れ落ちるのがわかった。そして心春がわずかでも期待したような展開を、向井が与えてくれる気がないことも。


「海で泳ぐの好きかい?」


 死んだ魚みたいな目だ。向井の瞳は光がない淀んだ黒色をしているように見えた。 

 にわかに潮の匂いを思いだして、胃から吐き気がせり上がってきた。



 矢上がバイクで情報にあった神居港かむいこうのビルに到着すると、動画で見たバンがまっていた。

 注意して建物に近づき、停車場所の近くの搬入口はんにゅうぐちらしき場所から中の様子をうかがう。中では作業着姿の男が一人、暇そうにエレベーターの前を歩き回っていた。工事の作業員が休憩にぶらついているだけとも思えたが、足取りや身のこなしから一般人には見えなかった。

 観察した限りでは銃器をたずさえている様子はない。


 男の視界に入らないよう、矢上は身をかがめて搬入口から素早く中に滑り込むと、積まれた資材の陰に入った。エレベーターのそばに階段があったが、気づかれずに上に昇ることはできそうになかった。

 矢上は息を殺して、男が後ろを向いた隙に背後に忍び寄った。足音は立たなかったが、気配を感じたのか振り向いた相手が驚いた顔をした。矢上はその瞬間にほとんど相手の反応できない速さで右の拳を眼前に突き出すと、顔面に当たる直前で精密に動きを寸止めする。


 次いで男が反射で目をつぶったのと同時に、左の拳でみぞおちに二発叩き込んだ。そしてうめき声を出す間もなく男がかがみ込む前に追いこみの一撃で顔面を捉える。

 昏倒こんとうしたのを確認すると矢上は念の為相手の身体からだを探った。思った通り、やはり銃器は持っていなかった。


 エレベーターは避け、階段へ向かう。

 二階、三階と慎重に様子を探ったが人の気配はなく、四階へ向かうと階段から少し離れた一室の前にまた男が一人立っていた。物陰からのぞくと棍棒のような太さの海外製の懐中電灯を持っているのが見える。

 今度も銃器は持っていそうにない。目測では相手まで一息で駆け抜けられる程度の距離だった。

 矢上は踊り場に戻ると、放置してあった塗料の中からスプレー缶を持ち出す。見張りの注意が向くように、目的の方向とは逆の廊下に缶を転がした。


 静寂の中に響いた金属音にドア前の男が反応する。

 少し間を置き、足音がこちらへ近づいてきたところに正面から襲いかかった。

 勢いのまま顔面を掴むとそのまま脇の壁に叩きつけ、空いた拳で胴の急所に連打を加えた。そしてそのまま頭を掴んだままドアの方へ寄せ、さらに頭を叩きつける。男を無力化したと同時に、ドアの向こうがざわつくのを感じる。

 警備に立っていた男たちを見るに、警戒はしているようだったが第三者の来訪を想定している雰囲気はない。中に何人いるのかわからないものの、制圧ができない状況である可能性は低いと矢上は踏んだ。それであれば時間はかからないはずだ。

 足元で伸びる見張りの襟首を猫のように掴んで引き上げる。

 この中に心春がいる。矢上は深く息を吸い、ドアに手をかけた。

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