第一章 黎明 前編

 一平の部屋からは、1冊100ページのB5サイズの一般的なノートが20冊見つかった。そのうち12冊は一平の日記、8冊は父親による治療経過の観察日記のようであった。必ずしも両者ともが毎日記載していた訳ではないようで、それぞれの日付の一致する部分を参照して同時に読んでいくことで状況が理解できそうだった。苧ヶ瀬は日付が最も古い皇紀2682年2月の日記を開いてみた。まず目に入ったのは、読むことを脳が拒否するような、ミミズが這った跡の如き筆跡である。彼はまるで異なる言語体系に触れたような感覚に襲われた。

※原文ママでは非常に読みづらいため、以下は苧ヶ瀬が(きっとこう読むんだろう)と理解した内容を記載します。また、日記の筆者は逐一記載します。


一平

“2がつ15にち”

“ な   ん ”


「……何だこれは……?いや、“なん”だこれは……」

まるで使い古されたギャグのようなセリフが自然と溢れ、苧ヶ瀬は思わず笑ってしまった。おそらく、何でも書いて良いと言われて“なん”と書いた、のような屁理屈であろう。小学一年生がやったならまだ可愛げもあるが——

「この頃、一平君は確か38か39とかだったよな……よくも恥ずかしげもなく……」


一平

“2がつ16にち”

“ぽせがあああ けれれ ちよまむるに てけれ”


「日本語になってないし、平仮名だけで書かれている……ネット上では拙いながらも漢字を交えた日本語で迷惑メッセージをばら撒いていたが、手書きだとこうなのか。」

ただの迷惑中年の行為の裏に、知能の問題があった事をひしひしと感じる。だが、一平の日記だけを読んでいても何の情報も得られないと判断し、苧ヶ瀬は父の記録を参照することにした。父の記録は、一平が日記を書き始めるより前の日付から始まっていた。


“皇紀2682年2月3日”

“いくら言い聞かせても問題行動をやめない一平を、かかりつけの県病院の精神科に連れていったところ、主治医から治験への参加を提案された。なんでも、アルツハイマー病治療の新薬と、ある種の分子標的薬とやらを併用することで老年期以前の認知機能の低下を改善させる、ひいては知的能力の向上が見込めるという動物実験のデータがあり、第二相試験を行うので参加しないかとのことだ。実際にヒトの治療として承認されて保険が効くとしたら、年間500万円くらいかかる治療らしい。だめでもともと、このまま放って置いても飯食ってうんこして寝るだけの生活、それを繰り返して死ぬだけの生き物や。まともになって人に迷惑をかけずに生きてくれればよし、副作用でくたばってもよしと思い受けることにした。週1の点滴と毎日の飲み薬を続けるが、最初は教育も兼ねて入院で治療を開始するらしい。泣き喚く一平を病院に預けることにした。”


“同年2月4日”

“一平は閉鎖病棟のベッドにオムツ一枚だけ着た状態で拘束されて唸っていた。拘束された状態でベッドがガタガタ音を立てている様子に軽く恐怖を覚えた。なんでも、治療前の状態評価のために行った知能試験の最中にふざけて奇声を上げたり拍手をしてまともにやらなかったため、それを咎めた臨床心理士の女性に手をあげて負傷させたらしい。あんな業人のために怪我を負わせて本当に申し訳ない。ほんの軽傷だし事故なので、と言われたがワシの気がおさまらない。後日しっかりとお詫びしよう。オムツ一枚しか着用していないのは、点滴の際に泣き喚いて便失禁したからとのことだ。また、事あるたびに抗議の意味を込めて排泄するらしく、家では見せない動物性が発揮されている。我が息子ながら穢らわしい。下の娘二人は養子に出して正解だった。こんな汚物が娘たちに生涯付きまとうかもしれないと考えると死んでも死に切れない。”


“同年2月14日”

“教育入院と初期投薬が終わり、一平が退院してくることになった。態度や言動を見るに、入院前より少し落ち着いたように見え、こちらの指示に素直に返事をするようになった。退院後の約束として、薬をしっかり飲むこと(目の前で口を開けて飲み込んだことを確認)、毎日何でもいいから日記を書くことを決めた。守れなかったらスマホ没収、暴れたらまた入院させると言い聞かせた。”


“同年2月15日”

“初めての日記は『なん』と書かれていた。何でもいいから書けとは言ったが、小学生以下の屁理屈。馬鹿にされているように感じ、つい無言で一平の頬を張り倒してしまった。しまったと思ったが、一平はいつものように奇声を上げることなく黙って俯いていた。その様子に、いささか申し訳なくなり、済まないと謝ると、一平はわざとやったことだから自分の方が悪いと言ってきた。聞き分けが良くなったばかりか謝ることも出来ることに驚いた。既に治療の効果が表れ始めている?これからは今までの一平と同じに考えてはいけなさそうだ。日記については、内容はそれなりに考えるよう伝えて置いた。”


“同年2月16日”

“今日の日記は意味のない文字の羅列であった。どういうつもりで書いたのかを聞くと、本当に何を書いていいかわからないので新しい言葉を考えたと言う。ふざけているのではなく一平なりに真剣なのだろう。日々思ったことを書けばいいじゃないかと言うと、良いことも悪いことも特になくて書きたい内容が無いのに書かせるのは酷いと訴える。そこで、試しに以前読ませた釈迦の本を読ませる事にした。一度読んだしもういいと言われたが、前と違う感想があるかもしれないから試してみろと言い聞かせた。”


一平

“2がつ17にち”

“きようわおとさんにたたかれなかた まえよんだおしやかさまのほんおよめといわれた またかよとおもたがあまりにおとさんがすすめるものだからよんでみようおもた

いちぺじひらいてシヨツク なにかいてるかいちみりもわからない まえよんだのにどうして

かんじがよめないから なにかいてあるかわからない

なぜぼくわまえよんだときふしぎにおもわなかた

なんでわかつたきになつてた

わかつた ぼくわなにもわからないことがわかつた

どうすればいい あしたおとおさんにきく

ほんとうわこのほんになにがかいてあるのかしりたい”

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